謎多き宿、されど青春は甘く。
翌朝。僕は水の音で目が覚めた。
そういえば、この宿の中には井戸があったな。ここの人が水汲みでもしているのだろうか。部屋を出て、廊下の窓から中庭をのぞく。
「……っ!?」
猟師には、慣れ親しんだもの。だけど、それは厳密には初めてみるもの。
中庭。そこには、血まみれの人間の遺体が三人分転がされていた。すでに衛兵さんはやってきていて、遺体の顔は見えない。けれど……あまりにも、むごい。腹を切り開かれ、内臓をぐちゃぐちゃにされている。
僕に気付いて、衛兵さんがこちらに声をかける。
「やあ……なんというか、見たいものではないね。こんな殺し方、どれだけ恨みを買っていたのやら……」
顔から血の気が引く。だって、ここまでの恨みを、僕は知らない。村で呼んだ推理小説でさえ、もっと苦しまない殺し方をされていた。
「この三人を殺した人物は、おそらく裁かれないだろうね……全員、悪質なカルト教団の暗殺者。生死問わずの賞金首だ……むしろ、たたえられてもおかしくないし、賞金総額はお兄さんに渡した何百倍にもなる。なのに、苦しめて殺すだけなんて、何がしたいんだ……」
「あの、カルト教団は分かるのですが……なんで、暗殺者が?」
カルト教団がどのようなものかくらい、僕でもわかる。けれど、そういうところは教祖のカリスマで抜ける気すらおこさせなかったり、抜けられないような仕組みができているものだ。
暗殺者なんて物騒な人が、どうしてここで殺されているんだ?
「ああ、殺されたのは、聖銀の教会っていう……新造魂を悪魔扱いする連中でね。悪魔を浄化して人間にする、と言って新造魂を殺すんだ。多くの場合、新造魂は強力な力を持っているから、正面からでは勝てない。だから、暗殺者が必要なんだろう」
その言葉は、僕を激しく揺さぶった。
悪魔? 新造魂、ってことは、僕が標的だった?
「……聖銀の教会は、何か根拠があっていっているのでしょうか」
「大昔、それこそ神話の時代にはその強大な力を暴虐に使った新造魂がいたという話だけど……そんな神話を信じるなら、その宗教を信じればいいものを」
鼓動が早まる。知っている。新造魂が、軽蔑や畏敬を込めて呼ばれる理由。
それは、常人を圧倒しうるだけの能力。幸か不幸か、僕には特別な能力はない。
けれど、新造魂がそこかしこにいるわけではない。だったら、この無残に殺された人たちは、僕を新造魂だと見抜いて殺しに来ていた?
「……恐ろしいね。私も、ここまでの遺体を見ることはまずない。今、この宿の人と共に血を何とかしようとしているところだ。遺体は私たちの領分。もう少ししたら、回収に後輩が来る。君も、長い間見ていたい物ではないだろう? 早くどこかに行ったほうがいいよ」
「そう、ですね。マイアには、中庭に行かないように言っておかないと……」
獣の内臓は、いくらでも見てきた。けれど、それが人になるだけで、ここまで気分が悪くなるなんて……窓から離れ、壁に背を預ける。
僕でさえそうなのだ。マイアが見たら、ショックで倒れてしまうだろう。
だから、僕はマイアの部屋のドアをノックした。
「マイア? ちょっと話がしたくなってさ。朝ごはんまで一緒にいたいんだけど、いいかな?」
少し大きめの声で呼びかける。けれど、返事はない。まだ寝ているのだろうか? でも、昨日僕より先に寝ているし、普段から早起きなんだから起きていそうなものだけど……。
昨日のことを思い返しながら、ドアノブに手をかけると、動いた。鍵が、かかっていない。
「……!? マイア、入るよ!」
タルカさんをあんなに警戒していたマイアが、鍵もかけずに眠るわけがない。返事を待たず、僕はドアを開けた。
マイアは、窓際に立っている。良かった、ひとまず無事なようだ。
「マイア、起きてるなら返事ぐらいして──」
そう声をかけている途中で、マイアの様子がおかしいことに気付く。
窓から外を見ながら、洗面器にためた水で、必死に手を洗っている。
「どうしたの? 手、汚れてないのに……あかぎれしちゃうよ?」
マイアの手をそっと握り、手を洗うのを辞めさせる。
「あ……レイ……」
「僕だよ。どうしたの? 鍵もかけないで、そんなに手を洗って」
マイアの手は、震えている。それに、冷たい水で洗ったせいだろう。血色も悪い。いったい、いつからこんなことを?
