グレイ・エウラシアンの願い事
当身で喪神したシルヴィを抱え、父親はニコリともせずに立ち尽くす。
頭をぶん殴られたかのような衝撃……フィオールは、ただただ口を開閉させる。
「家族が揃うのは、久方ぶりだな」
行楽地に遊びに出たかのような気楽さで、グレイは言った。
「良い剣を見せてもらった。己の心情を吐露すれば、お前たちがココまでの剣を振るうとは思いもしなかった。血の繋がりももたずして、稲光の足運びを合わせるとは称賛に値する」
なぜ、なぜ、父はわたしたちの前に現れて、こんな世迷い言をのたまうのだろうか? どうして、ガラハッドに扮していた? 間違いなく殺すつもりの剣を振るい、一欠片の慈悲もなく街民を肉盾にした?
なんのために?
「……神の採択」
兄がぼそりとつぶやき、フィオールは言葉に縋る。
「神の採択? なんなのですかソレは? お兄様は、なにを知っているのですか? 今、ココで、なにが起きているんですかっ!?」
「フィオール」
父に――睨めつけられる。
瞬間、臓腑が凍る。胃から粘ついた蛇が喉元まで上がってくるような、得体の知れない恐怖と悪寒に犯され黙り込む。
「称賛に値すると言ったが……同時に、俺は失望している。シルヴィのことだ。コレならば次の稲光の足運びに踏み込むだろうと期待したが、最後の最後で、コレは“血迷った”のだ」
グレイは、ぼそぼそと口ごもるように喋る。フィオールが、小さな頃からそうだ。
だが、彼の言葉を聞き漏らす者はいない……的確な音量と発音、適度なリズムによって、彼の言の葉は完成していたから。
「コレは、お前らの領域まで剣を下げた。己の才を偽ったのだ。全力だと自身で思い込み、死を覚悟して振るったと勘違いした。だがしかし、コレはお前たちの生命に固執し執着し敗北し、究極の剣閃にまで至ることはなかった」
「お言葉ですが、ちちう――」
「誰がお前に発言を許可した、無知蒙昧」
冷たい目。屑を見下げる灰蒼色。傍で視ているフィオールですら、不穏で息を止めるのだから、マルスが二の句を継げる筈もなかった。
「死の直前まで追い込んでコレだ……本来ならば、コレにはもう用はない。処分するのが筋であろうが、ひとつの可能性に至ったのは事実。まだ鞘から刃を見せてはおらぬと期待し、捨てることは取りやめた」
フィオールとマルスを取り囲む街民たち……剣を交えている間に、邪魔をしてこなかったのは、父がシルヴィを試すためだったのだろうと理解する。
「……お父様、発言してもよろしいでしょうか?」
「構わんぞ、娘よ。お前の剣は、語るに値する」
隠しきれない哀しさが浮かんでいるであろう兄の顔を視ないよう、注意をしながらフィオールは口を開いた。
「お父様の目的は、なんなのですか? なぜ、円卓の血族という謀反者の真似をしていたのでしょうか?」
「神の採択」
父の声ではなかった。
振り向く。視線の先には、兄がいた。
「父上は、神の採択で願いを叶えるおつもりですね? この世界にいる人間をすべて犠牲にして、己の願望を満たそうとしていらっしゃるのでしょう?」
「マルス……お前は、昔から、お喋りだけは上手だったな」
心底、退屈そうに、グレイは顔を歪める。
「口で語るから剣で語れんのだ」
「……人殺しは好きませ」
風――フィオールの頬を掠めるように、壮絶な勢いでマルスが吹き飛ぶ。ボグリと歪な音を響かせ、数回ほど地面でバウンドしてから沈黙した。
どっと。汗が、吹き出る。
なんだ。今、なにが起こった。わたしは、お父様から、一瞬たりとも目を離さなかった。あの人は、立っていただけだ。動いていない。シルヴィも抱えていた。稲光の足運びを発動できるわけがない。
もし、稲光の足運びだとしても――疾すぎる。
「フィオール」
