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ただひとつの直線路

 荒い息、背中越しに伝わる熱。

 

 人間がこれほどの熱量をもつのかと疑うほどに、イリス・エウラシアンは異常な高熱を発していた。


 どれほどの苦痛を抱いているのか……モードレッドには、想像もつかない。


「……猫さん」

 

 消えかけている声音で、彼女はつぶやく。


「……マルスさんが心配なの」

 

 最早、歩けないほどに衰弱しているイリスをおぶり、モードレッドは死路の道を運ぶ。本来ならば、医師から『絶対安静』の四文字を処方され、眠りに落ちていかなければならない体調。

 

 伝えなければ良かった。モードレッドは、そう思う。


 マルス・エウラシアンが初戦から帰還し、フィオールとの“差”を明白にされ、彼女への殺意に身を焦がしていることを。


 そのことを教えなければ、残り短い寿命を削ってでも、息子を止めようとはしなかっただろう。


「アレは、大丈夫っすよ。あんたに似て、性根がボケてんだから」

 

 咳き込みながら、イリスは笑う。


「あの人は、父親に似てとても不器用だから……自分自身の価値が、剣にしかないと思いこんじゃってるの……部屋に舞い込んだ蝶々を逃してあげる優しさも……誰にでも別け隔てなく接する慈しみも……こんな母親を気遣ってくれる愛しさも……なにもかも、備わっているのに……」


 肩に載せられていた手が咳と同時に引っ込み、戻ってきた時には真っ赤に染まっていた。


「あの子はね……自分がどう見られるかで、自身の価値を決めつけている……あんなに素敵な心をもってるのに……」

「あんまり、しゃべんな」

「心配なの」


 鼻を啜る音と涙声が交じる。


「あの子を残していなくなるのが……あの子になにもできないまま消えるのが……あの子に伝えられず死ぬのが……」


 子どものように泣きじゃくりながら、イリスは無念と後悔を吐露とろした。それがあまりにも虚しくて、モードレッドは歯を食いしばる。


「わたしは……」


 背中に、熱い液体が染み込んでいく。


「わたしは……なにもできなかった……あの子を幸せにしてあげられなかった……なにも……なにも……」


 胸に込み上げる衝動――思わず、モードレッドは言葉を発している。


「決めつけんな」


 モードレッドの背中で、彼女が顔を上げた。


「アイツの不幸を決めつけるな。あんたなんかいなくても、きっと、アイツは上手くやる」


 口から、言葉がほとばしる。


「あんたが救うんじゃない。アイツがアイツを救うんだ。優しさに慈しみに愛しさまで備わってて、強さがありませんなんてことあってたまるか。あんたの息子だろ。だったら、信じてやれよ。

 アイツはアイツで、自分を救ってみせるんだって」


 数分の沈黙の後、イリスは口を開いた。


「うん……わかった……信じる……貴女を……マルスさんを信じてみるね……」

「なんなら、言ってやればいいんすよ。『救いなさい』って、ドバーンっと」


 イリスは、くすくすとという笑い声を響かせる。そのあまりに弱々しい笑声は、宵闇の空気に混じって溶け落ちた。


「でも、誰かが、あの子の近くにいてくれたら安心……だから……お願いね……傷だらけの猫さん……あの子を見守ってあげて……」


 軽々しい口約束では、到底叶えられない願い。だから、モードレッドはなにも答えずに、淡々と歩き続ける。


 フィオールの部屋の前に辿り着き、イリス・エウラシアンを下ろした時――月明かりに照らされた彼女は、白色の中で微笑んだ。


「ばいばい……おっきな猫さん……」


 あまりに美しい微笑は、月光に照らされ消えていった。




 グレイ・エウラシアンは、ぼそりとつぶやく。


「理解した」


 なにを――疑問をもったフィオールの前、唐突にユウリの剣が掲げられる。同時、剣戟音。なにかを弾いた音。


「な……なに……?」


 わからない。なにが起こっているかわからない。ただ、父は腰を屈めて足をたわめ、腰元に手を当てているだけ。居合いの構え。その状態のまま微動だにしていないのに、剣すらもっていないのに、金属音だけが耳元で響き渡る。