「これは……手が汚れてしまって、レイに触れないと思って……」
「大丈夫。マイアの手はきれいだよ。だから、もうやめて。猟師やってれば、汚れの一つ二つ、気にならない。それより、大切な人の様子がおかしいほうがよほど心配だよ」
「……わたし……庭に、出て……手に、血が、ついて……!」
震えながら語るマイアの言葉は、察するにあまりある。
マイアも、見てしまったんだ。あの、むごたらしい遺体を。
「人の血が付いた手でレイを触りたくなくて、でも、洗っても、洗っても、落ちなくて……!」
「マイア……」
気持ちは、分かる。
猟師になるために、師匠について回っていたころ。獣の解体を初めてやった日。あの時、僕は自分の手がひどく汚れてしまったように思えて、マイアとは違う世界に来てしまったようにすら感じた。
その時、マイアがしてくれたことは、今でもよく覚えている。
「レ、イ……?」
だから、僕は同じことをマイアにする。そっと抱きしめて、背中をさする。
「つらかったな。怖かったね。血が手について、恐ろしかったよね。自分が、越えてはならない一線を越えたみたいに思えて、何もかもが変わって見えたよね。でも、大丈夫だよ。マイアは、マイアだ。僕は、どんなマイアも好きだから。ほら、よく手を見て? マイアの手は、きれいだよ。真っ白で、透明感があって、けがれの一つもないじゃないか」
これでも、マイアが僕にしてくれたことには、はるかに及ばない。
昔、マイアは、この後僕の血まみれの手を取って、汚れることもいとわず、顔に触れさせてくれた。
「マイア。僕は、マイアが好きだよ。たとえけがれてしまったとしても、それごとマイアを受け入れる。マイアが、僕にしてくれたみたいに」
「……っ、う、うあぁぁぁ……」
堪えていたけれど、少しずつたまっていた涙がせきを切ったように流れる。僕は、それをただ受け入れた。
「ちが、うっ! 違うの……っ! 私の罪も、穢れも、レイとは違うっ……こんな私、レイに好きでいてもらう、資格なんてない!」
整った顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、マイアはそう訴える。
「マイア。お願いだから、そんな悲しいこと言わないで? 僕は決めてるよ。聖火山に行って、火の精霊を受け入れて、村に帰る。そうしたら、村長に認めてもらえるよう、どんなことだってするって。だから、お願い、マイア。僕から、マイアを好きでいる資格を奪わないで?」
「レイはっ……平気なの? わたしは、レイにも言えないようなことをしたのにっ!」
「マイア。何をしたのかは、マイアが言ってくれないと分からない。でも、僕はマイアの全部が好きだから。マイアが僕を好きだって、大切だっていってくれるなら、マイアの罪で僕が罰を受けたってかまわない。大好きだよ、マイア」
「でもっ! 私は誰にも言えない秘密が──」
どこまでも自分を傷つけようとしているマイア。その口から洩れる言葉を止めるために、僕は僕の口を重ねた。
よほど驚いたのだろう。抱きしめた体がビクンとはねる。
けれど、こわばった体からはすぐに力が抜け、僕を抱き返す。
余計な力の抜けたマイアの口に、僕の舌を潜り込ませる。初めてだから、きっとへたくそだろうけど、それでも。僕はマイアが好きだ。その思いを、直接伝えるかのように。
「んっ……むっ……ちゅ、ぢゅう……」
やがて、マイアは僕の唾液を求めるかのように、口と口でつながったまま、舌を伸ばす。
「はむっ……えろ、べ、ろ……」
新造魂の、初めてのキス。それが幼いころから好きな、こんなにかわいくて、優しい幼馴染なら、文句のつけようがない。
あつく、激しく。けれど、時に休むように舌と舌が触れあう。こんな幸せな思い、きっと来世でもできないだろう。
「あ、む……っ、くちゅ、ぢゅう……もっと……もっと、レイがほしいよぉ……」
その望みに応えて、もう少しキスをする。
「ぷあっ……」
僕の唾液と、マイアの唾液が混ざった液体。それは、キスをいったん終えて、口を離しても、まるで離れることを惜しむように僕らをつないでいた。
「これでも、信じてくれないかな? 僕は、マイアが好きだ。マイアがどんなことをしたって、愛しくてたまらない。言ったでしょう? 僕は、僕をマイアにあげるって。マイアから、マイアをもらうって」
「う、ん……」
「僕は、絶対にマイアを嫌いにならない。マイアがどんなに自分の手が汚れたと思っても、それごと愛してみせる。だから、マイアはもっと自分を大事にして? そんな風に、自分を責めるマイアは、見ているだけで死んじゃいそうなほどつらいんだ」
「ありがとう……ごめんなさい……っ! 私も、レイがどうなっても、レイが好きだから……っ! ごめんね、苦しませて。心配してくれて、ありがとう……っ!」
泣いて、苦しそうで。だけど、マイアは幸せそうにほおを緩め、僕をより強く抱きしめた。