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ペルソナの契約

作者: 藤樹(ハンモック職人)

『小説家になりたい人は、小説になれない。小説を書きたい人が、小説家になれる』


作家・田中芳樹先生の言葉を※要約しました(※実際は長い)

その言葉を胸に〘小説家になろう〙に投稿します。

小説家になりたいのか?

小説を書きたいのか?

自分自身に問いかけて、完成させました。

拙い文章かもしれませんが。

最後まで読んでいただけたら幸いです。


『時を止まれ、お前は美しい』


ゲーテ・作〘ファウスト〙より



プロローグ。


私は喫茶店にいた。

40歳になった中肉中背の男がイスに座り、目の前には1枚の紙と羽ペンが置かれている。

すでに1時間、頼んだコーヒーはスッカリ冷めてしまった。

異様な光景だと思うが、喫茶店の客の多くは、スマホをばかりを見て、全く気づいていない。

まるで自分が存在していないようだ。

「まだ、迷っているの?」

横から声が聞こえた。

艶めかしい女の声だ。

その女は客でも店員でもない。

「無視しないでよ、あそっか、アナタ以外見えないんだっけ、喋ったらアブナイヤツって思われちゃうか? でも、大丈夫、誰も見てないわ、みんな自分の世界に入っている、アナタは居ないも同然、そして、この契約書にサインすれば、アナタは文字通り居なくなる……人生はリセットされる」

この女の名はメフィスト。

悪魔である。

そう私は悪魔と知り合った。


一週間前。


私…近藤修一は歩きながら家路についていた。

その日、私は勤め先の工場をクビになった。

原因は不況、真面目に働きながら大学に通い。

卒業の年にクビになった。

ショックだった。

しかし、これまでの苦境を比べれば大した事はない。

高校卒業後、しばらくして、父が病に倒れて働けなくなってしまった。

進学を希望していたが、その希望は叶わず、父の介護が始まった。

働きながら父の介護、正規雇用は望むべくもない。

母と姉と妹と私で、父の世話をする。トイレと風呂は私の役目だ。

しかし、6年後、姉も妹も結婚して家を出た。

それ以来、母と私で父の介護を続けた。

2年後、父が亡くなった。

やっと終わった。

悲しみよりも、介護から解放された安心感の方が強かった。

そんな私に母は言った。

『あなたが居なかったら乗り越えられなかった、ゴメンね、苦労を掛けたね、もう私の事は良いから、自分のしたい事をしなさい』

私は大学に通うことにした。

通うと言っても、通信制大学だ。

働きながら学ぶのだから当然だ。

本好きで、文学部に入りたかったが、なるべく学費の安いところなると……通信制には無かった。

あったのは商経学部と法学部。

法学部は難解で、とても付いて行けなかった。

結局、商経学部で商業経済を学びつつ、総合科目で文学を噛じった。

幸い商業や経済の内容は意外と面白く、苦にはならなくった。しかも入学した翌年、スマホやタブレットなどを使ったリモート授業が始まった。

場所を選ばず、働きながら学ぶには好都合だ。

時代が味方している。

働きながら学び、お金も貯まって行った。

そして6年の歳月が流れた。

単位も取り終え、いよいよ卒業。

学業も仕事も絶好調のはずだった。

しかし、再び不況が襲った。

そしてクビになった。

失業したその日は、私の40歳の誕生日だった。 


「ただいま……」


夕方、力無く、自宅の玄関を開ける。

お帰りなさい……の声は無い。

私は母と同居していた。

いつもなら母と猫が迎えるのだが、今日は母は出掛けている。

地元の集会所でお喋りだ。

もうしばらくは帰って来ない。

静かだ、猫も来ない。

どこかで寝ているのだろう。

まあいい…今は独りになりたい気分だ。

自分の部屋を開けると、見慣れた光景が広がった。

本棚に本、机にも本、床にも本、床の本は畳が見えないくらい積まれている。

ラインナップは三島由紀夫の【豊饒の海】司馬遼太郎【竜馬がゆく】吉川英治の【三国志】他にも海外文学などがある。

また、商業や経済関係の本がズラリ。

真ん中に敷かれた布団の上だけが、足の踏み場となっていた。

寝ようと思って横になると、枕は行方不明。

良くあることだ。

私は本の山からゲーテの〔ファウスト〕を取り出し枕にした。

そして、寝入ってしまった。

「う〜〜ん…」

どのくらい寝ただろう?

ふと目覚めると、日は沈んでいた。

「お目覚めね? 疲れは取れた?」

私は氷ついた。

聞き慣れない女の声と……。

「ニャ〜ゴロゴロ」

聞き慣れた猫の声。

黒茶色のキジ猫はその女に甘えていた。

長い黒髪に服装も黒1色。

服装自体は、ベトナムの民族衣装(アオザイ)をおもわせた。

妖艶な笑みを浮かべ、こちらを見た。

私は驚きの余り、後ろに倒れ、積まれた本の山も倒してしまった。

ドカドカと大きな音が部屋中に響いた。

「どうしたの?」

これは母の声。

「何かあったの?」

ドアが開いた。

母は帰って来たばかりのようだ。

化粧も落としていない。

私は声も出なかった。

母と女は目を合わせた。

『あら、ミーコ(猫の名前)また、驚かせたのね、貴女はすぐにどこかに隠れて、急に現れて驚かせる……困ったモノね、拾って1年になるけど…修一、いい加減アナタも慣れなさい」

「母さん、見えないの?」

「何が?」

「女だよ」

「寝ぼけないで、ミーコがいるだけじゃない」

「……………」

「すぐに夕飯にするから、早く散らかした本を片付けなさい、どうせ積み直すだけなんだから、すぐ終わるでしょ?」

「……………」

「閉めるね」

母は部屋を出た。

女はクスクスと笑い、ジッとこちらを見ている。

「思った通りの反応ね、貴男はいま、自分が夢か幻を見ていると思っている、でも夢じゃなければ何だろう、何でお母さんには見えない? 自分と猫には見えている?」

「……アッ!?」

「猫は昔から、私達と仲が良いの、まあ猫だけじゃなくて狐や狸も、あとカラスもね」

いったいこの女は何を言っているんだろう?

