ただ、エウラシアンのために
幽玄が舞う。
幾重にも紗が重ねられた婚礼衣装。白き尾のように視える薄布は、白雷の薄靄に包まれてたなびいた。
碧の精霊篝に照らされた一瞬は、あたかも目に視える走馬灯。切り取られた残像が空間を横断し、迅雷となったシルヴィ・エウラシアンは、燃えゆく生命の音を聞いていた。
「シルヴィ」
兄の哀しそうな顔が視える。
シルヴィは、想う。自分が得ようとしていたエウラシアン家当主の座は、本来ならば、彼のものだった。
だが、シルヴィは、彼に剣で打ち勝った。あの家に来た当初の話だ。勝者であることに固執し、なんの遠慮も憂慮もなく、思い切りに長剣を叩き込んだ。
技量では負けていた。勝てた理由は、魔力量の絶対的な差。そして、最後の最後で、マルスが咳き込み剣を止めたから。
――所詮、犬畜生にも劣る剣の担い手か
彼を打ち倒した時、父は嬉しそうに鼻で笑った。そんな父親を視て、彼は諦めたように微笑んだのだ。
でも、あの人は、きっと父親を愛していた。気がつけば、目で追っているのだ。なにをするにしても、尊敬の念が籠もった眼で見つめている。
そんな愛する父の前で、苦杯を舐めさせられ、無様な姿で辱められ、自分よりも年下の少女が家督を継ぐと告げられる。
唐突に現れた、ゴミ溜めから産まれたような女に。
どれだけ、悔しかっただろうか。悲しかっただろうか。辛かっただろうか。
そんな対象に対して、兄は優しく接してくれた。護ってくれた。救ってくれた。
――おぉ、シルヴィ! 愛する妹よ!!
一度たりとも、シルヴィの前で笑顔を絶やしたことがない。
愛してくれた、だから恩を返したかった。
傲慢不遜の外面を纏って、誰彼構わず敵を作った――そうすれば、兄に家督を譲れると思った。
結婚したいと我儘を言って、兄に相手を見繕ってもらおうとした――そうすれば、兄に家督を譲れると思った。
わざと兄に敗けて、その姿を父に魅せつけた――そうすれば、兄が幸せになれると思った。
そんなバカを繰り返し続けたシルヴィに、兄は微笑してささやいた。
「シルヴィ。我は、お前が幸せであればそれでいい。そこまでして家督が継ぎたくないのであれば、相手が父であろうとも剣を交えて訴えよう」
勘違いしている兄の手の温もり、優しさ、笑顔を今でも思い出す。
「シルヴィ、幸せになれ……それが、兄の願いだ」
自分が愚かだと気づくのに、シルヴィは数年もかかった。
「お兄様」
二メートル――ガラハッドの剣戟防層の範囲内。好々爺が要する、殺人領域。絶対的な反撃境界。
到達する。
唖然とする兄に、微笑みかけた。
「妹の願いは、あなたが幸せになることです」
そして――始まる。
逆巻きながら打ち出されるは、剣戟、剣戟、剣戟、剣戟、剣戟!!
猛烈な勢いで放たれる白刃は、人間の出せる速度を容易に超えて、埒外の領域にまで剣先を伸ばしている。
疾い。あまりの疾さに、反撃の糸口が掴めない。剣戟という名の深海に引きずり込まれ、まともに息すらできない。ただひたすらに受け止め受け流し受け殺し、視界の端を掠める“死”を弾く他ない。
死ぬ!! 一手!! ただの一手、違えれば、無駄死にする!!
