第5話
彼が“自宅”へ続く最後の角を曲がると、ひとりの“家族”が仁王立ちをして待っていた。
「晴れやかな顔だな。“彼女”とは上手くいったのか」
「いいや…でも良いことがあったんだ」
「やっぱり自分を低く見積もっていたんだな」
彼は俯くと小さく首を振った。
「なにもかも信じられていなかっただけで…きっとなにも間違ってなんていなかったんだ」
「全て、か?それは父親を許すってことか?」
仮にそうだとしても、彼はこの“家族”にそうだとは言えない。ただ、これは彼の中でもはっきりしてはいなかった。
「…分からない。けれどもう…ただ恨むだけではないと思う」
“元の家族”には大して良い思い出がなかった。それでも思い出さない日はなかった。鏡を見て嫌でも思い出すというわけではない。毎日考えているのだ。“元の家族”へ抱くべき感情を、求めている。
煙草と、皮膚の焦げる臭い。飛び交う怒号と泣き声。電子レンジの人工的な温かさと、その独特な匂い。極々稀にする、余り物なんてないはずなのによく分からない食材が沢山入ったカレーの温かさと、匂い。特別美味しくはなかったけれど、作ってくれたことが嬉しかった。
痛さには慣れてしまっていて、よく分からなくなっていた。けれどきっと存在はしている。だから痛いのは得意じゃない。分からないのに、痛いから。痛いのに、分からないから。
俯いて考えていた彼の背中を力強く叩くと、大きく頷く。
「だったら顔を上げろ。前を見て歩け」
そう言った“家族”はその言葉の通り、前だけを見ていた。
「帰ろう、ワタシたちの家に」
「うん…帰ろう」
“家族”と同じく真っ直ぐ前を見て歩き出した彼の背中を押すように、風が吹いた。それは強い風で、彼の髪を大きく巻き上げる。
彼は前髪を押さえず、隣にいる“家族”へ小さく微笑んだ。
街中にあるベンチに座って、少女は彼を待っていた。
「お待たせ…。早いね…」
「君は分からないと思うけど、好きな人を待つのは楽しいんだよ」
「初デートなのにそれを知っているんだね…」
少女はにこりと笑うと、
「って少女漫画にあったから、やってみたかったの」
そう言ってから意地悪そうな顔でにやにやとする。彼は拗ねたような顔をして少女と反対側の道路を見る。
「それで…楽しかったの」
「君がそれなりに私を大切に思ってくれてることも分かったしね」
「…人と関われば傷付くし傷付けられる。それでも関わろうと思うのは…それよりも大切なものがあると知っているからだと思う。だから…提案した時点で君は僕にとって“それなりに大切”だよ」
彼の言葉が予想外だったのか、少女は顔を赤くする。
「“引き受けた時点”じゃなくて“提案した時点”なのは褒めてあげる」
「…どうも」
恥ずかしいことを言ったことに今更気付いた彼は返答に迷った末、それだけ言って俯いた。
「それで…連れて行きたいところって?」
「着いてからのお楽しみだよ」
少女の笑みに悪戯めいたものや悪意を感じなかった彼は、黙って頷くと少女と並んで歩いた。
少女が立ち止まった場所は、彼の“自宅”のように幼い声が沢山ある大きめの平屋だった。
「ここが私の家。言っておいた方が良いと思ったんだけど、なんとなく見てほしくて来てもらったの」
「だから君は…僕と彼女のそれについて驚かなかったんだね…」
「だからってわけじゃないよ。でも現実だから。どんな事情だろうと、親のいない子供がこうして肩を寄せ合って生きてる。でもそっか、自分が“そう”じゃないと分からないのかもね」
門から一歩離れた場所から動かない少女は、門の中で遊ぶ幼い“家族”たちを見て悲し気に、小さく微笑む。
「私は親の顔を知らない。それが良いのか悪いのか、分からないの。君はどうせなら知らない方が良かったと思うかもしれないけど、それは結果を知ってるからだよね。結果を知れない残酷さは、君にも分からない」
彼はなにも言わず、門の向こうへ視線を向けた。
言えば少女が傷付くことが分かっていても、これを肯定することが出来ないからだ。嘘でも出来ないからだ。
