男心を揺さぶる、湯気の乙女
ふぅー、と幸福感から息を吐き、ベッドに横たわる。
まだ旅は始まったばっかりで、僕の寿命は依然縮んだまま。
それなのに、安心感すらあるのはマイアのおかげはもちろん、この街の人達の人柄の良さだろう。
衛兵さん、宿のおかみさんに旦那さん。ちょっと愛想の悪い人もいたけれど、忙しさからピリピリしているだけで、きっと害獣の問題が何とかなれば優しい人達だろう。
「なんだか、忘れちゃいそうだなぁ……」
なんとなく、ひとりごと。寿命や命をかけた旅路。その道中は険しいものだと思っていただけに、こんなにも恵まれていていいのだろうか、という奇妙な感覚だ。
コン、コン。しばらくベッドの上で横たわっていると、壁からそんな音がした。
コン、コン。マイアからのサインに、僕も同じようにして応える。
「ちょっと壁は薄いけれど、いい宿だね。この街もいい場所だし」
『そうね。奥様の料理、とってもおいしかったわ。けれど、忘れないで。危険は、街中にも潜んでいたりするものよ。レイの中にも、危険は潜んでいるのだから』
「そうだね……そういえば、僕が襲われた時、あんなことに巻き込ませない、っていっていたけれど、あれってどういう意味なの?」
水の精霊、ミャイケニッヒリィンの残滓に襲われた時、たしかにマイアはそう叫んでいた。あの時はまだ男口調だったけれど、それは覚えている。
『そんなこと、言っていたかしら……ごめんなさい、あの時は、レイが危ないって思って、何が何だか……記憶もあいまいなの』
話の流れから聞いてみたけれど、返ってきた返事はそんなものだった。
そんな状況で出る言葉ではないと思うのだけれど……もしかして、マイアの”ひどい秘密”って、あの言葉を放つに足るだけの前世の記憶とか? たとえ話だと思っていたけれど、もしかしたら本当に秘密を抱えているのかもしれない。
「そっか。あの時は大変だったもんね」
恋人一歩手前の身分としては、その秘密を聞いて、楽にしてあげたくも思う。けれど、無理に聞きだすのはよくないだろう。そう判断して、何でもないように話を流す。
「それで? なにかあったかな?」
『えっと、ね。奥様から聞いたのだけれど、このお宿、お風呂が宿泊客全員で共用なの。もちろん、入浴中の札は用意されているのよ? でも、さっき、タルカさんみたいな人と話して……私がレイとそこまで別行動を取るのは、危険かも、って』
ふむ。たしかに、マイアはまごうことなき美少女だ。のぞきや、そこから派生するひどいことになったってちっともおかしくない。タルカさんのせいで、この宿全体にマイアの存在は知れ渡っているし。
「わかった。マイアがお風呂に入ってる間、僕が見張りをしておくよ」
『その……それだけでも十分かもしれないのだけれど、窓もあるから……』
「じゃあ、魔弾で見張りを……あ、街中では猟銃に封印かかるんだっけ。どうしたものかな……」
魔弾は第三の目であり、耳だから良い案だと思ったけれど、それを撃ちだせないのでは実行はできない。
……いやぁ。まいったな。なんで、マイアが僕に声をかけているのか、さっぱり、分からない。本当に。何もわからない。本当に。
『レイ、私と、一緒に……お風呂入ろ?』
あまりの発言に僕は握りこぶしで自分の頬を強く殴った。うん、夢じゃない。
『はしたないお願いだっていうのは分かってる。けれど、レイにしかお願いできないの。レイなら、前にも見られてるし、この旅が終わったら何度も見せることになるだろうから……恥ずかしいのを、少しずつ慣らさなきゃ、って……』
たしかに、僕はマイアの裸をちらっと見てしまっている。男口調の時代とはいえ、内心では恥ずかしかったのはもう知ってしまっている。
「その、なんとも光栄だけれど、えーっと……」
『これから先、川で水浴びとかもするだろうから……お願い、レイ』
「……あのね、マイア。村にいた時も言ったけど、僕は男だよ」
『うん』
「あの頃は男口調でいてくれたからかろうじて耐えられたけど、マイアは本当にかわいい女の子なんだ、って知った今では、僕も安心できる相手とは言い難いんだ。マイアをひどく傷つけてしまうかもしれない」
『それでも、見ず知らずの人にいいようにされるのと比べれば耐えられる……ううん。レイにされるなら、うれしいくらいなの』
ドクン。心臓が大きく跳ねる。
僕は、マイアが好きだ。だけど、その思いはマイアが抱く僕へのそれと比べればはるかに小さいと思える。
マイアにいたずらされたくらいなら許すだろうし、軽いいたずらならかまってくれてうれしい。
