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障害は己が内に

 ありえない。そう叫びたいけれど、まずは呼吸を整えよう。一瞬とはいえ、呼吸ができなかった分、そして──目の前の現実に戸惑っている分、呼吸が乱れている。


「すぅ──はぁ……」

「…………? おはようございます? それとも、こんにちは、だったかしら。こんな環境では、外の時間に疎くなってしまうのよ。少し、窓を動かさせてもらうわ」


 そういいながら、何者かは、僕の頭上、その少し後ろに手を伸ばした。

 つられて視線を動かすと、そこには僕がさっきまでたっていた場所、僕の家の風景を映す、水鏡のような何かが浮かんでいる。

 それを認識して、改めて異常な状態にあると判断する。

 ここがどこかなんて分からないけれど、水鏡はこんな風に、中に入ったりできるものではない。


「外は暗い……なんだ、こんばんはであっているんじゃないの。挨拶したのだから、挨拶を返すのが礼儀、というものではなくて?」


 これ以上深い青はないと思うほどに濃い青色の髪を翻しながら、女性は僕の方をのぞき込む。その目は、まるで底のない泉だ。どこまでも沈んでいきそうに見える。それにしても、こんなことをしておきながらこんなのんきでいるなんて、腹が立つな……。


「……ええ、そうでしょうね。いきなり水鏡の中に引きずり込んできた相手でなければ、僕だってそうします」


 敵意を表しながらそう言うと、女性は深くうなずいた。


「それもそうね。ここに連れてくるためとはいえ、少し乱暴だったわ。大変な無礼、お詫び申し上げます……で、あっていたかしら」


 その一連のしぐさが、あまりにも普通で、自然。思わず敵意を忘れかけるほど、女性は礼儀をもってしゃべり、かつ無礼にそれを確認する。


「あなたは何者なんですか。水鏡の中から手を伸ばして僕を引きずり込むなんて、人間にはできない」


 水鏡は、あくまで静かな湖面に映る景色をさらに確かに映し出し、必要な場所に配置できるだけの魔法だ。水鏡の中に世界なんてないし、あったとして世界の境界線を越えるなんて、人間ではありえない。

 人間ではありえない。そこで、気が付いた。

 今、僕の中には、人間じゃないものがいるじゃないか。


「まさか……僕の中にもぐりこんだ、水の精霊?」

「聡明なのね。さすがに”黒”のヌルジールは出来が違うわ……けれど、それは私を指す言葉であって、私の名前ではないの」


 そういうと、女性はスカートをもち、少し持ち上げて、再び礼儀正しい一礼をした。


「私は、ミャイケニッヒリィン=レグナ。長いとお思いでしたら、リィンとお呼びください……だったかしら?」

「……いちいち、確認しないでください。定型文以外は、失礼な話し方が多いですよ」

「なら定型文はあっているのね。ナムフィの言葉で話すのは……いえ、そもそも会話をすること自体ずいぶん間が空いているから、言葉遣いはこれでも気を付けているのよ? ”黒”のヌルジール」


 そう言うと、女性──ミャイケニッヒリィンは、僕に手を差し伸べてきた。


「……一人で立てます」


 その手を取ることなく、僕は立ち上がる。

 警戒して当然だろう。目的は分からないけれど、傷をつけることなく僕の腹を貫いて、魂の隙間にもぐりこんできた相手。そして、僕を短命にする精霊なのだから。


「あら、そう。ところで、あなたの名前は? いつまでも”黒”のヌルジールと呼び続けるのは、あまりにも記号的過ぎて失礼に感じるのだけど」

「……目的のわからない、人間ですらない相手に、そう簡単に名乗るとでも?」

「ヌルジールはナムフィの中では話のしやすい方かと思ったけれど……あなた、ずいぶんメグナムフィに毒されているのね。しょうがないから、あなたの魂に聞くわ」


 魂に聞く。その言葉で思い起こすのは、水の精霊が僕の中に入り込んだ時であろう、精霊の泉での出来事。

 大きくその場から横に飛ぶと、想像したとおり、水の槍が何本もついさっきまで僕が立っていた場所を漂っている。


「……本当に、聡明なヌルジール。けれど、ここは私の世界。最低限の痛みで済ませようと思ったけれど──避けるなら、仕方ないわね」


 ミャイケニッヒリィンが片手を上げると、空間から水がにじみだし──無数の水の槍が僕を囲んだ。


「立体的に囲わせてもらったわ……それじゃあ、もう一度だけ聞くけれど。名前は?」


 その言葉通り、僕の周りは水の槍で覆い尽くされているといっても過言ではない。足元を見ると、上のほうを映しているのか──いや、違う。僕の姿が映っていない以上、これは水鏡じゃない。なら、槍は僕の立っている場所より下からでさえ、僕を狙っている。


