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それでも生きる  作者: ひのかげ
1/1

1 (それでいい)

 十分な休憩時間と定時退勤。我々教師にとってそんなものはないに等しい。

「お疲れ様でした」

「松田先生、お先に失礼します」

「松田くん、お疲れ」

 十八時ごろになって、ちらほらと帰り始める教員が出てくる。多くは家庭がある人、その中でもとりわけ女性教員は早く帰宅しているイメージがある。私は適当に返事をしながら、目の前の液晶画面とにらめっこしていた。

 十九時になってもサービス残業は当たり前。管理職なんかは朝一番に来て最後に出なければならないから、いくら出世だ昇進だと言われてもなりたくはない。

「ごめん、遅くなるから先食べといて。うん。冷蔵庫の中に入ってる。そうそう。ごめんね」

隣の英語教師は、研究授業の準備に大忙しだった。

 二十時。まだ終わらない。

「ふぃ〜」

また一人、同僚が荷物をまとめる。数学科の真鍋(まなべ)だ。よく日焼けしたサッカー部顧問の彼とは、三年間同じ学年を持っている。実は高校の同期で、この学校の教師歴としては彼の方が長い。

「お疲れ」

「ほい。無理すんなよ」

目を細めながら資料と闘っていた私の肩を叩き、真鍋が何かを置いた。

 栄養ドリンクとチョコレート味のプロテインバー。

「今日、まともに晩飯食ってないだろ。まあ、ないよりかはマシってことで」

「ああ……ありがとう」

「うん。……お前、最近老けた?」

真鍋は思ったことをすぐ言うタイプの人間で、それがたまに仇となることがある。昔からそうだった。私は自分の頬を触った。

「えっ、そう?」

「そんな気がする。なんか、シワと白髪が一気に増えたように見える」

「そ、そうか。うーん、ついに白髪染めデビューかな」

「いや、白髪で老けて見える人は大勢いるけど、お前はいい感じになってるぞ。ダンディな渋みが増してる」

「そうかな……。それよりもほら、家で奥さんと娘さん待ってるんじゃないのか。早く帰ってあげないと」

「おう。じゃ、また明日」

 真鍋は教頭に挨拶し、足早に職員室を出ていった。年齢と話し方が合っていないと前々から思っていたのだが、最近若見えと生徒からの高い好感度の要因であると(わか)って、少々羨ましくなった。

 二十時五十分、本日の業務終了。

「お疲れ様でした」

残っていたのは管理職とやはり仕事に追われる教員ばかりだった。


 教務主任になって約三ヶ月。去年まで主任を務めていた教員が異動になって、ここでの勤務期間が彼と同じくらいであることと、教師歴、および探究科での主任経験ありということで私が狩り出された。前任者曰く、年齢的には遅い方らしい。慣れない仕事と膨大な業務量には当然ストレスが付き纏ってくるわけで、真鍋からあんなふうに言われるのも無理はない。それに、何だかやつれてきたなぁというのは自分でも薄々感づいていた。

 梅雨時の湿気が気に障る夜。車の中も快適とは言えない。出発する前に、私は真鍋がくれた晩ごはんを貪った。

(だめだ、足りない)

 私は気がおかしくなる前に慌てて車を走らせ、コンビニで菓子パンやおにぎりを五個、コロッケを二個買った。そしてそれらを車内でガツガツ食った。傍から見た私は、鮭おにぎりやカツバーガーごときを実に美味そうに食べている中年男性でしかないだろう。

 それでいいのだ。



「はい、じゃあチャイムも鳴りそうなのでここらへんで終わっときましょうか。号令お願いします」

「起立。気をつけ、礼」

 張った糸が急に緩んだように空気が開放的になった。金曜日の六限は教師も生徒も辛い。現代文なんて、生徒にとっては睡眠時間にも等しいのだろう。特に評論文。このクラスは文系なのだが、下を向いている顔やカクンカクンと頻繁に動く頭がいくつかあった。まあまだ二年生なので、許容範囲内と言うべきだろうか。

「松田先生、質問が」

「はい。何でしょう」

「さっき先生が解説されていたところなんですけど、やっぱりわからなくて。ここの『資本主義は、言いかえれば経済主義である』からの段落で、——」

「ああ待って」

 立っている床がぐにゃ~んと曲がるような、ひどい目眩がしだした。私は五秒ほどこめかみを押さえた。

「はい、ごめんね。で、そこのどこまでが分かってて、どこからが分からないのかな」

「あっ、はい。この『共産主義との差異』が——」

 こんなことは朝夕問わずしょっちゅうである。そのたびに気まずそうに話しかけてくる生徒に対して、私は何度申し訳なく思ったことだろう。

 生徒への長い解説が終わり、職員室に戻って来たのは終礼から十分ほど経ったころだった。帰りのショートホームルームを待たせると悪いと思ったのでできるだけ簡単に話したつもりだったが、それが逆に良くなかったのか、案外時間がかかってしまった。