「話の続きは夕飯を終えたらでいいわ、待ってるから」

「……………」

「大丈夫、部屋を荒らしたりしないから、あ……でも、ふふふっ」

「…………」

私は夕飯を済ませに部屋を出た。



夕飯は簡素なモノだった。

惣菜とコロッケ。

母は帰りが遅くなったから、出来合いのモノで済ませる事にした。

ゴメンね〜と、言う母に私は笑って応えた。

そして、今日の出来事を聞かされる。

他愛もない、〇〇さんの旦那がとか、飼っているペットがカワイイとか…。

男に取っては退屈な話しかもしれない。

しかし、これが今の自分にできる、唯一の親孝行だ。

小一時間は聞いた後、私は部屋へ戻った。


「お帰りなさい」

「……………」

女は普通にいた。

「そんな怖い目で見ないで、良い話を持って来たんだから」

「良い話!?」

「そ、良い話」

「……………」

「疑ってる?」

「ああ、名前も何も知らない怪しい女の言葉を信じろと?」

女は笑った。

「そうね、ごめんなさい、私はメフィスト……悪魔よ」

「……………」

「貴方が信じるか信じないかはともかく、私の声と姿は貴方以外には分からない」

「ニャ〜〜」

「アナタは例外ね」

女・メフィストは猫を撫でた。

何故か、私は女の言葉を疑わなかった。

不思議な感覚だった。

それは自明の真理だったと思う。

世の中は不公平だ。

無能な神様より有能な悪魔の方が頼りになる。

そんな願望があった。

「で、良い話ってなんだ?」

「フフフ…」

「乗るか乗らないかは、内容に寄るぞ」

「フフフ…分かってるわ」

女・メフィストは1枚の紙と羽ペンを取り出した。

「契約内容は、この紙に書いてある通り、後は貴方が書くか書かないか?」

私は一通り、契約内容に目を通した。


【人生の節目に3回戻れる、キャンセルは一回、ただし、キャンセルを後悔した場合……アナタの生命、または匹敵するモノを奪う】


最後はキャンセル料ってことか……。

『悪い話じゃないでしょ?』

「ああ……でも、最後の生命に匹敵するモノって…!?」

「その時の私の気分ね、躊躇する人が多いから……これで保険が掛けられて、安心してキャンセルできるってワケ」

「……………」

「迷っている?」

「……………」

「ゆっくり考えるといいわ、後悔しないでね、フフフ……」

霧が消えるように、メフィストは消えた。

紙と羽ペンだけを残して……。

私はうつむき、紙と羽ペンを手を伸ばした。

すると、猫が仕切りに羽ペンにじゃれてきた。

普段なら気にしない猫の動作だ。

しかし、この時は書くなと言っているように見えた。



それから一週間、悩んでいる。

それまでに、卒業アルバムを読み、年表を開き、図書館に出入りをした。

自分の人生のこれまでの節目や、時代の節目を調べた。

考えがまとまりそうで、まとまらない。

心の奥で何かが引っ掛かっている。

眉間のシワがよる。

貧乏ゆすりが始まった。

「人間は不確実な事を避けたがる、例え失うモノが何も無くても……」

横からメフィストが喋り出した。

「1回はキャンセル出来る、後悔しなければ、損すること無いわ」

「…………」

「ココロは決まってるんでしょ?」

「ああ…」

私はゆっくり羽ペンを手に取った。

「インクが無い……あ!」

私は目を見張った。

指先から赤いモノが流れてきた。

全く痛みは無い。

気持ち悪い。

血を抜かれている。

ペン先は真っ赤に染まった✑

横を見ると、メフィストはクスクス笑っている。

私は構わず、契約書に名前を書いた。

『さあ、思い浮かべなさい、貴男の人生の節目を……そして、呪いなさい、自分の人生を狂わせた瞬間を』

鐘が鳴るように、メフィストの言葉が頭に響いた。

次々に記憶が浮かび上がった。

巻き戻し、早送り、スロー。

『さあ、いつにする?』

私は一言。

『ここだ……』

一瞬、地に足が着かなくなった。

まるで、床が抜けたようだ。

悲鳴を上げる間もなく。

私は落ちて行った。


第三章


『どうした!? 近藤、ボウとして?』

「……!?……」

目の前の人物に、声が出なかった。

私は振り絞るように声を出した。

「先生………!?」

「……?……」

私と目の前の人物は机を挟んで、互いに椅子に座っていた。

その人物はキョトンとした顔でこちらを見た。

小柄ながらしっかりした体格の男性教師。

英語担当なのに体育教師の風格のある男。

間違い無い。

中学3年の頃の担任教師だ。

私はキョロキョロ周囲を見渡した。

並ぶのは碁盤の目のようにある机と椅子。

緑色の黒板に時間割表。

そして、カレンダー………カレンダー!?

私は思わず立ち上がった。

1996年10月!?

