親と月夜は
老婆は小学二年生の孫の手をひいて坂道を登って行った。
冬の夕暮れ、行く手には明るい満月があった。
「親と月夜はいつもええ」
そう言って懐中電灯の灯りを消す。
「月だけで明るいね、ばあちゃん」
「そうじゃ、勉強せえよ、澄子」
少女──澄子は、なぜ自分だけが遅くまで塾通いしなければいけないのか知らない。
「ばあちゃん、勉強したらええことある?」
「あるとも。いっぱいあるとも」
老婆は尋常小学校卒業である。
「お前もあのお月さんみたいに困った人の道を照らすんじゃ」
「うん!」
祖母と会話しながらの帰り道が、澄子は好きだった。
家に帰りつくまでは……。
「どこで何をしょうたん! 遅くなって!」
母、洋子の金切り声が迎えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「遅くなったから、お前の御飯は無いよ」
「ごめんなさい……」
不機嫌の理由は父、武の不在である。
「どこで油売りよるんね」
実は洋子は知っている。
中学校の教諭を勤めとする武は、同僚の数学教諭と浮気していた。
「勉強は!」
祖母が菓子パンを渡してくれた。
「これを持って行くんじゃ」
澄子は逃げるように梯子段を登って自分の部屋に入る。
田舎の古民家、窓に太い木の格子が入った小さな部屋が澄子の勉強部屋だった。
澄子は成績が飛び抜けて良かった。
教師である武は、いつもそれを同僚に自慢していた。
ただそれは澄子への愛情には繋がらなかった。
澄子が一生懸命ドリルをやっていると、遅く帰宅した武が梯子段を登って来た。
キイッ、キイッという音に、澄子は身を固くする。
「道草食っとる時間があったら勉強せえ!」
言うなり、武は澄子の頬を張った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
頬を抑えてはいけない。
反対側にも平手打ちを食らうからだ。
「ドリルやっとけよ!」
今夜は一発だけで済んだ。
これが彼女の日常である。
澄子の両親は、中学受験を考えていた。
そのための猛勉強の日々。
しかし、そのかいなく、数年後、澄子は附属中学に落ちた。
両親から激しい折檻が加えられたのは言うまでもない。
祖母だけは黙って澄子の頭を撫でた。
その祖母も、澄子が公立中学に入って程なくあっけなく脳溢血で逝った。
「私、医者になる」
澄子は言った。
両親は喜んだ。
医者になるために、澄子はもっと勉強していい点を取るだろう。
その頃から、武は呪文のように「四当五落」と言い始めた。
猛勉強は続き、今度は無事附属高校に合格した。
ここで問題が起きた。
澄子が、父の浮気を知ったのである。
しかも、彼女が勉強に使っていた数学のドリルや参考書が、その浮気相手から贈られたものだと告げられた。
思春期の澄子は怒り狂った。
「親が何なん。親と月夜が良いなんてことないじゃん」
澄子の数学の点数は急降下した。
とても医学部は無理である。
澄子は、看護婦になると言い出した。
両親と担任はH大の文学部を勧めた。
H大は旧帝大、教師の面目は立つ。
いやいや受けたH大だったが、簡単に合格した。
澄子は親元から離れ、下宿してH大に通った。
(ばあちゃんはああ言ったけど、うちの親はおかしい)
自由になって澄子は遊び呆けた。
そして亮太と出合い、交際を始めた。
卒業と同時に結婚、それを契機に「おかしい」両親とは縁を切った。
(あれを虐待言うんや)
澄子は思った。
どこで聞いたか「虐待の連鎖」と言う言葉が、新婚の澄子を怯えさせた。
自分に子育てが出来るのか不安すぎる。
だが、若い夫婦である。
子どもはすぐできた。
澄子は怯えながら十月十日を過ごした。
亮太の様子が変わったのは妊娠中だった。
帰りが遅くなり、夫婦の会話も上の空……。
それは父と同じで、澄子はすぐに浮気を疑う。
問い詰めると亮太は暴力をふるった。
澄子は、逃げ込むように入院して子どもを産んだ。
女の子だった。
幸子と名付けた。
「叩かずに育てるんや」
澄子は固く誓った。
ともに支えて欲しい亮太は何も言わなかった。
亮太とはその後十年ほど続いたが、ついに彼は家に帰らなくなった。
澄子は仕事を探したが、あいにくの不況でなかなか見つからない。
(看護婦の資格を取っとけば良かった……)
最後の一万円札が崩れたとき、澄子は娘の手を引いて海に向かった。死ぬつもりだった。
潮の香りがする。
知らない道なのになぜか歩きやすい。
我知らず天を見上げるとこうこうとした満月。
「親と月夜はいつもええ」
「おかん、そうやね」
幸子が抱きついて来た。
温かい。
「おかん大好き」
澄子の頬を涙がつたう。
「ごめんよう……」
澄子は娘を抱いて嗚咽した。
ただならぬ様子の母子に、釣り人が集まってくる。
誰かが通報したのか、サイレンの音が近づいて来た。
この瞬間に、澄子は虐待の連鎖を断ち切った。
そんな小さな人の営みを、満月は静かに見下ろしていた。
あくまで練習用の小説です。
お題は「月」
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