優しい声。びくりと反応し、フィオールは全身から冷や汗を流す。
「何回まで視えた?」
小さな子どもに飴を与えるような、“格下”への施しに近い問いかけだった。
「な、何回……とは……?」
目に浮かぶ失望――ぶわっと、両眼から涙が湧き上がる。目の前の存在の機嫌を損ねれば、死ぬという事実が、彼女の身体に反射として刻み込まれていた。
「も、もうしわけ……あ、ありませ……ありません……」
「構わん。所詮、お前も予備品だ。
さて、フィオール。お前の質問に応えるとしよう。俺はルィズ・エラにある精霊の坩堝を、既に開放した。残るは王都。今から向かうつもりだ」
「お、王都……王都に精霊の坩堝が……そ、それが、なぜ質問の答えに……?」
「お前は、疑問でしか腹が膨れんのだな。まるで、答をねだる雛鳥だ」
無表情のまま、グレイはささやく。
「つまるところ、俺は人類を滅ぼし願いを叶える」
人類を滅ぼして願いを? そんなことが可能なのか? いや、可能だ。父が口にしたことは、すべて実現するのだから。
「そ、そんなことは許されない……ゆ、許されるわけがない……どうして、そこまでして……なにを……」
フィオールは、気づく。父の願いを。むしろ、今の今まで、どうしてそのことを悟れなかったのか不思議だった。
「そこまでして……そこまでして、剣に固執するのですかっ! 人々を代償に剣を得るなどという邪道!! そんなことをしてまで、剣を活かしたいのですかっ!?」
血まみれのシルヴィ、死にかけているマルス……大切なふたりを見つめて、フィオールの中の怒りが恐れを超えた。
「あなたはっ! あなたは、正真正銘のクズだっ!! 兄をモノのように扱って傷つけ、剣の才がないからと捨てたっ!! 妹を奴隷のように手の内に置き、エウラシアンの名のために傀儡としたっ!! そして、わたしも!! わたしのことも愛してはくれなかった!!」
涙が出る。悲しくて。たったひとりの父親が、剣に執着しなにもかもを捧げた父親が、憎くて憎くてたまらなかった。
「あなたがっ!! あなたさえ、愛してくれたらっ!! 普通の父親みたいに愛してさえくれたらっ!! お母様は!! お兄様は!! シルヴィも、わたしもっ!! みんな、幸せになれたんだっ!! あなたのせいで!! あなたのせいで、わたしたちはっ!!」
「弱者の倫理だな」
そっと、グレイは言葉を置く。
「弱いから吠えるのだ。お前の言う倫理は、弱者だから通用する。強者の世界では、まるで価値のないもの。他者に求めるということは、他者に“強いる”ということだ。
言、剣、愛……形や様式、外面は違えど、それは力で相手を屈服させる行為であることには違いない。お前は今、言に頼って俺を屈服させようとしているが、弱者であるがゆえに意味がない。説得“力”がないからだ。“もし”や“たられば”など、有りもしない空想に縋るのはやめろ。
弱者の倫理は、力を諦めた者たちの遠吠えだ……聞こえはするが、弱者同士にしか通用しない」
「このクズが……あなたなど、最早、父親などとは思わない……なにが弱者の倫理だ……そうやって、力に溺れて弱い者を思いやるつもりもない……!」
フィオールは、剣を構える。
「勝手に剣を願いなさい……人としての心を捨てた悪鬼……お前だけは、このわたしが……!」
「……ちがう」
足首を掴まれる。
ぎょっとして背後を向くと、ぜいぜいと息を荒げたマルスが、震える手でフィオールの足を握っていた。
「……ち、ちがうのだ、フィオール」
「な、なにが? なにが違うのですか? こ、この男は。この男の願いは、剣を手に入れることで――」
「ち、父上の願いは」
必死の形相で、マルスはつぶやいた。
「母上を生き返らせることだ」
フィオールの思考が――凍りついた。