鏡の向こう
……疲れた。
その言葉が声になったかは定かではない。
その認識が出来ぬ程に参っていたのだろう。
今日、診ていた患者が目の前で飛び降りた。
「今を幸せに生きている先生には、わかんないよ。ごめんね。」
謝るなら飛び降りるなよ。
何のために俺がカウンセリングしてると思ってんの。
ーーーーー俺が幸せに見えるんなら、あんたの方がよっぽど幸せだよ?
そんなことを言う暇もなく、患者は飛び降りた。
その光景はスローモーションに見えて、患者の姿が消えてから見えた真っ青な空がひどく腹立たしく見えた。
机の前の大きな鏡に手をついた。
はぁ、と息が漏れた瞬間。
ぽた、と目から水が溢れた。
水滴が一滴、二滴と机に落ちる。
患者が目の前で死んだことに涙が出ているのではない。
自身が幸せそうに見られることが哀しいのだ。
「だから、言ったろう?咲。」
いつものように小馬鹿にした、自分の声が聞こえた。
「早く、死んで仕舞えばよかったのに。」
顔を上げると自分と同じ顔が、かけていないはずの眼鏡をかけて、着ていないはずの白いシャツを纏ってニヤリと笑っている。
「目の前の薬を飲んで、眠るように死ねば、お前は楽になるし幸せになれるってそう言ったろう?咲。」
「……黙れ、」
斜に構えた表情の『俺』は言葉を紡ぎ続けた。
「精神科医が心を病んでしまったら使い物にならないことくらい、お前がよく知ってるはずだ。」
「黙れ、」
こんな幻覚が見えるお前が幸せに見えるんだな、世の中は。
「黙ってくれよ!!」
ぽた、ぽた、と涙は止まる気配を見せない。
「俺からは逃れられないよ?」
『俺』は、俺の手に重ねるように鏡に触れた。
何も感じないはずなのに、何となく暖かい気がしてしまった。
「だまれ、おまえ。」
もう、どうでもいいや。
明日からの仕事も、いつから見えるようになったのかわからないこの幻覚も、俺自身も。
俺は椅子に腰掛けて、そのまま机に突っ伏し、意識を闇に沈めた。
***
夢の中なのかどうかわからなかった。
何故なら、眠る前と同じ景色が広がっていたから。
寝たはずなのに、なんで目の前に忌々しい鏡と、薬の小瓶があるのだろうと思った。
鏡に手を触れると、そこに現れたのはいつもの頭に来る顔ではなく、
「起きてよ、ねえ、咲!」
小さな、子供だった。
俺はその子供に見覚えがあった。
「……雪、葉?」
勤めてる病院の小児科に通い詰めてる子だ。
俺の患者ではないが、よく絡んでくる。
自分の方が体が弱くて、しんどいに決まってるのに俺に会うと決まって大丈夫?と声をかけてくる。
先生とついていないのはいつものことだった。
「咲…?起きた?」
「なんでお前、いるの?」
「わかんない、」
でも、と彼は続けた。
「よかった。咲、生きてた。」
「……何言ってんのかな雪葉くん。」
言ってる意味がよくわからない。
「たまに、こういうこと、あるの。夢の中で、咲が死んでるの。いっつも呼んでも起きないから。」
理解するのに長い時間かかった。
彼の夢の中で、俺が死んでる?
「だから咲に大丈夫?って聞いてたんだけど、咲全然わかってくれないから。」
「……何で、俺の心配するの?」
「咲は、心のお医者さんだって。いろんな人の心をなおしてるんだって。でも、咲の心は誰がなおすのって思った。だから、」
咲がしんどいときは、俺がなおそうって思ったんだ。
なんで、こんなこと言ってくれるんだろう。
主治医でも何でもないのに。
「……死にたい、って思ったんだ。」
気づいたら零していた。
心のお医者さんだって言うけど、治ってるかどうかなんてわかんないんだ。
患者は平気で嘘をつく。
それを何回も見逃して、この間とうとう1人目の前で死んだ。
「気づいたらこの薬を買ってた。俺に、『俺』が死ねって言う。」
彼は黙って聞いていた。
「……咲は本当に死にたいのか?人に言われたからじゃないのか?」
真っ直ぐな目が俺を見た。
「その『俺』に死ねって言われたから死のうって、そんなの無責任だ。」
それでも生きろよ。
「死ねって言われても、生きろよ。俺は咲に死んでほしくない。そんな本当にいるかもわからない奴の言うこと、聞くのかよ。」
初めて、そんなことを言われた。
年端もいかないガキに。
「咲、生きてよ。」
「……そうだな。」
ありがとう。
素直にそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。
***
目が覚めても景色は変わらなかった。
体が痛い。
鏡を見ると、髪がボサボサの俺が映ってるだけだった。
幻覚は映っていなかった。
「……俺は、生きるよ。ちゃんと。」
いつも見える幻覚に言い聞かせるように、口を開いた。
そして、机の上に置いていた小瓶をゴミ箱に向かって投げた。
病院に着いたら、まずは小児科に行かなきゃな。
そう思った。
窓の向こうを見ると、昨日と同じ真っ青な空が広がっていた。
でも、昨日ほど腹立たしくならなかった。
幸せとは程遠い生活を送っていることに変わりはない。
でも。
会いたいと思える存在ができた。
それは、俺自身の中で、小さいようで大きな変化なのだ。
「…行ってきます。」
あの幻覚は、その変化をもたらしてくれる存在だったのかもしれない。
だとしたら、もう一度会いたいと思ってしまう俺はどうかしてる。
小さく笑ってから、青空の下に歩を進めた。
Twitterで在原功さんがあげていた絵が元です。
ああいう絵が本当に好きで。
気づいたら筆が進んでおりました。
(書いている途中で別設定を思い浮かべてしまったのは内緒で笑笑)
こんなんでよかったのだろうか、と思います。