頭、顔、首、肩、腕、腹、背、脚……脳裏に浮かぶ生存を選び、取捨選択。暴虐に犯されぬよう、剣嵐を超えてゆく。
数秒にも及ばぬ時、ただそれだけで、シルヴィは血だるまと化していた。
ダメだ、死――即死の剣閃が、弾き飛ばされる。
意識せずとも、二メートルの剣戟防層内に、誰かが入り込んできたのはわかった。
そして、理解せずとも、誰なのかもわかった。
「シルヴィ」
「はい」
「これからすることを許せ」
「……はい」
当たり前だ。シルヴィは、そのために生まれてきたんだから。
兄と姉を救うために、自分を犠牲に――おかしい。“痛み”がない。
「は……あ……え……」
削れていく。消えていく。損なわれていく。
シルヴィの横でひたすらに直剣を振るい続ける兄の鎧が、まるで老樹の木皮のようにして剥がれていった。
兄の口端から、血が零れ落ちる。咳き込む音がしない。いや、咳を無理に喉奥に封じ込め、呼吸をしていない。
なんで、私が囮じゃ――シルヴィは、兄の“意図”に気づく。囮だったのは自分ではなく、兄のほうであったと知る。
「な、なんで……どうして……そこまで……し、シルヴィなんかのために……なんで……どうして……?」
斬り刻まれていく。
愛する兄の肉が宙空を飛び、愛する兄の生命が落ちていき、愛する兄の言葉が遠くのほうで響いた。
――兄として、愛する妹が増えたことは、万感に値する!!
始めて会った時から、彼はシルヴィを妹と呼んだ。
――シルヴィ。その髪、似合っているぞ。まるで、母上みたいだ
バカげたことをしたのに、彼はシルヴィを抱きしめてくれた。
――似合っているぞ、シルヴィ。綺麗だ
花嫁姿を見せた時、泣きそうな顔をした彼は幸せを祝ってくれた。
失いたくない。失いたくない。失いたくない。
兜が鎧が壊されて、まるで彼の内面を映すかのように、全てが明らかになっていく。
露出された彼の顔――その瞳は、“紅色”に染まっていた。
「そんなものは決まっている」
――姉妹に兄妹、ですか? それはもちろん、同じ髪と瞳の色をしているものですよ
「家族だからだ」
血で赤黒く染まった髪の毛……マルス・エウラシアンは、実に楽しそうな笑顔で、彼女に言った。
「シルヴィ、幸せになれ」
シルヴィの喉から、絶叫が迸る。
剣戟の檻に閉じ込められたマルスの生命が、ゆっくりと潰えようとしていた。
妹の泣き声が聞こえた。
温くて、穏やかな痛みがあった。ぼんやりと霞む景色の中で、兄と妹が、必死に剣を振るっているのが視えた。
立たな……ければ。
渾身の力を籠めるが、指一本動かない。ぬるま湯に浸かっているようにも思えたが、それが自分の流した血液であることに気づく。
兄と妹が、死んでいく。
今直ぐにでも救けなければいけないのに、どうしても身体が動かない。
「ぅ……うっ……うぅ……」
悔しさで、涙を流す。どうして、動くべき時に動けないのだと、フィオールは自分自身を責めた。
「おひいさま」
上から、言葉が降り注ぐ。アカの声だった。精霊篝で連絡を受け、愚かな娘の最期を見届けに来たのだろうと思う。
「貴女のお兄様は、選択をしたのですよ。立派な行いです。誰も彼もを救えていたら、おとぎ話みたいに助かったら、そう考えるのは当たり前ですが……現実にはそうはいかない。落とし所を見つける必要がある」
――そうやって選ぶことを諦めた人間が、いつか、どうしようもない選択を迫られた時……貴女は、同じセリフを吐けるのですか?
