借り物競争
休日、特に用はなかったが散歩することにした。
近所の小さな公園に行くと、子どもたちが元気よく遊具を使って遊んでいた。あっちの方では鬼ごっこをしているらしい。私が思っていたより、今時の子も外で遊ぶようだ。
遊具の上には桜の花が散っている。満開だ。ベンチでは小さな花見をしている高齢者たちもいる。長閑だ。実に長閑だ。
春の空気を満喫していると、遠くからこの和やかな光景に似つかわしくない叫び声が聞こえた。気のせいだと思いたかったが、次第に声が大きくなる。
やがて叫び声の主が見えてきた。男子高校生くらいの背格好だ。「八」と書かれた蛍光オレンジのゼッケンを着ている。かなり全力疾走しているらしい。先ほどは何と言っているかまでは聞き取れなかったが、どうやら「誰かー!」と叫んでいるらしい。
勢いを緩めないままその若者が公園の中に突入してきた。公園にいる人がひそひそと話しているのも気に留めず、キョロキョロと辺りを見回している。
ふと、私はその若者と目が合ってしまった。若者は「いた!」と叫んだ。非常にまずい気がするが、恐怖で私の身体は動かない。とはいえその時間はほんの一瞬だったと思うが、一気に若者は私に距離を詰めてきた。
「あの、メガネ貸してください」
若者はポケットから折りたたんだ紙を取り出し、私に広げて見せた。「黒縁メガネ」と書かれている。
「え?」目の前の若者に気圧された私にはこの一言しか発せなかった。
「すみません、すごく急いでいるんで、貸していただけませんか」
「あ、まあ……」
私は無意識に自分のメガネを外してその若者に渡した。若者は指紋がレンズに付くのも気に留めずに、壊れるのではないかと思うほどメガネを握りしめ「ありがとうございます!」と私に勢いよく一礼すると、来た方向にあっという間に走り去ってしまった。私が呆然と立ち尽くしていると、近くにいた主婦とおぼしき中年女性が「大丈夫ですか?」と声を掛けてきた。
「ああ、まあ、メガネを取られた以外には」
ぼんやりした視界で女性を眺めた。何せ視力がすこぶる悪いものだから、声がなければ女性かどうか、むしろ人間かどうかさえ分からない。
「何だったんでしょうね、あの人」
女性と思われる生物が、恐らく首をかしげながら呟いた。若者の叫び声も聞こえなくなり、公園にいた人たちはすっかり元の平穏を取り戻していた。
困ったことに若者はいつまで経っても戻って来なかった。「貸してください」と言ったからには、すぐに返してくれるのだろうと思って私は近くの花壇に腰掛けて若者が戻ってきてくれるのを待っていたのだが、一向に来る気配がない。あの叫び声も聞こえない。せめて何のために借りて、いつ返す予定なのかくらい聞けばよかった。
家に帰れば、昔作った、ツルのネジが馬鹿になったメガネが二本くらいあるはずだ。しかし、あのメガネはどちらも随分昔に作ったから、今の私の視力には合っていない。今あれを掛けたところで、私の視界は大して改善されないだろう。
仕方ないので、私は若者が去ってから一時間経ったところで腰を上げた。メガネを新調することにしたのだ。メガネなくしては私はまともに生活を送れないから、作るしかない。
あのメガネも、もう五年ほど使っていたから、そろそろ替え時だったのだ。きっとあの若者は、私がメガネを新調するきっかけを与えるためにどこからか派遣されたに違いない、と私は思うことにした。それにしても、花壇にずっと腰掛けていたので尻が痛い。
翌朝、新調して視界がよりクリアになったメガネを掛けて玄関の戸を開くと、玄関にメガネが落ちていた。昨日若者に貸したあの黒縁メガネだ。横にもう一つ、紙で包装された小さなものもある。ストーカーか何かと思い、辺りを見回しながらそれらを拾って、急いで家に戻った。
包装を解くと、一枚のメモとメガネのレンズが入っていた。
「昨日は貸していただいてありがとうございました。利息として新品のレンズを一緒にお返しします」
今返されてももう遅いのだが……。
SNSでこの旨をつぶやいたところ思いのほかバズり、日本各地から情報が届いた。
和歌山県のキャンプ場では、大学生が小学生にスピーカーを貸した。翌日には、スピーカーと単一電池十本が添えられてテントの前に置かれていた。
神奈川県の海岸では、SUPヨガの講師が中年男性にサーフボードを貸した。翌日には、水中ゴーグルと一緒にサーフボードが門扉に立てかけられていた。
佐賀県の運動場では、テニスを楽しむ老夫婦が、働き盛りと思われる成年男性にテニスボールを貸した。翌日には、テニスボールが沢山入ったワゴンが玄関に置かれていた。
いずれも、貸した相手は蛍光色のゼッケンを着用した見知らぬ人で、どこから来てどこに行ったのかも不明。ただ、翌日にはプラスアルファ付きで貸したものが返ってきたという。
一体あの若者は何だったのか分からないが、私は怖いので黒縁メガネはレンズと共に処分してしまった。