視たかった笑顔
「神の採択」
混乱するフィオールの耳に、マルスの言葉が届く。
「精霊の坩堝の解放、神託の巫女による制御……そして、“代償”を糧に発動する願望充足器。
ガラハッドを始めとした円卓の血族が、各地の精霊の坩堝の解放を行っていたのは、神の採択を発動させるためだ」
精霊の坩堝……フィオールの頭に浮かぶのは、エウラシアンの邸宅にあった魔力溜まりのことだった。ヴェルナがエウラシアン邸に仮住まいしていたのも、精霊の住み着く地を求める猩猩緋の民特有のものだ。
ヴェルナの顔が、浮かんだ瞬間――閃いた。
「……ランスロット」
フィオールのささやきに、父はぴくりと反応する。
「そうだ……なぜ、今の今まで忘れていたんだろう……ランスロット……ヴェルナが言っていた……エウラシアン家に入り込んでいた不埒者……そうだ、わたしは、相談を受けていたんだ……ランスロットの言葉が、自分を侵食するようだと……ヴェルナは怯えていた……」
ルポールの上空に現れた特異建造物、ユウリたちとの大規模探索、己の意思とは裏腹に砲撃を行ったヴェルナ……今回のシルヴィや街の人たちと全く同じ現象。
そして、その裏にいたのは――
「お父様が……ランスロットなのですか……?」
そう考えれば、すべての辻褄が合う。
幾ら探しても見つからなかったランスロットという男、その正体が擬態魔法を用いた父だと考えれば、どのようにして捜索しようと見つかるわけがない。シルヴィが洗脳されていたのも、“昔から”だと推測すれば道理に適う。
「そうだ」
あっさりと、父は認めた。
「円卓の血族を利用するために、俺はランスロットを名乗っている。
生体核は、得意建造物からのみ獲れる天恵秘宝だからな……冒険者である“虚像”が必要だった。エウラシアン家当主が冒険者として、ギルドに登録できる由もない」
生体核。ユウリがタオルで打ち倒した土中芋虫内から、発見された天恵秘宝。不自然な天災害獣の暴走を引き起こした原因と言われ、冒険者が“意図的”に仕込んだものと噂されていた。
「生体核を用いて、なにをするおつもりですか?」
「善行を積むとでも思ったか?」
ふらつく。血が足りない。会話の最中に傷口を押さえつけながら塞いでいたが、フィオールの体力の限界は近かった。
「王都に存在するものが、最期の精霊の坩堝だ。神託の巫女は既に外界に堕ちており、準備は整ったも同然」
グレイ・エウラシアンは、宣言する。
「王都は滅びる」
「そこまでして……」
フィオールは、悔しさで歯を食いしばる。
「そこまでして……お母様を生き返らせたところで……誰が喜ぶのですか……一体、誰が……」
「戯言は、要らん」
まるで、彼女が、幼い頃に剣の修行をつけてくれた時のように――至って簡素な抜き方で、父は刃を剥き出した。
「剣を構えろ、フィオール」
「他に道はないのですか……他に道は……」
母を思いやる心はある。その事実が憤怒を消失させ、フィオールを気弱にさせた。父殺しの汚名をかぶるのには、まだ彼女には覚悟が足りていなかった。
「誰が戯言を構えろと言った。
剣を構えろ、フィオール。三度目はない」
あの時と、同じセリフ。
兄を愚図と呼び、使用人に片付けろと命令したあの時。あの時と全く同じセリフと構えで、グレイ・エウラシアンは迅雷を帯びる。
両目に籠められた殺意、一片の慈悲もなく、瞬く間に葬り去る敵に向ける視線。
フィオールは、上段に切っ先を向け――呼応するかのように、下段に剣刃が並んだ。
「お兄様……」
「フィオール」
彼の蒼い瞳には、哀憐が浮かんでいた。
「トドメは、我だ」
言いたくなる。お兄様、家族で殺し合うなんて間違えている。人類を滅ぼしてでも、お母様を生き返らせ、もう一度やり直しましょう。
だが、言えるわけもない。
己の欲望に負けてソレを口にすれば、この世界から人間は消え失せる。なにもかもが消えた世界で、エウラシアンだけが残っても意味はない。
