第2話
翌日登校する頃には学園のアイドルの交際相手が誰なのか、噂が出回っていた。少年を実際に見た者は良くないことを口々に言う。
「おはよう」
「…おはよう」
俯いていた少年がやっと顔を上げて、やはり目を泳がせる。
「なにか…用事?」
「別に。ただ意外だなって思って。なんとなく声をかけずにはいられなかったのよ」
「時間が経てば考え方も変わる。…それだけ。きっと、…いや、なんでもない。忘れてほしい」
彼女の言葉を遮るように風が吹いた。輪郭辺りの髪もハーフアップにしている彼女の髪は、前髪が小さく揺れただけだった。
「それじゃ…」
「あ、うん。また」
彼は小さく首を振ると、彼女を置いて歩き出した。
少年が教室へ行くと、少年の席は体格の良い生徒数人に占拠されていた。教室の空気は重い。
「おはよう、そこは僕の席だよ。今から僕が使用するから…どいてほしい」
臆することなく真っ直ぐそこへ向かうと、少年は静かにそう告げた。
「声が小さくて聞こえねぇな」
「…聞こえなくてもなんとなく分かるはずだよ。だってこの教室に、本来今アンタらが使用出来る席はない。でも…そうか、この教室の空気が重いことも、その理由も分からないんじゃあ…そんなことも分からなくて仕方がない」
「んだと?!」
リーダーであろう生徒が大きな音を立てて立ち上がる。少年は薄く笑うと、背負っていたリュックを右手に持つ。
「聞こえているようで…安心した。大きな声を出すことには慣れていなくてね…。それに…これ以上空気を重くしたくない」
イライラした様子で少年に大きく振りかぶる。教室にいる誰もが、少年が殴り飛ばされ怪我をする未来を想像しただろう。
「ってぇ!」
しかし響いたのは少年に殴りかかった生徒の声だった。少年はリュックで拳を防いでいた。
「…教科書やノートは毎日全教科持ち帰っているんだ。アンタらの軽いのうみ…失礼、鞄と一緒にしないでもらえるかな…」
「はっ、そんなガリ勉が釣り合うと思ってんのか」
少年は小さく首を傾げると、
「どうして僕がガリ勉だと…?」
そう心底不思議そうに言う。
「毎日重たい教科書せっせと持って帰って予習復習してんだろ、どっからどう見てもガリ勉じゃねぇか」
「いや…、僕が毎日持ち帰るようにしているのは、勝手に借りられてしまうことが頻発して…。それが嫌だからで…予習復習なんてしてないよ」
「今度は頭が良いアピールか」
それより気にするべきは“勝手に借りられてしまう”というところだと思うけど…それが日常になっている人物には無理だったかな。
そう思った少年は小さくため息を吐くと首を振った。
「…この学年のクラスは5つ。そして1クラス32名。つまり僕らの学年は160名。定期テストの僕の順位は毎回80位くらい…真ん中あたりだよ。念のため言っておくと…テスト期間は勉強するよ」
「なにしてるの?」
「喧嘩を売られてね…」
突如現れた少女の質問に、ため息がちに答える。
「買ったんだ、珍しい」
「…君が告白したんだ、僕を否定するということは君の趣味を否定すること。それをして良いのは、僕だけだよ」
騒ぎを聞きつけた生徒が大勢、廊下から教室を見ている。その中には彼女の姿もあった。彼を心配そうに見ている。
「流石にわざわざ喧嘩を売ったりはしないけど…売られたからには買う。それに…最初にそういう姿勢を見せることは重要だからね」
「戦略家だね」
「今は…僕に対する君の感想は重要じゃない。この人たちを見て、どう思う?」
「意中の相手が付き合ってる人と別れれば自分が付き合えるんじゃないか、なんて短絡的な考えを持つ人は人として好きになれないかな」
少女のその容赦のない言葉は笑顔で放たれた。少年の席を占拠していた生徒たちが呆然とする。
「…同感だね。ということで僕たちが別れてもアンタらには関係ない。そろそろ席に座らせてほしい。アンタらの持っている鞄と違って、僕の鞄は重いんだ。…殴ったんだから、分かると思うけど」
「てめぇ!」
同じ手は通用しないだろう、と少年は殴られる覚悟をしつつ可能なら防ごうとリュックを構えた。その目の前に現れた手が、拳を受け止める。