 まだ目眩がする。腹も減った。とりあえず何か食べて、エネルギーを補給しなければならない。私は引き出しを開け、食い物が入っていないか探った。

 残念、スティックパンもカップラーメンも切れている。ああ、昨日ついでに買っておけば良かった。給湯器のそばにあるお茶菓子コーナーにも満腹感が得られそうなものはなかった。またコンビニへ行くか、誰かからもらうか。最近食費だけでかなりの額を使っているので、次の給料日まで節約しなければ。となると必然的にもらうしかない。

「どなたか、食べ物ありませんか? お弁当の残りとか」

こう周囲に訊くのも今では恥ずかしくなくなった。

「あれ、ストック切れちゃったんですか?」

「ええ」

「じゃあ、これどうぞ」

三十代の男性物理教師が差し出してきたのは、コンビニのジャンクフードコーナーで売っている、鶏唐揚げの串刺し二本だった。

「ありがとうございます。わあ、おいしそう。でも、こんなに頂いていいんですか」

「いいですよ。僕、健康診断でメタボ手前だって言われたんでダイエットしてるんです」

「ダイエット中でもこんなもの食べていいんですね」

「今日はチートデーっていって、炭水化物・脂質何でもOKの日なんです。でも三本はさすがに多いので、二本どうぞ。家に帰ってからも晩飯がありますしね」

「ありがとうございます」

 正面に向き直って、思い切り肉にかぶりつこうとした瞬間、

「前から思ってたんですけど、松田先生って何かにかぶりつくときいつもドラキュラに見えるんですよね。どうしてか」

二十代新米女性教師の不意打ちだった。慌ててすすったよだれが気管に入りかけ、少しむせた。

「ああ、すみませんすみません。大丈夫ですか」

「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ。そんなことを言われるのは()()()()()()なんですが、不意だったので」

「すみませんでした。でも、やっぱりそうですよね。色白で日本人離れした顔で、犬歯が長くて、やせ型で」

「はは」

「昔の吸血鬼映画を見たことがあるんですけど、あれよりも松田先生の方がザ・ドラキュラって感じしますよ」

「はい、松田先生は今お取り込み中なんだ。お静かに」

「あっ、はい」

真鍋が女性教師の後からウインクしてきた。ナイスフォローだ、真鍋。これでようやく肉にありつける。

(いただきます!)

 鋭い犬歯が、弾力ある鶏肉に突き刺さり、引き裂く。染み出る肉汁と下味の醤油の風味がまたたまらない。美味い。美味い。美味いが、やはり足りない。いや、贅沢を言うな。こうやって食料をもらえただけ、ありがたいことではないか。ここに勤め始めたころはしばらくお茶菓子コーナーの薄いおせんべいで我慢していたのでお茶菓子が頻繁になくなり、供給源を悩ませていた。食い意地が張ったやつと思われて、同僚から食べ切れなかった愛妻弁当の残りをもらったのがきっかけとなり、周囲から食べ物を頂けるようになった。飲み会ではいつも残飯処理係になっている。残飯処理は学生時代から変わらないが、年をとるとそのとき以上に食欲が湧くようになった気がする。それどころか、代謝がますます良くなってきて、胃粘膜の修復も早くなり、胃もたれ知らずの大食い中年になってしまった。しかもどれだけ食べても太らない。

 そんな私を羨む声は多い。教師仲間だけでなく、生徒からもどんな食生活をしているのか時々尋ねられることがあり、教えるたびに、

「え~っ! そんな食事でここまで細いなんて。あたしもそんな体質に生まれたかったあ」

「どんな食べ方したら先生みたいに太らずに済むんですか?」

「運動とかしてるんですか? もしいい方法があったら、教えてほしいんですけど。あっ、なるべく負荷が軽いもので。あははは」

とまあ、こんな反応が返ってくる。育ち盛りの若者と比べても明らかに高カロリーの食事かつ早食い、運動は週一、二回程度の生徒との一キロランニング(という名のジョギング、ひどいときはウォーキング)という、常人ならすぐに増量してしまいそうな生活習慣。そもそも運動は貧血持ちでたいしたことはできない。にもかかわらず、四六時中空腹なのである。その理由をよく訊かれるのだが、私は一貫して「わからない」と答えている。本当に分からないわけではない。心当たりは一応ある。ただそれは、私の内にそっとしまっておきたい秘密なのだ。

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