それに――ユウリ様は、絶対にソレを選ばない。
「お兄様」
「我を気遣うな。全力でいけ」
そうは言っても、お兄様の身体はもう限界だ。シルヴィでさえも魔力酔いの症状を起こし、お父様の治療がなければ死んでいただろう。
稲光の足運びは、最早、発動できないと言っていい。命を懸ける機会は逸した。目の前の父にはそんなものは通用しないと、脳みそのどこかで冷静に判断してしまっている。
「……よろしいですか?」
フィオールの問いかけに、兄は頷きで返す。
「来い」
木剣を用いた“安全”な訓練かのように、父は簡素に始まりを告げ――動いた。
疾走る。
交差するようにフィオールとマルスは駆け、上下から挟み込むギロチンのように、二枚の刃を交錯させる。
「なっ……!」
が、届かない。剣を抜いてすらいない。何をもって攻撃を凌がれたのか、まったくもって理解が及ばない。
「フィオール!!」
瞬時、判断。
マルスの剣閃に己の剣を合わせ、錐揉みのように回転しながら上へ。上段から魔力を籠めて、重力ごと叩きつける。
明朗な金属音、防がれている。だが、その刃は隠されたまま。
東方の居合い? 鞘の内部に術式を描きつけて、擬似的な鞘走りで剣刃を加速させているのか。
「……重畳」
真剣と真剣を潜る命懸けの最中。フィオールの目線の動きだけで、推察を推し量ったのか。父は、嬉しそうににぃと笑った。
初めて、彼の表情が崩れる。殺気。
「フィオール、下がれッ!!」
兄の叱咤。まだ、脚が宙に浮いている。稲光の足運びでの回避は不可能。
宙空に体躯を浮かせながら、ゆっくりと腰を下ろしたグレイ・エウラシアンを見つめる。
来る――ッ!
思考、直結、回避!!
鞘走り――鍔が閃いて、一閃が飛翔する。
視ろ! 視ろ視ろ視ろッ!!
合わせる。飛ぶ光に剣腹を合わせ、弾くと同時に外側へと力を逃がす。
「…………ッ!」
凄まじい勢いの外力。殺しきれない。メキメキと内部の骨が軋み、筋肉がブチブチと千切れ、グチャグチャと内臓が掻き回される。
死ぬ――ふっと、意識が飛んだ瞬間、横合いから突き飛ばされる。
稲光の足運び。マルスが発動させた魔力膜で包まれて、突き飛ばされたフィオールは力の方向に逆らわずに飛んだ。
軽装を地面に擦りつけながら転がり、あちこちをデタラメに打ち付けながら、徐々に勢いを殺していく。
ようやく止まる。
フィオールは、ぼんやりとした視界の中、おかしな方向に折れ曲がった己の利き手を見つめる。
勝てる気が、しない。
フィオール・エウラシアンは、緩やかに息をしていた。
「ご当主様……」
袖を引かれる。
不安そうに顔を歪める五つ目の少女たち……なにかを訴えかけるように、アカに視線を注いでいた。
「ダメよ」
言われなくても、アカの応えは決まっていた。
アカは、横たわるフィオールから目を逸らせなかった。死にかけながらも、必死に立ち上がろうとする彼女を見つめる。
「あの子は、自分で選択したのよ……兄も妹、どちらかを助けることを選ばず、心中する道を選んだ……それに、エウラシアン家の事情なんて、私たちには関係がない……モードレッドさえ殺せればソレで……」
――見ればわかる。君はパトリシアじゃない
最愛の恋人が外面しか視ていないとわかった時、自分の定義の脆さをアカは知った。
――ほら、食べて
同じ顔をもつ飢えかけた少女たちに助けられたあの日から、アカは“悪”として生きることを選んだ。
道徳も道理も道導も関係がない。
道なんてどこにもない。あるのは、アカとして生きる迷道だけだ。
認める。貴女を認める、フィオール・エウラシアン。貴女は凄い。それだけボロボロになろうとも、第三の選択肢を選んだ貴女は凄い。私はその道を選べず、選択肢という逃げ道を選んだ。
この子たちは、貴女を助けたがっている。善道を選びたがっている。でも、それを選べば、間違いなく死道を辿ることになる。