 無表情のユウリは、淡々とフィオールの眼前に剣を差し出し――腕の根本に亀裂が入り、大量の血液が噴き出す。


「ユウリ様っ!?」

「ユウリ・アルシフォンの弱点」


 父は、そっと提示する。


「それは、お前だフィオール……ユウリ・アルシフォンが、守るべきものと言い換えたほうが理解できるか?」


 瞬間、理解する。グレイが飛ばしているのは、魔力で象られた視えない刃。恐らく、ユウリは、超常的な勘をもって防いでいる。


 だが、突っ立っているだけのフィオールに集中されている攻撃を、ただの勘だけで防ぎ続けるのにも限界があるのだ。


 次々、飛ばされる飛剣。わかりやすく足手まといになっているフィオールは、判断すら下せず、盾となったユウリを見つめることしかできない。


 り、離脱するしかない!! ユウリ様と共有している魔力を使って、一度、王都なりに逃げ――


「阿呆が」

「しまっ……!」


 思考に割いたことで出来上がった油断、破壊を恐れて常に注意していた左腕が上がって、身につけていた腕輪が粉々に砕け落ちる。


 ユウリから流れ込んでいた魔力が消え、一気に身体が重くなり、粘つくような疲労感が舞い戻ってくる。もたつく足に気が削がれ、どこからくるかわからない剣に怯え、不用意に長剣を掲げ上げる。


 その様子を視たユウリの反応が、わかりやすく鈍る。


「あっ」


 ユウリのこめかみに線が入り、彼の顔面にどろりと赤い血が垂れ落ちた。


「敗因を教えてやろう」


 グレイ・エウラシアンは、ささやく。


「お前だ、フィオール」


 絶望が――彩られた。




 暗闇にいる。


 マルスの狭まった視界には、ユウリとフィオールの姿が映っていた。


「……ユウリ殿」


 明らかに、フィオールを庇っている動き。アレだけの力をもちながらも、他者を気遣うあまり、本領を発揮できていない。父はそういう弱みに漬け込むのが、異様なまでに上手かった。


 全身に力を籠めて、立ち上がろうとする。だが、ダメだった。指一本動かせない。全身に仕込まれた歯車が、一斉に仕事を放棄したかのようだった。


 ……どうせ、ぼくに出来ることなんてないか。


 飾り物の家柄、飾り物の善心、飾り物の大鎧……思えば、マルスの人生にあったのは、全て誰かから与えられたものだった。


 生まれによって家柄を与えられ、母親によって善心を与えられ、戦争によって大鎧を与えられた。


 いつも、流されるように生きてきた。たったひとりの父に認められたいがばかりに、操り人形のように躍ってきた。


 でも、もう終わりだ。立ち上がれない。


 実の父親には無能呼ばわりで見捨てられ、母は不甲斐ない息子に絶望して死に、名も知らぬ子には石を投げられた。懸命に生きてきたつもりで、やることなすこと、意味を為さなかった。


「誰も……誰も救えなかった……」


 頬についた土と涙が同化し、茶色になって零れ落ちる。


おれは……ぼくは……なにをしてきた……なにも……なにもできなかった……誰を救った……こんなぼくが……なにをしたところで……」


 ――なぜ、己で可能性を閉ざすのですか?


 唐突に、母親の言葉が胸を満たした。


 ――自分で自分を閉じ込めるなんて、そんな酷い仕打ちったらありません


 目の前で、血を浴びせられ続ける妹の姿、そして横たわりぴくりともしない、もうひとりの妹が視えた。


 ――もっとどばーんっと! マルス・エウラシアンを、信じてみたらいかがですか?


 無理だ。そう思いつつも足に力を入れる。

 無駄だ。そう思いつつも足に力を入れる。

 無為だ。そう思いつつも足に力を入れる。


 何度も、何度も、何度も。失敗してもめげずに、不可能だと思いつつも、必死になって力をめる。


 目の前で『不可能』と言われた稲光の足運び(ブリクスト)を発動した、あの病弱でバカにされっぱなしだった母の姿を思い出しながら。


 ――この世に、不可能などないのですから


 マルス・エウラシアンは、立ち上がる。


 ふらつく身体で、喘鳴を漏らしながら、笑われるような虚しい構えをもって、彼は折れた剣先を伸ばす。


 目標を見据える。偉大なる父の姿。


 ――才がない


 自分を切り捨てた父。


 ――稽古の邪魔だ、納屋にでも入れておけ


 自分をゴミ使いした父。


 ――お前がダメなら、フィオールがいる


 自分に期待しなかった父。


 それでも、マルスは父を愛していた。尊敬に値する実直さで、グレイ・エウラシアンは剣の道を極めようとしていた。彼の辿った道のりは邪道だったが、家を守るという意味では、マルスの目指す道と重なっていた。