「まさか………ア!?」

私は自分が学ランを着ている事に気付いた。

そして、教室の窓に写る自分の顔を見た。

15歳の自分がいた。

「戻って来た……」

私は深く言葉を吐いた。

「何が戻って来たんだ? 急に立ち上がって? どうかしたか?」

「いえ先生、何でもありません、何の話でしたっけ?」

「進路相談だろ、さっきからずっと、その話をしてるだろ」

「ははは……」

「で……どうする? ここにするか?」

「ここ……!?」

「そうここだ」

担任教師は学校のパンフレットを指した。

机の上には、多数の高校の紹介用パンフレットが置かれていた。

思い出した。

私はこの時、学校生活に滅入ってしまい、投げ槍な気持ちになっていた。

望みもしない受験や競争に巻き込まれる状況。

でも、中学を卒業すれば、高校へ行くのが当たり前。

世間の常識に逆らう恐怖。

学校に通うのは嫌だが、通わない恐怖の方が大きい。

「ここなら、何の競争も無いぞ、取り敢えず通学すれば、卒業はできる」

担任教師の言葉に嘘は無かった。

以前はここで頷いて、進路が決まった。

通う事になったのは教育困難校。

宿題も一切出ない夢のような学校だった。

だが、夢はたちまち悪夢となった。

落ちこぼれが集められ、何もすることが無い環境に放り込まれたら、どんな行動を起こすか?

まさに混沌(カオス)