そんなことは赦せない。
私はこの子たちに助けられた。一度は自分で捨てた命を拾ったこの子たちのために、残りの命を使い切りたい。
だから、私が悪になる。貴女を見捨てる。
この子たちが、酷い選択肢を選ばないように。こんなにも醜くてえげつのない選択を選び続ける。
アカは、唇を噛みしめる。血が垂れ落ちて、顎元を汚した。
きれいに生きたいきたない彼女は、ただひたすらに汚れていった。
「コレが……あの子の選択なのよ……」
「だとしたら」
声に、振り向く。
そこには、汗だくになった五つ目の少女……チェルシーがいた。
外面を取り繕うつもりはないかのように、彼女は垂れ布を外し同じ顔を晒している。
「コレも、あの人の選択ですよ……私は……私は、あの人に命を助けられました……だから、ひとりでも戦う……あなたがどんな選択肢をとろうとも、私を見捨てなかったあの人のために……」
フィオールとシルヴィを逃した際に、護衛としてつけたふたりのうちのひとり。
精霊篝を介した報告を受けていたアカは、誰よりも大切な少女のひとりを救ったのが、他の誰でもないフィオール・エウラシアンであることを知っている。
だからこそ、助けたいという気持ちは強くなり、相反する現実感が彼女を苦しめ続けていた。
「ダメよ、やめて」
少女は、歩き始める。死道を。
堂々たる彼女の背を見つめ、目配せをし合っていた五つ目の少女たちは――意を決したかのように一歩を踏み出した。
「や、やめなさい、ダメよっ!! 死ぬ!! アレには勝てない!! やめなさいっ!! おねがい、やめてっ!!」
引き止める言葉は届かない。
今まで、外面による差別を恐れて、決して垂れ布を外そうとしなかった彼女たちは、次々と外面を剥ぎ取った。
道すがらに捨てられる垂れ布、露わになるその素顔。
別離の証拠――焦燥が喉を揺らし、アカは最低を叫んだ。
「チェルシーは、見捨てなさい!! フィオール・エウラシアンへの恩があるのは、その子だけでしょう!? だったら、貴女たちまで付き合う必要はないっ!!
どうして、そこまでしようとするの!?」
全員の足が止まる。
幼い彼女たちの目が――不思議そうに、彼女を見つめていた。
「だって、みんな、“家族”だよ?」
――だって、みんな、“家族”だよ?
過去が、舞い戻る。
一匹のネズミを分け合っていた彼女たちは、餓死寸前の状態でも、アカのことを“家族”と呼び助けてくれた。
――おんなじ顔だもん! それって、“血”が繋がってるってことでしょー? そしたら、もう、家族だよねー?
家族――その不可思議な関係性のために、戦い続けるフィオール・エウラシアンを見つめる。
戦う理由、助ける理由、進む理由。
重なって、アカの目の端から涙が零れ落ちる。
目の前に突き出された十三のネズミ肉、それにかじりついた時から、アカは“家族”のために生きようと思った。
そのことを、彼女は忘れていた。
アカは――パトリシアは――地面に落ちた垂れ布を踏みつけながら、進み始める。
「そうよね、家族が進むなら」
パトリシアは、笑った。
「同じ道を辿るだけ」
彼女は進む。
その横に並んだチェルシーが、ぼそりとつぶやいた。
「……ありがとう、パトリシア」
全身に衝撃が奔る。
五つ目の少女たちに、自分の本名を教えたことはない。家族にも恋人にも捨てられた時から、彼女は外面を捨てて、外面を纏い続けていた。
フィオール・エウラシアンの警護中に転び、彼女に命を助けられたチェルシーが、彼女の本当の名前を知るわけがない。
モードレッド――殺意が首をもたげる。
だが、チェルシーに扮したモードレッドは、自分と同じ顔をしていて……とても、美しい微笑みをたたえていた。
――おんなじ顔だもん! それって、“血”が繋がってるってことでしょー? そしたら、もう、家族だよねー?