「うん…、可愛い彼女が出来ると敵は当然出来るけれど…味方も増えるらしい。ありがとう、助かった。痛いのは得意じゃないからね…」
拳を受け止めたのは、少女とよく一緒にいる男子クラスメイト。そして昨日、たった2人クラスで少女の言葉を真摯に受け止めたクラスメイトだった。
そのクラスメイトは軽く少年を睨む。
「お前のためじゃない。俺はコイツらが嫌いで、今日したお前の発言が間違ってないと思ったからだ」
「…訂正する。可愛い彼女が出来ると敵は当然出来るけれど、少し理解を傾けてくれる人が増える」
「少し理解を“傾けてくれる”か、そういう表現は嫌いじゃない」
「そういう素直なところを、僕は以前から…好ましいと思っていたよ。昨日もそうだった」
鼻を鳴らすと今度は拳を繰り出した相手を見る。
「好きな人に告白も出来ないでネチネチ言うヤツより、人を素直に褒められるヤツの方がカッコいいことくらい分からないのか」
「なにも考えずに廊下のど真ん中を歩けるような人でも…この空気の流れくらい分かると思う。大人しく自分の教室へ戻って着席して…授業の開始を待つ。それが今出来る最善の行動だよ…」
騒ぎを聞きつけた先生がやって来る。分が悪いと思ったのか、ありがちな捨て台詞を吐いて教室を去る。
「…自分のために戦ったんだ、お礼はいらないよね。それと…こう言うのが適切かは分からないけれど…。その、悪かったね」
「本当に思ってるか怪しいな」
「信じてもらえなくても良いけれど…本当に思っているよ」
少女が不思議そうに首を傾げる。
「…君は気にしなくても良いよ。漢同士の秘密の会話だ…とでも思えば良い」
「分かった。君が言いたくないなら無理に聞かないよ」
そう言って少女は微笑んだ。その言葉を聞いて、少女と仲の良いクラスの女子生徒が腕を組み小さく首を傾げる。
「名前で呼び合わないのね」
「2人のことだ、口出しする必要ないだろ」
「でも、寂しいんじゃない?」
からかって言った――と言っても本当のところは違うのだが――昨日とは違い、単なる疑問として口にしている様子だ。
注目されることに慣れていない少年は、その状況から早く逃れるために適当なことを口にする。
「君が望むなら…そうしよう」
少年のその言葉に、少女が微笑む。その笑みに少年はため息を吐いた。
「遅かれ早かれこうなることが分かっていたね…」
「うん」
「じゃあ今の言葉は取り消すよ…。流されて生きて行きたいとは思うけれど…ぷかぷかと浮くように流れたいんだ。今は濁流だよ。とても…落ち着かない」
少し申し訳なさそうに視線を逸らす少年の背中に、少女がそっと手を添える。
「君のテンポに合わせるよ。無理させてごめんね」
「そうだよ。無茶苦茶怖かった…!」
リュックを抱きかかえると、椅子の上で体育座りをして小さく丸まる。
「視線は無茶苦茶感じるし、人は話しかけてくるし、視線は滅茶苦茶感じるし…!」
「2回言うほどなんだな」
「ってか今の“人が話しかけてくる”なの?」
少女の友人たちの言葉は無視で、少年はリュックに顔まで埋めている。
「お手洗いに友達としか行けない人生より、一人焼肉に行く人生の方が良い」
「両極端だな」
「やっぱり無理だったんだ…全部」
「そうだね」
少女の冷たい声に教室がざわめき、少年が肩をびくりとさせる。
「君が無理だと思うなら無理だよ。そうやってうずくまってて、なにが変わるの?なにが出来るようになるの?」
少年の背中にそっと手を添えると、優しく微笑む。
「やりたいことがあるなら、変わらなくちゃ。まずは顔を上げて。私がいる。きっと私の友達も力になってくれるよ」
「まずは見た目変身するか?ファッションセンスなさそうだもんな」
「それならアタシ、ヘアアレンジ教えられるかもしれないわ。女子と男子じゃ違うとは思うけど、コテの使い方は同じなんだし大丈夫よ」
「…イメージ先行で適当。君の友達は大丈夫なの」
少年は顔を上げないままだったが、その声が今にも泣き出しそうなほど震えていた。それを聞いた少女らは、小さく微笑んだ。