私はこの時、知る由もなかった。

しかも私は完全に、その学校から浮いていた。

息苦しい。

受験地獄から解放された先は、さらなるの地獄だった。

私は声を挙げた。

「先生……俺さぁ…考えたんだけど」

「……ん?……」

「通信なんてどうかな?」

「通信!?」

「はい……通信」

「う〜〜ん」

教師は苦虫を噛んだような顔をした。

「通信制は通学できない奴が行く所だ、お前は通学できるじゃないか?」

「ええ……でも」

「それに通信制高校は……」

「言いたい事はわかります…先生」

現在でも通信制高校に通う事を、(こころよ)く思わない人も多い。

ましてや当時は数も少なかったため、世間の風当たりも強い。

「でも、メリットも大きいですよね? 学費は安いし、進学すれば、どこの高校出たなんて、誰も気にしませんよ」

「まあ……そうだな」

担任教師は立ち上がった。

「待ってなさい、通信制高校の資料を取って来る」

「は……はい! ありがとうございます!!」

「……!?……」

私の満面の笑みを、担任教師に返した。


学校からの帰り、私は通信制高校の資料を持って、家に着いた。

家に戻ると、そこには母と姉と妹がいた。

感慨深いものだった。

まだ、家庭が平和な時である。

母に話し、姉に話し、妹に話した。

その間に父も帰って来た。

父だ。病気で倒れる前の父。

痩せこける前の父。

学生時代、砲丸投げで鍛えたと言っていた父。

身体は資本だと、健康が第一だと、常に言っていた父。

数年後、脳病に罹り、殆ど動けなくなる。

まさか、自ら範を示す事になるとは、思いもしなかっただろう。

この時は、まだ市役所に務める地方公務員として健在だ。

実直に勤めてくれたおかげで、我が家は不況の煽りを受けずに済んだ。

その父が、いま私の目の前で私が持ちかえった高校の資料を見ている。

「通信制……」

父は首を傾げた。

「いいのか?」

父の問いに私は迷い無く答えた。

学費も安く、時間もある。

たっぷり本を読むなりして時間を潰す。

「父さんも歴史小説が好きだろ、司馬遼太郎や池波正太郎、新田次郎……父さんとも議論がしたいんだ………元気なウチに…」

「……!?……」

「ああ…ごめん何でもない」

「……………」

父は少し考えたあと、1つ条件を付けて来た。

それはアルバイトをすることだった。

「元より、そのつもりだよ父さん、本を買うにもお金がいるからね」

「そうか」

嘘だった。

父の機嫌を損ねないための方便だ。

本は図書館で充分に賄える。

でも、アルバイトの経験は自分のためになる。

私は通信制高校入学と同時に、アルバイトをする事に決めた。


翌日。

私は学校を終えると図書館へ向かった。

借りるのは古典、国内外問わず、良作を読むためだ。

90年代、私はファンタジー小説(現・ライトノベル)ばかりを読んでしまっていた。

流行(ブーム)だったとはいえ…。

色んな本を読むべきだった。

ファンタジー小説は、言わばお菓子みたいモノで、それしか読まない事は、教養を嗜むうえでは間違いだ。

これは栄養があると言っても、同じモノばかり食べれば、不健康になるのに似ている。

バランスよく教養を嗜む。

これこそが教養人。

学校は5時に終わり、私は走った。

図書館は早ければ、6時半には終了してしまう。

図書館が見えた。

図書館はドーム状で磨かれたように輝いている。

夕陽によってではない。

そうか、改修されたばかりなんだ。


中に入ると、私は急いで、文学書の棚に向かった。

夏目漱石に森鴎外、有島武郎……あとは海外文学も。

ロマン・ロランの【ジャン・クリストフ】トルストイの【戦争と平和】あと、スタンダールの【赤と黒】

「おっと!」

「……きゃ……」

私は隣に女性が居ることに気づかなった。

セーラー服に丈の長い黒いスカート。

典型的な女子中学生。

ぶつかった女性の手からは本が落ちた。

スタンダール【恋愛論】と夏目漱石【三四郎】

私はそっと拾って陳謝した。

「ご、ごめん、ぶつかって……えっ!?」

「……はい!?」

私は言葉に詰まった。

その女性には見覚えが……。

「何か…?」

「いえ……何でも…」

「………?………」

私はそそくさと、その場を離れた。

間違い無い……。

私は中で1つの思いでが蘇った。


25年前、教育困難校に入ってしまい……。

後悔に歳悩むなか、私は1人のクラスメイトと仲良くなった。

やや小太りのその男。

名字が【(へい)】と云う珍しい奴だった。

競争したくない。

楽しく学びたい。

教師に紹介された。

後悔している。

境遇が私と同じだったのでウマがあった。

おかげで家に一度だけ上がる事になった。

そこで妹を紹介されたのだ。

細い……。

兄と全く似ていなかった。

今思えば、その瞬間、脳がバグった。

そう恋に落ちてしまった。

しかし、その恋は長く続かなかった。

1年目の夏休み明け。

二学期が始まった時、弊は学校を去っていた。

ショックだった。

家に行こうと思ったが……やめた。

私の前では常に笑顔だったが、離れると机に顔を埋めていた。

学校に通うのが辛かったんだろう。

結局、私は弊の妹に、想いを伝える事すら出来なかった。


間違い無い。

声をかけるべきか?

でも、声をかけるにしても、タイミングを考えると……。

経験上、誰かの紹介とした方がうまく行く。

『迷ってるね?』

横からメフィストの声がした。

「貴方はナンパするタイプじゃないものね?」

「………………」

「リセットできるよ、どうする?』

『な、何言ってる!? する訳ないだろ、一時の情に流されて、後悔したくないからな』

『ホントにそう?』

『そうだよ!』

つい声を荒らげてしまった。

図書館にいる事を忘れて……。

私は周囲の視線を尻目に、そそくさと図書館を出た。


家に帰ると、一気に疲れが出た。

机に座り、私はメフィストに訪ねた。

『……いるか?』

『いるわ、なに?』

『いつまで、この時に留まれる?』

『眠ったら終了、次の時に跳ぶわ』

『………そうか』

『未練があるのね』

『…………………』

 私は何も答えなかった。

未来を変えるとは、苦痛を伴うんだな。

それでも彼女に一目逢えただけでも、良しとするしかない。

私は椅子から立つと、隣のベットに横になった。

この頃は部屋にベットがあった。

古くなって、本棚の置き場所も欲しかったので、いずれ処分することになる。

この時は、まだ新品だ。

新品のベットの上で、私は静かに目を瞑った。



ベットの感触は一気に無くなった。

また、底が抜けたように落ちていく。

眼の前には通信制高校に通いつつ、アルバイトに励む私の姿……。

アルバイトは工場でライン作業をしている。

大量のダンボール箱が、フォークリフトによって運ばれて来る。

私はカッターナイフを使って箱を開けていく。

中から洗剤容器が出てきた。

すると、パートおばさん達が現れ、洗剤容器を店舗用の箱に詰めていく。

作業は6時間ほど。

そして家路に着く前に勉学に励む。

完全に大学に通っている間のルーティンだ。

やることは同じだ。

そして、時が過ぎて、通信制高校の卒業式が始まった。

真面目に通ったようだ。

私はホッとした。

しかし、問題はこの後だ。

私は父と話をしている。

通信制大学のパンフレットを見せて、そこには【図書館司書】とあった。

なるほど、私らしい。

本に囲まれて暮らせれば最高だ。

私は目を覚ました。


「ここは……?」

私はエプロンをしていた。

カタカタと目の前で、機械が動いている。

ベルトが回っている。

運ばれているのはハガキ……。

ここは郵便局だ。

まだ民営化される前の……。

目の前にあるのはハガキを仕分けする機械。

「おはよう」

「……!?……」

後ろから声がした。

振り返ると、同じエプロンをした若い女性がいた。

懐かしい顔だ。

小柄でセミロングの髪を後ろに縛り、年齢は28くらいだったか?

郵便局で働いた時、唯一携帯番号を交換した。

なぜか、女性の方から交換しようと言ってきた。

ところがその後、何の進展もなかった。

なぜなら女性には彼氏がいた。

そして彼氏の話をよくしていた。

確か彼氏には聴力障害があって……でも、そんな彼を支えてあげたいとか……。

私と電話番号を交換したのは、話し相手が欲しかっただけだった。

幸い私のタイプではなかったので、郵便局を去る日まで、何事もなく過ごした。

「さあ、今日もお昼まで頑張ろう」

「お昼?」

「ええ、午後から大学の勉強でしょ」

「ああ、なるほど」

「……?……」

私は状況を察した。

通信制大学の勉強と両立させるには、郵便局の内務作業はうってつけだ。

郵便局の内務作業は午前中で終わる。

朝6時から作業して、11時に終了する。

内務作業の内容は、機械で読み取れなかったハガキを手作業で仕分けしたり。

トラックで運ばれて来た大きな郵便物を、2階まで運んで仕分けたり。

脱落切手を集めて保存したりと……。

言い方が悪いが、雑務なようなものである。

しかし、一応、身分は国家公務員。

民営化以降はパート・アルバイトとなる。

私は慣れた手付きで仕事をこなした。

早ければ10時くらいで終わる事もある。

作業は予定通り終わった。

「近藤さん、部長が読んでるよ」

同僚のセミロングの女性からの知らせだ。

来たか。

「ありがとう、スグ行く」

私は部長室へ向かった。


部長室と言っても、部長がよく居る部屋なので、部長室と言ってるだけだ。

机と椅子が置いてあるだけ…。

「失礼します」

入ると部長がいた。

いつもニコニコしているが、その笑顔は作り笑顔だ。

本気で笑ったところは見た事がない。

いつものダサいスーツに…。

年齢は50手前だろうか?

