第1話
4月1日、新卒採用の若者らと共に26歳の女性が入社式に臨んだ。人事部配属されることになっているその女性は、同期17名の中で唯一の事務職採用だ。
年齢が知られたこともあり、同期からは早々に距離を置かれている。今も休憩室にいる他の同期とは離れてひとりでいる。
「あ」
その一文字だけで相手が誰だか分かるほど、聞き覚えのある声だった。
「お久しぶりです」
顔を上げて微笑む。相手は思い描いた相手で間違いなかった。
大嫌いな場所の、大好きな人。忘れたい集団の中の、忘れたくない人。人生の大きな分岐点で、道の先にいた人。
二度と聞くことがないと思っていた声。二度と見ることがないと思っていた姿。
「またひとり?」
その人物は、ほんの少し目を細めた。これが普段見せる笑顔なのだ。
尻尾があったら勢い良く振っている。そんな浮かれた気持ちを押さえて居直ると、不服そうな表情を作る。
「そうですけど…。私って、22歳に見えますか。別に隠していたわけじゃないんですけどね」
「むしろ高卒採用」
「18歳…逆に喜ぶべきですかね」
ぷっと小さく笑う。彼女はむくれた表情をしたが、周囲の空気に気付き適当な笑顔を貼り付けた。
「休憩中の休憩室とはいえ、軽口を叩きました。すみません」
「相変わらず疲れそうな生き方。もう少し気楽に生きたら」
「余計なお世話です」
適当な相槌を打って、向かいの椅子に座る。空気がざわめいたのを感じ、彼女は向かいに座る相手をほんの少し睨んだ。
「なにしてたの」
「自宅警備員です」
「当てがあるから辞めたのかと思った」
「嫌だから辞めた。それだけです」
スマホのカメラのシャッター音がした。再び適当な相槌が来ると思っていた彼女は、慌てる。
「なにして…」
「再会記念。昔の写真探しとく。多分変わってない」
「保存してあったんですか」
「なに、また携帯が汚れる、とか言う?」
でたよ、この反則笑顔。可愛いかよ。可愛いよ。どストライクだ。久々に会ったのに、変わらずセンター中央に投げてくるのなんなの。
小さな笑顔に、彼女はため息を吐いた。その息で邪念を払う。
「あれは失言でした。忘れて下さい。私の写真を撮ったごときで、スマホが汚れるはずありませんよね」
「退化してる。なんで」
「気付いただけです。写真が嫌いなだけだって」
醜い心まで撮られてしまうんじゃないかって、怯えていた。だけど、そんなことは全くなくて。そこにはただ、不機嫌そうな人がいるだけだった。
だから私は、笑うようになった。
そしたら私以外の笑顔の写真も沢山になって、気付いた。汚れているのは、それを見ている私なのだと。
気付いても私の心は醜いまま。撮られている私も、それを見ている私も、醜い。常に醜い。だから私は笑う。
これ以上醜くならないために。
「言い訳は辞めたってこと。それならまぁ良いんじゃない」
肩を軽く叩くと、休憩室を出て行く。次の瞬間、先輩女性社員に囲まれる。
「宇治部長と知り合いなの!?」
「無茶苦茶親しそうに話してたけど、どんな関係?」
等々の質問が飛び交う。彼女の感想は以下。
めんどくせぇ。あれで親しそうとか宇治さんも人のこと言えねぇじゃねぇかよ。変わってねぇじゃん。顔で得をしている不愛想め。
「以前勤めていた会社での教育係です」
正確には、彼女が新卒で入社した会社の教育係である。彼女は1年7ヶ月で退職。その7ヶ月後に、今しがた再会した教育係も退職している。
連絡先は知らないため、それを彼女は知らない。しかし辞めるだろうとは思っていた。だから彼女の驚きが少なかったのだ。
辞めると思ったのは、自分が辞めたからではない。会社に問題があるからだ。
彼女が前の会社を辞めた間接的な原因は、異動先でのパワハラである。
長時間に亘る意味のない叱咤。責任の押し付け。教育しないという教育方針。せめてもの救いは、的確な質問には答えるということくらいだった。