けれど、マイアはそんな思いとは比べようがないくらい、僕の行いを受け入れようとしている。
「マイア。自分をもっと大事にしないとだめだよ。まだ、僕たちにそういうのは早すぎる。入口のところで見張ってるから、もしも窓のほうから変な人が来たら大声で叫んで。すぐに助ける」
それでも、一線は超えてはいけない。帰った時に村長に殺されるから、なんて保身じゃない。
僕は、マイアと将来を誓ったからこそ、今は手を出してはいけない。
新造魂と転生者に寿命の差はないと、村で聞いた覚えがある。けれど、今の僕は寿命が縮んでいる。
後どれだけ生きられるかなんてわからないけれど、同じ歳のマイアより早く死ぬのは、現状では確定している。
マイアは僕のことを思ってくれている。だから、僕が先に死ねば、これ以上ないほど悲しむのだろう。
想い人を不幸にすると分かっている。そんな状況では、僕はこれ以上のことはできない。
『……はぁ。そんな思い詰めた声で言われると、私の貞操が緩いみたいに思えちゃうな。わかった。でも、もしものことがあったら、ちゃんと助けてね?』
「もちろんだよ。今はまだその時じゃない、ってだけで、誓いの言葉は本気だから。将来のお嫁さんを守るのは、当然のことだからね」
『うん……その言葉を聞けただけでも、うれしい。じゃあ、お風呂空いてたら、入るから、ついてきてくれる?』
「お任せを、大切な人」
そんな言葉の後に、僕はベッドから降り、ドアを開けた。
「それじゃあ、ちゃんと私を守ってね? 私の愛しい人」
少ししてから部屋から出てきたマイアは、僕の顔を見ると喜びを浮かべて、そんなことを言った。
夕飯の時に顔を合わせて、一緒に部屋の前まで戻ってきた。なのに、僕も喜びを隠せない。それはマイアに愛しい人、と言われただけじゃなくて、少しだけでもマイアとはなれていたからなのだろう。
「キイルさんの言ったこと、本当みたいだね」
「そうね。馬なのに、人の心もわかるなんて、なんだか不思議」
「人が人に生まれ変わると限らないのなら、前世は人間だったのかな? それとも、ココキさんとの旅がよほど人の心の勉強に役立ったか……」
そんな話をしながらマイアと宿の中を歩く。それは、ありふれているのだろうけど、幸せでかけがえのない時間。
この時間を少しでも長く感じるためなら、どんな苦痛にも耐えられる。火の精霊がどんな性悪だろうと、どんとこいだ。
「それじゃあ、見張りお願いするわね」
脱衣場につながる扉にかけられた札を入浴中に裏返しながら、そういうマイア。
「うん、ゆっくりあたたまってね」
「レイならのぞいてもいいからね?」
うーん……こういうのも、からかいなんだろうけど、やられっぱなしでいるのもなんだし、たまにはやり返してみようかな。
そこで、僕はマイアの口元に人差し指を立て、持っていく。
「今はまだ我慢する。これからもね。でも、我慢した分、初夜は激しくしちゃうからね」
「ふぇっ!?」
囁いた言葉に、マイアは顔を真っ赤にして後ずさった。
「冗談。優しくするよ」
「その、どっちでも、うれしい、です。えっと……私が誘惑してるとき、レイはいつもこんな気持ち、だったのかな? だとしたら、その、ごめんなさい。すごく、ドキドキが止まらない……」
しどろもどろになりながら、マイアは扉の中に入っていった。あの反応なら、マイアもそんなしょっちゅう誘惑してこなくなるだろう。
さてと。見張りと言っても、よほど育ちの悪い旅人がいない限り、話だけで何とかなるだろう。正直、猟師としての技術くらいしか持ち合わせない僕に、殴り合いはつらい。基礎体力はあっても、技術がないからね。
……というか、タルカさんみたいな人が来ない限り、僕がいた方がかえって危ないのでは? マイアがお風呂に入ってますよー、と言っているようなものだもんな。でも、頼まれたからにはしっかりやらないとね。
「おや、レイ君。風呂の順番待ちかい? お客さんのタオル用意するのが遅かったかな……」
「あ、旦那さん。いえ、マイアがお風呂に入っていると知ると、タルカという人がのぞきに来るんじゃないかと不安で。それで、見張りをしているんです」
僕がそういうと、山ほどのタオルを抱えた旦那さんの眉がピクリと動いた。
「そうだ、妻から伝言を頼まれていた。レイ君、うちにはそのタルカという人は、泊まっていない。目的は分からないが、君たちには偽名を名乗ったのかもしれない。外見の特徴は? 犯罪者が、宿に堂々と泊まるとは思えないが、手配犯なら私たちが知らないはずがない」
偽名? この宿には泊まっていない?