黒光りする頭はスプレーを掛けて固めた証。

一昔前の《企業戦士》と言ったところか。

部長は挨拶も早々に私に訪ねた。

「仕事はどうかね? 慣れたかい?」

「はい、おかげさまで……みなさんもとても親切で」

「そうか…それは良かった」

良からぬ雰囲気だ…。

「で、1つ提案なんだが…」

部長は頭をかいた。

来た……私は覚悟を決めた。

「外回りに行く気ないか? 手当もつくし……時給も上がる、うまく行けば…もっと条件は良くなる、どうかね?」

「本当ですか!?」

私は大袈裟に喜んで見せた。

「内務作業から外務作業になるなんて、不況で給料が減るばっかりと思っていたので、思い掛けない幸運だ!」

「……そ、そうか」

部長が戸惑っている。

私はほくそ笑んた。

この判断をするために、この時を選んだ。

以前、私は部長の申し出を断った。

断った理由はバイクの免許を持ってなかったため。

しかし、それ以上は自分が浅はかだった。

なぜ、部長が民営化前に、内務作業から外務作業へ、部署を移動するように言って来たのか?

私は深く考えなかった。

案の定、民営化と同時に郵便局をクビになった。

この時、内務作業から外務作業へ移っていたら……。

不況の最中、仕事探しに時間と労力を割かずに済んだだろう。


この後、話は進み、私はバイクの免許を取るために、午後から教習所へ行くことにした。

部長にはバイクの免許を取り次第、外回り移る事を約束した。

部長室から出ると、同僚のセミロングの女性が待っていた。

部長と何を話したのかを聞かれ、私は淡々と話した。

「それじゃあ離れ場なれになっちゃうじゃない」

残念そうな顔だ。

「まあ……でも、しょうが無いですよ。 民営化なんだし…拒否したらクビになると思うから」

「そんな事無いって!」

「………いや、だから…その」

「私、今から部長と掛け合って来る!」

「……!!……」

私は焦った。

親切からしてるのは分かるけど……。

「だ……大丈夫だから」

「本当そう?」

「ホント、ホント」

「…………」

目が怖い……なんて熱い女性なんだ。

私は祈った。

信じてくれ…と。

一呼吸おいてから彼女は口が動いた。

「いい、私は郵便局に勤めて何年も経つけど、郵便局の内務作業て、とても定着率が低いの…。国家公務員とか言ってるけど、中身はアルバイトと変わらないもの、この不況な中、わざわざ電話して集めてるんだから、そんな仕事を文句も言わず、しっかり働いている、お陰でとっても助かってるの」

「…は…はあ…………」

「貴方が来るまで【また辞めた】【また辞めた】の繰り返し……ホントにウンザリしたんだから」

その後、小一時間、話は続いた。


ようやく解放され帰路に着いた。

ヘトヘトで途中の公園のベンチで横になった。

太陽は真上に来ていたが、日差しは強くはない。

公園中央にある噴水の音が、心地良く聴こえる。

「おつかれ様」

メフィストだ。

「彼女………彼氏は聴覚障害者だから、お喋りする相手が欲しかったのね」

「…………そうだな」

「ふふふ……」

「……………………」

私は眠りについた。


その後の自分の姿が見えた。

郵便局の内務作業を終えると、急ぎ学業に励んでいる。

近くの喫茶店に飛び込み、座る場所も頼む物も予め決めておく。

僅かな時間も無駄には出来ない⌚

父の介護が始まるまで、まだ間がある。

郵便局が民営化するのも、まだ間がある。

その(あいだ)に出来る限り、学業を進めておく。

しばらくして、仕事終わりに、自動車教習所へ向かうようになった。

始めは、ノロノロ運転で危なっかしいが、徐々に慣れてくる。

郵便局と教習所……しばらく休んでお勉強。

その繰り返しの日々……。

そして、郵便配達が始まった。

使用するバイクの後部には大きな箱。

郵便物を大量に詰め込んで、いざ出発。

黒っぽいジャンパーを着用して、雨の日も風の日も、郵便物を運ぶ日々。

ちゃんと働いている。

仕事の合間に何かをメモしている。

レポートの下書きだ。

僅かな時間も無駄にしない…。

仕事が終われば、近くの喫茶店でレポートを纏める。

何とか順調に、仕事と学業を両立させているようだ。

ところがここで、大きな曲がり角が現れる。

父が病が始まった。

身体の不調を訴える父。

母と一緒にタクシーに乗り込む父。

そのまま病院に行くのを、私が見送っている。

後日、母から父の入院を告げられた。

姉と妹も不安顔……。

まさか……信じられない……と、言った表情だ。

父はそれまで健康そのもので、足腰もしっかりして、60歳を過ぎても山登りを趣味にしていた。

お酒も控え、煙草も辞めた。

一体どこに不健康の種があったのだろう?

私はこの時、ただ時が過ぎるのを待った。

止まない雨は無い。

嵐はいずれ去る。

父は健康を取り戻して家に戻る。

普通の日々が戻って来る。

そう信じていた。

ところが後日、帰宅すると母が泣き崩れていた。

手には【医療診断書】

全てを察した。

父の病名は【進行性核上性麻痺】

病状はパーキンソン病に似ているが違う。

治療法が無く。

20万人に1人の国指定の特定疾患だ。

初期の頃はパーキンソン病の薬が効くが、徐々に効かなくなる。

いずれ歩けなくなり、食べれなくなり……死に至る。

それまでに排泄もコントロール出来なくなり、初期の認知症を発症する。

平均余命は6年。

私の人生最大の山場だ。

今回は大学もに入っている。

乗り越えられるのか?