「……最悪、チェルシーだけでも助かるのですね」
「あぁ」
アカは、微笑する。
「なら、今はそれで良し」
そして、槍を構えた。
「今だけは、同じ道を進む許可を与えましょう」
パトリシアは、家族と並んで――進むべき道を選んだ。
壁が――動いた。
パトリシアとモードレッドたちによる“妨害”を予期していたかのように、第二陣とも言える天災害獣たちが蠢き始める。
家族という名の神域を守護する獣のように、彼らは黒い塊のように一個となって進行する。
倒れ伏すフィオール・エウラシアンの両眼は、そんな群れに猛然と挑む五つ目たちの姿を捉えていた。
凄まじい戦いだ。特にふたりの実力が抜きん出ている。それ以外の者たちも、立ち回りを上手く計算しているのか、アレだけの量の天災害獣を相手に囲まれず戦闘を継続できている。
だが、時間の問題だ。
戯れるようになぶり殺しに合っている兄は限界で、五つ目たちもまた、ひとりまたひとりと数が減っていっている。
ガラハッドに化けていた父を打ち倒した時点で、フィオールは体力気力ともに極限を超えていた。
なにせ、魔力が底をついて、傷を塞ぐこともできず血は流れ続けている。そのうちに、出血性ショックで死ぬことになるだろう。
だが、死ぬ前に。死ぬ前にもう一度。
膝に力を。幾度も崩れ落ちながらも、どうにか立ち上がり――真っ赤に染まった前髪の間から、目の前に立っている父の姿が視えた。
その後ろには、血溜まりに沈む兄がいた。
「ユウリ・アルシフォンは来ない」
血を吸い続けた剣の冷たさ……鋭利に研ぎ澄まされた刀身が、彼女の首筋に突きつけられ赤色を流す。
「国ひとつ滅ぼす量の天災害獣を差し向けた。あの数を殺しきれる人間などいない」
父は、ささやく。
「命乞いをしろ。伏して涙を流せば、僥倖を与えてやろう。幾許もない余命を、お前の短慮で穢す許可を与える」
屈してしまおうかとも思う。
最後に、一目、ユウリに会いたかった。この感情がなんなのか、未だにフィオールはわからなかった。だが、たまに『フッ』と笑う彼の笑顔が、今は視たくてたまらなかった。
そのためにならば、わたしはココで己を曲げてでも――脳裏にユウリの背中がよぎる。
彼の背を追いかけたかった。彼のようになりたかった。彼みたいに誰もを救いたかった。
だから。だからこそ。
「……フッ」
フィオールは笑った。
「お断りします」
躊躇いもなく、父は剣を振るう。
走馬灯かなにかのように、徐々に迫りくる剣閃。その距離がタイムリミットだと知って、フィオールはただ目を閉じた。
一秒、二秒、三秒……まだ、死んでいない。
そっと、フィオールは目を開ける。
眼前には、“看板”が突き刺さっていた。
剣を止め距離をとっていた父は、はじめて狼狽らしきものを表に出して、同時に疑問を上げる。
「……なんだ」
フィオールは視た。
その看板に――『ゆうり・あるしふぉん』の文字が書かれているのを。
感情。感情が爆発し、フィオールは泣きながら振り返る。
視線に呼応するかのように、日の光が樹上を照らす。
ルィズ・エラに存在する神樹の上、あたかも神かなにかのように、日輪を背負った少年が立っていた。
光の只中、無表情の彼は立ち尽くす。
「……フッ」
視たかった笑顔――あらん限りの声で。フィオールは叫んだ。
「ユウリ様っ!!」
ユウリ・アルシフォンは、血しぶきひとつ浴びず、ただ完璧な外面を見せつける。
その外面は異常なほどに、あまりにも完璧だった。
「なぜ、ココに来られた……アレだけの量の天災害獣を……どうしたというのだ……」
神樹から下りた彼は、腰の後ろにくくりつけた長剣を抜きながら、ゆっくりと敵へと進む。
「……握手した」
彼は、ささやいた。
「……全員と」
その目には、なんの感情も浮かばず――
「握手した」
ただ、その手には長剣が握られていた。