そこまでなら彼女としては、大した問題ではなかった。たったひとりから酷い扱いを受けただけで挫けていては、生きて行けないと思っていたのだ。
それが学校生活で彼女が学んだことだった。
しかし、いくら強くあろうとしても心労は溜まってゆくものだ。あるとき過呼吸で倒れ問題が発覚し、社内の労働環境改善委員が動き出した。
事態を把握していない上の者から毎日のように声をかけられ、彼女は壊れていった。目に見えて明らかに、壊れていっていた。
仕事とはいえある程度の心を持って心配してくれている人のことを面倒だと思うなんて、私は醜い。汚れている。最低だ。
やがて鬱を患った彼女は、休職後退職した。
表面上解決に向かっているように見えた中での、突然の休職及び退職。上の者は全ての責任を彼女に押し付け、なにも改善しなかった。
彼女には予想出来ていた展開だった。そのため出社しようとしていたが、壊れてゆく自分を少なからず自覚していた彼女は迷った。
それが退職という結果に繋がったのだ。
「いいなぁ。アタシも宇治部長に教育されたい!」
「昔も、今みたいな柔らかい雰囲気だったの?」
彼女はひとつ悟った。彼が女性社員の憧れの的であることを。
もしや不味いことになるのでは?そう思った彼女は得意の愛想笑いを浮かべる。
「どうですかね。あ、もうこんな時間。研修が始まる前にお手洗いに行きたいので、失礼しますね」
逃げるが勝ち。彼女はこの言葉を今初めて心から理解した。
***
研修を終え、配属の挨拶。
「あれ、人事部に新人なんて来る予定だっけ。ごめんね?なんの準備もないわ」
めんどくせぇぇぇぇ。んな小さいことしてっから平なんじゃねぇの。こんなヤツが人事部で、この会社大丈夫かよ。
そんな言葉を飲み込んで微笑む。
「連絡の行き違いでしょうか。席なら用意いただいている様子ですし、しばらくはマニュアルを読ませていただきます」
「そう。じゃあその間に準備するわね」
「よろしくお願いします」
その後任される仕事は、お茶汲みや資料のコピーなど雑用が主。入社して1ヶ月、人事部としてのまともな仕事をしていない。
それでも彼女は毎朝定刻に、笑顔で出社する。もちろん本物の笑顔ではない。
「おはようございます。あの」
「おはよう。…なに?」
嫌がらせを黙って見ていることに後ろめたさがあるのか、視線を合わせようとはしない。
「明後日の会議の資料を作ってみたのですが、見てみていただけませんか」
「それなら教育係の…」
「実は昨日、柏木先輩に見ていただこうと思って渡したんです。でもすぐに、目の前で、ほんの少しも目を通さず、ゴミ箱に捨てられてしまったんです」
「嘘…そこまで…」
彼女はただにこりと笑った。それを見て、ハッとした表情になる。
「まさか録音…」
「してます。でも無許可なので“法的な”証拠ではないはずです」
「…こんなの良くないとは思ってる。だけど目を付けられたら終わりなの。あなたなら分かるでしょ?」
「はい。なので、ほんの少し協力いただきたいんです」
微笑みを絶やさない彼女の顔を見て、生唾を飲み込む。
「ほんの少しってことは、私だとは分からないってことだよね」
「はい」
「…それなら。ほんの少し、協力する」
「ありがとうございます」
やんわりとだけど一度私への態度の改善を口にしてくれた先輩を利用するのは、もちろん心苦しい。
だけど転職なんておいそれと出来ないんだよね。それに、あまり転職が多いと雇用してもらえなくなる。だから仕方がない。
「会議の資料…見せてくれる?」
嘘だろ、なにも知らないのに作れるはずねぇ。白紙だ。
でも嘘だって言うと柏木先輩が捨てたことも嘘って思わるかも。そうじゃなくても、今不信感を持たれるのは不味い。
「あ、もうすぐ柏木先輩が来ちゃいますので、席に戻りますね。また今度お願いします。では」
「え?置いて行ってくれれ…」
察しの悪いヤツだな。