自分の性格を考えたら、途中で辞める事は無いと思うが……。

それでも油断は出来ない。

介護が始まった。

父をトイレに連れていく。

自力で排泄は出来ない。

浣腸液を入れて、排泄を促す。

この時ほど、ウォシュレットの有り難さが分かった時はない。

お尻はキレイに洗われる。

臭いも取るタイプならもっと良かっただろう。

夕方なら、そのまま風呂に入れる。

排泄を終えた今なら、湯船で漏らす事も無い。

風呂から出すと、身体を拭き、着替させて、水を飲ませる。ベットまで連れて行き、作業を終了する。

ホッとする私の隣で、母は書類を書いていた。

特定疾患なので国から費用が出る。

でも、そのためには大量の書類を書かねばならなかった。

『毎年こんなに書かなきゃならないの?』

母は嘆いた。

しかし、書かねば自分達が、数百万円もの費用を負担する事になる。

必死に書類に目を通す母を尻目に、私は黙々と父の介護と郵便配達、たまに大学。

大学の勉強は1日20分もあれば良い方だ。

まだ、姉と妹もいる。

サポートのあるウチに、大学の勉強を進めておく必要がある。

いずれ2人は家を出る。

それまでには半分……いやもっと進める気概でなければ…。

仕事の合間、合間を上手く利用してレポートを仕上げ、スクーリング(直接講義)科目や合宿科目は早目に終えなければいけない。

気が気でない。まさに綱渡りだ。

何とかこなしている。

しかし、辛そうだ。

父を寝かせたあと、私がゆっくり倒れるのが見えた。


目が覚めると、知らない天井があった。

身体が重い、動けない。

周囲は白いカーテンに仕切られている。

私はベットの上にいた。

腕には何かの点滴。

顔のすぐ横にはガラスコップに水入れが置いてある。

そして、ほのかに薫る薬品の匂い。

ここは病院だ。

部屋の外では母と姉と妹の声がする。

声が震えているような……気がする。

嫌な予感がした。

「リセットする?」

「……………………」

「リスタートは何処がいい?」

メフィストだ……来ると思った。

「リスタート前提で話すなよ、多少 (つまず)いたくらいで……スケジュールをうまく調整して、確実に歩みを進めればいい」

「そうかしら」

「なんだよ? 何か知ってるのか?」

「……………」

メフィストは一呼吸おいて、私の顔をじっと見た。

「気づいてるでしょ? 身体が動かせないの」

「ああ……」

「貴方の病状、思った以上に悪いみたい…詳しい事は知らないけど」

「……な……」

そんな……と、言えなかった。

「さあ、どうする?」

「……………………」

「迷うよね」

「……………………」

「私が決めてあげよっか♪」

「……!?……」

何を言っている?

嬉しそうに……。

「貴男の父親の生命と引き替えにリスタート、どう?」

言葉が出なかった。

人間、心底驚くと言葉が出ないと云うが、いま身をもって知った。

(この悪魔め!!)

と、叫び声たくても叫べなかった。

メフィストは笑っている。

私がどんな決断を下すのか、楽しんでいるようだ。

私は恐る恐る聞いた。

「断れば…俺は死ぬのか?」

「いいえ、他にも候補がいくつかあるけど」

「候補!?」

「貴方のお母さんに姉と妹、初恋の相手に、同僚の女性…どれにする」

「簡単に言うな!」

「フフフ……」

メフィストの顔にツバを吐きかけてやりたい。

本当にコイツは悪魔なんだ。

私が苦しんでいるのを本気で楽しんでいる。

「身内が嫌なら、この二人がいいんじゃない?」

メフィストは2枚の写真を出した。

1人は同級生の妹。

もう一人は同僚の女性。

「どっちがイイ?」

「………………」

「クジで決める?」

「……な……」

「なら、どっちがいい?」

悪魔め! 1人は自分にとって大事な人、もう一人は自分を大事に想ってくれた人。

どちらも他人だ。

だから何だと云う?

殺せと云うのか?

そんな事できるワケがない!

「迷うよねぇ……簡単には決められないよねぇ…そうだ! 時間制限してあげる♪」

メフィストはコインを取り出した。

赤錆た古いコインだ。

真ん中に黒い牡羊が描かれている。

「ちょうどコップと水もある」

メフィストはガラスコップに水を注いだ。

並々と注がれたコップの水は溢れ出る寸前だ。

「これからコインを水に沈めるね、コインがコップの底に沈み切る前に判断してね…もし、決められない時は、覚悟してね」

「覚悟……!?」

「貴方を含めて、適当に決めるから」

メフィストはコインをコップの水に落とした。

水滴がコップから垂れ落ちる。

「そうだ、このコイン少し浮力があるから、沈み切るまで1分くらい掛かるから…」

コインはゆっくり沈み始めた。

どうしよう、どうしよう、どうしよう!

手汗が止まらない。

息が詰まる。

今から私は、自分のために、人を殺さなければいけないのか?

そこまでして私は……。

イヤだ、イヤだ、イヤだ!

でも、そうしないと、自分が死ぬのか?

これまでの困難を乗り越えた結果が……そんなの悲し過ぎる。

「フフフ……あと30秒」

母の顔が浮かんだ。

姉の顔が浮かんだ。

妹の顔が浮かんだ。

同僚の顔が浮かんだ。

初恋の人の顔が浮かんだ。

最後に父の顔が浮かんだ。

苦しそうな父。

亡くなった時、悲しみより、介護から解放された安心感で、涙1つ出なかった。

もっと介護が長引いていたらどうなっていた!?

最悪、父を殺していたかもしれない。

逆に早く介護から解放されていたら……いっそのこと、介護そのものが起きなければ…。

「あと……10秒」

私は決めた。

「誰も殺さない」

「…………………」

「リセットは無しだ……このままでイイ」

「…………………」

「メフィスト…?」

急に黙るメフィストに私は、一抹の不安を感じた。

「メフィスト…どうした!?」

「………………」

「聞いているのか?」

「………もう遅いわ」

「………ヴッ!………」

急に心臓に刺さるような痛みが走った。

さらに内側から喰い破るような痛み!