忘れたくないことがあるから…これで良かったと思っているよ。
作ってくれたカレーの味をね…忘れたくないんだ。市販のルーだったから、作ろうと思えば作れるけれど…美味しいかったから忘れたくないわけじゃないんだ。
けれど…これも君に言わせてみせば、ただの結果なんだろうね。
問いを自分で作って答えがないのだと結論を出してしまえば、当然結果はない。君は間違っている。問いがあれば、答えは必ずある。だから君がまだ知らないだけで…結果は存在する。
少女の姿に気付いた子供たちが寄って来る。
「このひと、だれ?」
「分かった!カレシだろ!」
彼は少し考えてから小さく首を振った。
「今はまだ…友達だよ」
「こうかいコクハクだ!」
「ませているね…。誰かのせいかな」
ため息がちに言って笑う。その視線にぶんぶんと首を振る。
「おい」
呼びかけに振り向くと、少女の男友達がいた。
「…なにかな」
「大体の話は聞いた。泣かすんじゃないぞ」
「その約束は出来ないけれど…とても努力することだけは約束するよ」
ふんっと鼻を鳴らすと建物の中へ入って行く。
「大切にされているね…」
「知ってるからじゃないかな、無償の愛を」
少し寂しそうな表情で言った少女に、彼は曖昧な返事をした。
とある結婚式場で受付をしている若い女が名簿をみて首を傾げた。
「このゆりって人、なんで下の名前だけなの?席的に新婦の招待客だよね」
「詳しくは知らないけど、長年の友人らしい」
女はどうでも良さそうに曖昧な返事をすると前へ向き直った。自分で聞いたくせに、と文句を言おうとすると男の声がした。
「この度はおめでとうございます」
黒いスーツに緑と水色が混ざったようなネクタイをした男性だ。ご祝儀袋を差し出されるとマニュアル通り受け取る。
「ありがとうございます。お預かりいたします。恐れ入りますが、こちらにご署名をお願い出来ますでしょうか」
その男性は“百 合”と書くと小さく微笑んだ。会話が聞こえていたのだ。
「こちらが本日の席次表でございます。すでに開場しておりますので、お席におかけになってお待ち下さい」
「なるほど…彼女が貴方に受付を任せようと思うわけですね。これからも…良き友人であってあげて下さい」
対応をした女をもうひとりの女が小突くと、その女は小さく首を振った。
「どういう意味ですか」
「不快な思いをされたなら…すみません」
もうひとりの女をちらりと見ると、
「この顔を見た方の一般的な反応とは違って…それに、名前についての会話を聞かれていたと分かってもその堂々ぶりです。素敵だと…思いますよ」
そう言って微笑んだ。
「こんなところでナンパですか」
「え?あ…ち、違います…!お付き合いしている人がいますし…!その…ご、ごめんなさい…!」
彼は慌てた様子で会場へ入って行く。
「私がフラれたみたい」
「ドンマイ」
「でも本当、あなたは失礼。多少驚くのは分かるけど、あからさま過ぎる」
ただ真っ直ぐを見て言われた言葉に、返せる言葉はない様子だ。
「それより、あれが“ゆりちゃん”か。聞いてたより良いね、彼」
「つ、付き合ってる人がいるって言ってたけど?」
「友達としてだよ。私は世間と戦うなんて面倒なこと、したくない」
「清々しい」
ため息と共に言われたその言葉は、恐らく誉め言葉だろう。
受付の女2人と彼の席は近くだった。隣にいる女性と親し気に話している。
新郎新婦が再入場し、各テーブルを周り始める。彼らのいる席に来ると新郎が彼に視線を向ける。
「合さんですね、そちらの方は彼女さんですか?」
「はい、彼女です。まだβ版ですが…」
「β版?」
新郎が首を傾げる。
「変なこと教えなくて良いわよ。それより、どう?」
小さく頷いただけの彼に、彼女は不満そうな顔を見せる。
「β版なのは…そうじゃないと言えないことがあると思って…」
彼は視線を数回行き来させると、しっかりと彼女を見た。それを受けてニッと笑う彼女に、彼はそっと微笑む。
「綺麗だよ、沙代里」
「この恋、β版」完結です。