「…………」

「だんまり……そう。じゃあ、しかたないわ」


 あげていた手が、振り下ろされる。水の槍は、どれほど小さな羽虫一匹すら逃れえぬほどの密度を保ちながら、互いにぶつかり、洪水のように僕に押し寄せ──突き刺さった。


「────!!」


 痛みの悲鳴を上げたつもりだった。だけど、水の槍で全身を貫かれた今では、悲鳴すらごぼごぼと気泡を生じさせるに過ぎなかった。


「……レイ。レイ・ヌーフェリア。両親は不明ながら、拾われた村の住人に助けられながら生きてきた……あらあら、ついさっき、ずっと好きだった相手に告白して、受け入れられたのね。メグナムフィ相手というのはお勧めできないけれど、ひとまずはおめでとう、というべきかしら……あ、確認するな、だったわね?」


 そう皮肉を込めて笑うミャイケニッヒリィン。それと同時に、水の槍ははじけて消えた。

 たしかに、貫かれるような痛みを感じた。なのに、傷はなく、服にすら穴は開いていない。


「ナムフィにはできないでしょう? こんな精密な操作は。私、無礼な相手は嫌いだから、お仕置きも兼ねて痛覚神経だけは刺激させてもらったわ……もちろん、気絶しない程度にね。私の残滓は、うっかり服に穴をあけてしまったようだから、気をつけてみたのだけど、どうかしら? レイ・ヌーフェリア?」

「……悪趣味」

「素直に名乗ればこんなことしないわ」


 悪びれる様子もなく、ミャイケニッヒリィンは冷たい笑みを浮かべる。


「”黒”のヌルジール、レイ・ヌーフェリア。あなたはメグナムフィになるべきではない。だから、私の残滓を別の残滓でメグスするだなんて、やめたほうがいいわよ? 一度メグナムフィになってしまえば、永遠にディルナムフィになる機会を失うのだから」

「あなたの言っていること、知らない言語が混ざっていて理解できませんよ……ミャイケニッヒリィン」

「……ああ、そうね。この言い方は私たちの間での言い方だったわ。じゃあ、ナムフィにもわかるように言ってあげる」


 一呼吸おいて、ミャイケニッヒリィンは再び口を開いた。


「新造魂、レイ・ヌーフェリア。あなたは転生者になるべきではない。だから、私を別の精霊で打ち消すのはやめたほうがいい。一度転生者になれば、二度と高位の存在にはなれないから」


 その言葉は、僕にも理解できるものだった。

 理解できるものになったから、僕ははっきりと返答できる。


「嫌だ。あなたを受け入れ続けて、早死にするなんて、まっぴらごめんだ。高位の存在……ディルナムフィ? とやらが何だか知らないけど、僕はそんなものより、大好きな人の隣に立ち、互いに支えながら長生きしたいからね」

「メグナムフィに毒されていては、その回答も当然。けれど、じきに分かるわ。ディルナムフィになる幸福。そして、私の誘いを断った己の愚かさをね」


 その脅す言葉に警戒するけれど、先ほどのように水の槍が襲い掛かってくることはない。


「……ずいぶん、諦めがいいんですね」

「回答するには、まず質問されないといけないでしょう? あなたは質問の本当の意味を知らないから、私の示した最良の回答が本当に最良なのか判断できないだけ。質問を知れば、私に泣いてすがるわ。ディルナムフィになりたい、とね」

「…………」

「反抗的な目……まあ、いいわ。また、時を見計らってここに連れてきてあげる。それまでは、さようなら」


 ミャイケニッヒリィンが背を向けると、僕は水鏡のようなものに吸い寄せられる。彼女の真意を問いただそうとしたけど、また気泡になった。おそらく彼女には届いていないだろう。


「……ゲホッ、ゴホッ」


 引きずり込まれた時、水にぬれたように感じた。ミャイケニッヒリィンの前でも、服はぬれていた。けれど、今は服も、体も濡れていないし、水鏡はなく、床に置かれた片手鍋の中に水としてとどまっている。

 幻でも見た気分だ。けれど、わかる。あれは現実だ。

 今、水を吐き出した。それは、呼吸器に水が入り、それをせきで吐き出せた証。

 きっと、ミャイケニッヒリィンの”今のは現実だ”という悪意ある証明なのだろう。


「……あんな誘い、乗ってたまるか」


 ただの水となった水鏡をにらみつけて、苛立ちから片手鍋ごと普段より乱暴にかまどに置き、引きずり込まれる前にしようとしたことを再開した。

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