息が……できない!

意識が……。

「つまんない男……期待外れ…せめて苦しんで死んでちょうだい」

メフィストの冷淡に満ちた声が聞き取れた。

「せっかく、チャンスをくれてやったのに、自分の人生を取り戻すチャンスなのに……自己犠牲してる自分がカッコイイとでも思った!? 自分を殺して全体のために何かしよう……フフ、何も成せないまま終える連中が大半なのに……そりゃそうよね、自分独り救えないんだもの!」

さらに意識が遠退いていく。

闇が迫ってきた。

これが死か…。

「さようなら、何も成せない、お馬鹿さん」

夢現(ゆめうつつ)に周囲が騒がしくなるのが分かった。

母と姉と妹の声に混じり、医者と看護師と思しき声も聞こえた。

私は小さく微笑み、眠りについた。


第五章


「う〜〜ん…ハッ!…ここは?…」

気が付くと、見覚えのある天井があった。

周囲に本が乱雑に積まれている。

自分の部屋だ。

時刻は朝…。

今まで寝ていたのか?

まさか……夢だったのか?

長い長い夢だったのか?…………んっ!?…。

「……………………」

「メフィストッ!」

「……………………」

部屋の隅にメフィストがいた。

まるで死んだ魚のような目で、こちらを見ている。

「どうしたんだ…何があった?……俺は死んだのか?」

「……………………」

「答えろ!!」

「……………………」

メフィストは黙っている。

そして、霧のように消えた。

私は茫然とするしか無かった。

いったい何が起こったんだろう?

わからない。

周囲を改めて見渡しても、何の変化もない。

乱雑に本が置かれているだけ。

ゲーテの『ファウスト』ハーティの『テス』スタンダール『赤と黒』ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』などなど…。

ラインナップは変わっていない。

ただ、時間だけ経って朝になった………だけ…。

「……うう………」

「……!?……」

部屋の外から何か聞こえた。

泣いている?

「うう…ううう」

「母さん!」

飛び出す勢いで扉に向かった。

そして一呼吸をして部屋を出た。


母の泣く声のする方へ向かった。

すすり泣く声は居間から聞こえる。

居間に来ると、私はそっと扉を開けた。

そこには泣き崩れる母の姿があった。

「うう……う…」

「……ど……どうしたの母さん?」

私は恐る恐る尋ねた。

「エッ!」

私は気付いた。

母の前には、見覚えのある黒っぽい塊があった。

しかし、それはピクリとも動かない。

「ミーコ……」

「うう……う…」

「何があったの、母さん?」

私の問いに、母は顔を上げた。

その顔は涙に濡れ、拭っても拭っても、涙に溢れてしまう。

苦しそうに母は口を動かした。

「今朝ね、急に物音がしたの、何かが暴れている音でね、ビックリしたわ……それで行ってみたらミーコが痙攣してたの、ハァハァ苦しそうに、息も絶え絶えで……さっきまでまだ息があったんだけど……うう」

私はミーコの身体にそっと触れた。

まだ、温かい。

先まで生きていたんだ。

しかも、身体は濡れている。

尿だ。

尿を撒き散らしながら、発作を起こした。

私はミーコの尿の付いた床を拭いた。

身体もキレイに拭いた。

仕舞い忘れた舌を口の中に戻してあげた。

私は母に言った。

「段ボールある? 棺桶を作ろう」


ミカン箱が用意された。

中にキレイな白いタオルが敷かれ、ミーコの遺体は納められた。

母がタンポポの花を摘んできた。

こんなのしかなかったと、母はボヤいた。

ミーコの隣りに添えると、私と母はそっと手を合わせた。

そして、上に白いハンカチが掛けられた。

母は娘達(姉と妹)に連絡を始めた。

スマホを片手に喋り出す。

私は自分の部屋に戻った。


「……………………」

「メフィスト……」

「……………………」

私は驚かなかった。

居るような気がしたから…。

「……………………」

相変わらず黙っている。

饒舌な女性が急に黙ると恐ろしい。

別人にしか見えない。

まあ、悪魔に性別があるのか知らないが…。

私は尋ねた。

「ミーコが……猫が死んだ」

「……………………」

「なぜ、死んだ?」

「……………………」

「答えてくれ」

「……………………」

「俺の代わりに死んだのか?………ん!?」

メフィストは手を腰に当てた。

何かを取り出す仕草だ。

私は身構えた。

身も凍る恐怖を感じたからだ。

この女…いや、悪魔は躊躇無く私を殺そうとした。

何をしてくるか分からない。

メフィストは私の眼前に迫り、腰に当てた手を前に突き出した。

「……羽根!?…」

羽根ペンだ。

こ……これは、確か…。

「てっきり貴方が最初に触れたと思ってた」

メフィストがようやく喋った。

最初に触れた!?