「白の短髪、褐色肌の女性です。マイアほどではないですけどスタイルがよくて、きれいな人でしたよ」
困惑しながらも、万が一ということがあるから話しておく。
「そうか……少なくとも、指名手配はされていない。だが、偽名を名乗るなんて怪しいな。もしかしたら私たちにも偽名を使って泊まっているかもしれないから、妻にも話しておくよ」
「ありがとうございます。心配してくださって」
「気にすることはない。お客さんに危害を加えられたり、犯罪者を泊めたりなんてまっぴらだからね。私たちにとっても益のあることだ」
旦那さんは、優しく微笑んでくれた。
「しかし、まいったな。マイアちゃんは年頃の女の子だろう? 浴室と脱衣場の間にも扉があるとはいえ、勝手に入っていいものか」
「あ、そういうことなら僕が置いておきましょうか? お風呂上りにタオルがないと、マイアも困りますから」
「頼まれてくれるかい? すまないね、お客さんなのに」
「お気になさらず。ドアのノックと、開けるのだけお願いします」
そういって手を差し出すと、申し訳なさげに旦那さんはタオルを僕に渡し、ドアをノックした。
「マイア、旦那さんがタオル持ってきてくれたから、脱衣場に入るよ」
僕が言い終えると、旦那さんは一呼吸おいてからドアを開けた。
マイアの返事がなかったのは、まだお風呂に入っているからだったようだ。そこまで大声ではいわなかったもんな。
「マイア、タオル置いておくよ」
『レイ? ありがとう。いざとなったら魔法で何とかするつもりだったけれど、これでその心配はないわね。でも、なんでレイが?」
「旦那さんが持ってきてくれたんだけど、マイアが気にしないか心配してくれたんだ。だから、代わりに僕が」
『……やっぱり、レイは優しいね。私、レイを好きになってよかった』
「そう思ってくれてうれしいよ。これからもそう思ってもらえるように、頑張るからね」
少し話をして、脱衣場を後にする。旦那さんはそっと扉を閉め、ほほえましいものを見る目で僕を見てきた。
「いい夫婦になるよ、レイ君とマイアちゃんは。今の会話でそう思える」
「巡礼が終わったら、故郷に帰ってマイアのお父さんに許可をもらうために頑張ろうと思うんです。大事な娘を溺愛しているのでそう簡単にはいかないでしょうけれど、あきらめません」
「ほほえましいなぁ。できるものなら結婚式に駆けつけたいくらいだ。故郷はどこなんだい? 宿を休むわけにはいかないが、お祝いの手紙くらい送るよ」
「精霊の泉がある森、その近くの田舎村ですよ。手紙の配達も結構まとめてになるような場所です」
「……もしかしてだけど、シャレア村?」
「ご存知なんですか!?」
「それはもちろん! 昔お世話になったココキという行商人が引退して落ち着く、そういった村だからね!」
「あ、だからこの宿を勧められたのかな……ココキさん、よくここに泊まったんですか?」
「ああ。それに、珍しいものもいろいろ見せてもらったし、聞かせてもらった。そうか、あの人の……」
昔を思い出しているのか、旦那さんは目を閉じ、うんうんとうなずいている。
「おっと。昔を思いだすのもいいが、仕事をしないとね。妻に怒られてしまう。レイ君、結婚はね、相手を大切にして、尻に引かれるくらいがちょうどいいからね」
それじゃあ、と手を振りながら仕事に戻る旦那さん。あんなに強そうな人でも、大切な人には勝てないんだな……当然か。僕だって、マイアには勝てない。
けれど、マイアになら僕のすべてをささげられる。そう思ったからこそ、マイアと誓いの言葉を口にしたんだ。
幸せへの道のりは、まだ遠く険しいだろう。それでも、僕は歩み続ける。
いつか、僕の幸せが、僕たちの幸せになればいい。
マイアに幸せになってもらうためにはどうすればいいか考えながら、見張りを続けるのだった。