 だから、褒めてもらいたかった。一度でいいから、褒めて欲しかった。普通の父親と息子みたいに、他愛もないことでもいいから、彼に『見事だ』と言って欲しかった。


 愛して欲しかった。


 瀕死の状態で構えるマルスは、グレイと目が合う。


 価値のない、不要物を蔑む眼……雑魚マルスがなにをしたところで、趨勢(すうせい)に変わりはないと信じ込んでいる眼。


 実際にそうだった。最早、魔力は空っぽ寸前で、稲光の足運び(ブリクスト)はあと一度きりが限界だった。下手をすれば、魔力中毒の症状を起こして、この生命は掻き消えるだろう。


 そんな瀕死の虫けらの剣が、あの剣鬼に届くわけがない。だから、心が折れそうになる。


 無駄で無為で無意味であると、自分自身がささやいていた。


 ――この世に、不可能などないのですから


 だが、言葉があった。


 ――この世に、不可能などないのですから


 だが、信条があった。


 ――この世に、不可能などないのですから


 だが――不可能と諦めるわけにはいかなかった。


 マルス・エウラシアンの稲光の足運び(ブリクスト)は、直線にしか進むことのできない欠陥品。それゆえに、相手が絶対に避けられないとも言える、絶対的な奇跡チャンスが必要だった。


 一度。一度きりの機会チャンス。父が剣を止めるような、そんな奇跡チャンス、それが到来してくれれば。


 ユウリでさえ苦戦しているのに、そんなことが起こるわけがない。


 そう思っていたマルスの前で、父の姿勢が崩れる。あのグレイ・エウラシアンですら予想だにしない、“後方の死角”からの攻撃。


 魔力弾――震える手で最後の魔力を放ったシルヴィは、ユウリに対して、弱々しく微笑みかける。


「おまえみたいな人型奴隷スレイヴでは……とてもできぬ技でしょう……?」


 その台詞に聞き覚えがあったのか、ユウリの表情に変化が生じる。


「お願い……ユウリ……お姉さまを……お兄さまを……」


 シルヴィは、泣きながらささやいた。


「たすけて……」


 ユウリの姿が掻き消え――マルスの背中にてのひらが当てられる。


 ――ユウリ殿になりたかった……あそこまでの力があれば……何もかもを救えたかもしれぬ


 英雄(ユウリ・アルシフォン)は、無表情のままで言った。


「……行け」


 ――だが、我にあったのは外面ハリボテだけ……


「行け」


 己で証明しろと言わんばかりに、背を伝わって一気にユウリの魔力が注ぎ込む。異常なまでに鋭敏化した眼が、真っ黒な天災害獣モンスターたちの壁の隙間を抜け、血まみれで戦うモードレッドを見つけ出す。


「救え……マルス、救ってみせろ……」


 モードレッドは、まなじりに涙を浮かべながらささやく。


母親イリスの願った幸福を……あんたの手で叶えてみせろ……だから、行け……行け……」


 絶叫が――心を叩く。


「行け、マルス・エウラシアンッ!!」


 前を見据える。意思を定める。血が沸騰する。


 目の前に佇む母親イリスの幻想が、胸の中心をいた。


 ――救いなさい


「ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 稲光の足運び(ブリクスト)――景色が消える。


 駆ける駆ける駆ける!! 駆けて駆けて懸ける!!


 色も音も世界も置き去りにして、マルス・エウラシアンは、一本の閃光と化した。己の無力さを投げ捨てて、目の前の父親へと至る。


 なにも成し得なかったと諦めてきた少年は、己自身を救い上げるために、空っぽの外面ハリボテを脱ぎ捨てる。


 直線。不器用で不格好な直線。誰も彼もが、下手くそと呼ぶような直線。


 だが、それはなによりも疾かった。子どもみたいにはしゃぐ母親の姿を幻視するほどに、彼は光へと近づいていく。


 それは、ただ一筋の直線路(みち)


 ――母には、あなたの行く先に、たくさんの路が視えますよ


「母上」


 マルスは、言葉を捧げる。


「このみちだったのですね」


 父は、驚愕を顔に浮かべ、避けられないことを察し――


「……見事だ」


 (マルス)に貫かれた。

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