「最初に触れた者が契約優先者であり、契約書に書いた者と別人の場合は【契約保証人】となる……この場合は保証ネコってトコかしら」

「………保証……ネコ」

しばらく、私はメフィストの言っている事が理解できなかった……。

しかし、思い出した。

そうか、あの時だ。

メフィストが契約書と羽根ペンを置いて姿を消したあと。

羽根ペンを取ろうとしたら、ミーコが羽根ペンにジャレついて……。

「ホント信じらんない、面白くない、面白くない、面白くない……」

「メフィスト……」

メフィストはブツブツ口を動かした後、睨むように私を見た。

死んだ魚はもう居なかった。

「奇跡なんて…私は信じない…貴方は運が良かっただけ」

「……………………」

「悔しいか? ザマーみろって思ってるんでしょ?」

「…思ってない」

嘘だった。

相手が悪魔で無ければ言い返していたかもしれない。

怒らせない方が無難だ。

この女、いや悪魔は殺す時は容赦しない。

「で……どうするんだ?」

私は逆に尋ねた。

「何で再び俺の前に現れた? 親切に知らせに来たワケじゃないだろうか?」

「ええ、そうね」

メフィストは再び羽根ペンと契約書を取り出した。

「一応、意思確認しないとね」


エピローグ


翌日、ミーコの葬儀が始まった。

葬儀屋に連絡を入れ、姉と妹も昼には家に着いた。

仕事を早めに切り上げたようだ。

お坊さんも呼んだ。

葬儀屋が葬儀場を用意した。

葬儀場と言っても簡素な小屋だ。

棺桶を置く台と、写真立てがあるだけ。

黒い喪服の用意も無い。

台にミーコの遺体を入れた棺(段ボール箱)が置かれ。

葬式は厳かに始まった。

小屋の中で、お経の声が響き始めると、外でもシトシト音がし始めた。

雨だ。

空が泣き始めた。

詩人っポイ事を思いつつ、私は母との会話を思い出した。

ミーコは私が家を出ると、仕切りに鳴いていたと云う。寂しがっていたと云うのだ。

まさかと思った。

何故ならミーコは全く懐いていなかった。

そのため、餌を与えるのは母の役目。

猫のトイレ掃除は私の役目となった。

母は言った。

『あなたがトイレ掃除をしたあと、あの子はひっくり返って喜んでたのよ、恐がっていたけど、感謝していたと思うよ』

猫は低い声を嫌う傾向がある。

威嚇のサインたからだ。

そのため、最初の頃は、触らせもしなかった。

撫でようとすると逃げてしまう。

思えば、一年前、姉と妹の提案で猫を飼うことが決まった。

保護センターから2人が拾って来た。

しかし、2人は家を出ているので、世話するのは私と母となった。

私の役目は猫のトイレを掃除するのと、もう一つが、トイレ用の砂を買って来る事だ。

ホームセンターへ行き、重さ10キロの砂の入った袋を、一度に2袋買う。

自転車の前のカゴに一袋乗せ。もう一袋はロープを使って、後ろの台に括り付ける。

行って戻って来るだけでヘトヘトだ。

しかし、猫の世話を1番しているとは思っていない。

思ったところで虚しくなる。

それに父の介護と比べれば、大した事ではない。

『見返りを求めるな、親切は無償の行為だ』

父はそんな事を言ってたっけ?

正直者がバカをみるのは一時的だ。

ダマして得たモノ儚い。

儚くても良いから、実りある人生を送りたい。

メフィストの言う通り、自己犠牲で救える範囲は、(たか)が知れているのかもしれない。

現に私は父を救えなかった。

僅かに寿命を伸ばしたに過ぎない。

でも、その自己犠牲があるから、今の自分がいる。

自己犠牲の精神が自分を救った。

こうして、今いるのも……。


壮行ている間に、お経が終り。お坊さんは一礼して帰った。

あとはミーコの遺体を火葬場に運ぶのみ。

小屋の外では葬儀屋がすでに待っていた。

黒い一般車の前に黒い衣装。

黒いセミロングの女性……トシは若い。

「この度はお悔やみ申し上げます。きっとネコちゃんも、皆さんに愛されてお幸せだったでしょう。猫は1年で7歳トシを取ると言いますが、1年で大人になる猫にとって、実際は思った以上に濃い時間を生きていると思って下さい』

その言葉に母、姉、妹は涙を流した。

私は涙が出なかった。

悲しいと云う気持ちと、助かった安堵感で、気持ちの整理がついていなかった。

父が亡くなった時と似ている。

あの時も介護から解放された安堵感から、しばらく心が何処かに行ってしまった。

心に穴が空くとは、こんな状態をさすのだろうか?

父の遺体が骨になっても心境は変わらなかった。

今回もまた………いや、今回は違うようだ。


ミーコの遺体は車に乗せられ、火葬場に運ばれた。

火葬場ば田畑の中の林の奥にあった。

林の中に煙突が見える。

火葬場に着くと、すぐに焼かれ始めた。

雲の無い快晴の空に、煙が上がっていく。

母と姉と妹が、一斉に空を見上げた。

その隙に、私は葬儀屋の女性に話しかけた。

「お久しぶりですね」

「……えっ?」

「お兄さんは元気ですか? 弊 恵子さん、一度だけお会いしたことがあるんですが…」

「あっ!」

彼女は私の事を覚えていた。

これは偶然だろうか?

一家にとって悲しみの日が、私には幸いの日となった。

私の心の穴は埋まった。

仕事を探そう……いや、個人経営でも良い。

大変だが、今までのツラさと比べれば、大した事では無いだろう。

『悲しむ人は、幸いなり』

聖書の一節が頭に浮かんだ。

なぜか? この先は良いことが起きそうな気がする。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ゲーテの『ファウスト』を下敷きに、己の半生をネタにして書き上げた私小説です。

最初で最後の小説と思って書きました。

一応、これで〘小説家〙

夢を1つ叶える事ができました。

読んでいただいたユーザーさま。

また、小説家になるチャンスをいただいた投稿サイト『小説家になろう』に感謝です。


補足として。

ペンネームの〘ハンモック職人〙は本当です。

X(旧Twitter)に手作りハンモックの画像を載せています。

藤樹(ハンモック職人)で出ます。

そちらの活動がメインです。

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