言葉が響く。口内を噛み切って、血の味が広がった。
「貴女も選びなさい。今ならば、兄か妹、どちらかを救うことも出来るでしょう。私たちの実力では、救えるのは片方にしか過ぎない……ココを耐えれば、ユウリ殿が後はどうにかしてくれまする」
あぁ、そうだ。もうダメなんだ。ユウリ様に助けてもらえばいい。いつだって、そうしてきた。いつも、助けが欲しい時に、あの人は来てくれた。それでいいじゃないですか。なにを悩む必要がある。
きっと、お兄様は、シルヴィを助けろと言――おやすみ、フィオール。
フィオールは、目を見開く。目の前に、なにも知らず、眠り続ける幼い自分がいた。
――おやすみ、フィオール
あぁ、なにをバカな。あの時の自分が嫌だと、眠り続けて、誰かに救ってもらうのが御免だと、ずっと想い続けてきたのに。そのために剣の腕を磨き、冒険者としての肩書を得て、強くなったというのに。
また、救われる。繰り返す。泣きながら縋る。
そんなのは――もう、嫌だ。
己の幻覚を打ち消すように、フィオールは剣を杖にして立ち上がる。ふらつく。倒れる。受け身がとれず顔を打つ。無様にも鼻血を垂らしながら、ふらふらと、小刻みに痙攣する全身を見せつける。
「……バカなことは、おやめなさい。死にますよ」
――おやすみ、フィオール
声が響く。
だから、フィオールは、歩き出し、転んで顔面を打った。折れた奥歯がころんと口から転げ出し、それを踏み潰すようにしてまた立ち上がる。
「わからないの……無駄なのよ……あなたのそんな内面を視たところで……この世界は変わらない……神様はそんなもの視てくれていないのよ……ねぇ、やめなさい!! 死ぬのよ!? そんな身体で戦えるわけないでしょう!?」
歩く。歩く。歩く。
剣にすがって、一歩、また一歩、血の線を描きながら歩く。
「選択が必要なのよ!! この世界にはっ!! 割り切らないと、なにもかもを失うのよっ!! 切り捨てる覚悟が必要なのっ!! わからないのっ!?」
「……わ、わからない」
あまりにも転び、顔を打ったせいで、フィオールの外面は亡者のように醜く変わっていた。
腫れ上がった顔面を見つめて絶句するアカに、フィオールは言葉を向けた。
「で、でも……ゆ、ユウリ様なら……ユウリ様だったら……」
フィオール・エウラシアンは、『フッ』と笑ってみせる。
「きっと、“コレ”を選ぶ」
全身全霊。最後の気力を振り絞り、彼女は一筋の稲光と化す。
稲光を見つめたアカの瞳には、悔恨に似た“空色”の郷愁が混じりこんでいた。
「あぁ……そうか……諦めていたのは……」
そのささやきは、最後まで届くことはなかった。
兄が殺される。
絶望に身を浸そうとしていたシルヴィは、剣戟の勢いが弱まっていることに気づく。
稲光の足運びによって、光速で運ばれる剣筋。
その剣が――“三本”に増えている。
気配。温かな気配。シルヴィ・エウラシアンが、よく知っている女性の気配。その柔らかな安堵感に、彼女の眦には涙が浮かぶ。
視る必要はない。言葉を交わす必要もない。
誰がいるかは、わかっている。だとすれば、振るう他ない。
今、ココで、するべきは剣を振るうこと。ただ、死線を潜り抜けて、生存という道に縋る他はない。
噴き出す血潮。稲光の足運びの負荷に耐えきれず、小さな身体が悲鳴を上げて悲惨を叫んでいた。
「もう諦めなさいよ」
シラミのたかった黒髪、生気のない澱んだ紅い瞳、肌は油と汚れで黒ずんでいて、唯一の着衣は茶黄色に染まって異臭を放っている……かつての自分が、すべてを諦観で埋め尽くし訴えかけていた。
「こんな痛いのは、嫌でしょう?」
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!! 痛いのはわかってる!! それくらい、わかってる!! でも、ココで耐えなきゃ!! ココで戦えなきゃ!! 今、ココで剣を振るわなければっ!!
シルヴィ・エウラシアンはいないっ!!
激痛の最中、幾重にも重なる死を超えて、彼女は己に思いを馳せる。
偉ぶって傲慢を振る舞ったのも、仮面をかぶって婚礼を望んだのも、父の前で剣才を見せつけていたのも――本当は、兄と姉に自分を視て欲しかったからだ。
心の奥底では、家族になれないことはわかっていた。
血が違う。瞳が違う。髪が違う。色が違う。そして、剣が違う。
過去は異なる。ゴミ溜めで生まれた少女が、綺羅びやかな白鳥と化すわけがない。醜いあひるは醜いあひるのままだ。
「あんたは、家族なんかじゃない。マルスもフィオールも、外面を気にして善人ぶってるだけよ。あんたと同じ。アレだけ罪のない人間を殺してきて、今更、善人面して生きていく気?
髪の色を変えてもムダよ。あんたの内面は、黒くて汚くて気色が悪い」
――なにが『お母様』だっ!! こんなもので!! こんなもので、変われるとでも思ったか!!
そんなことはわかっている。知っている。理解している。
――卑しいスラムの捨て犬風情が、名家に産まれた私の前で見栄張りやがってっ!! 挙げ句の果てに『お母様』だぁ!? ふざけるのもいい加減にしなさいよっ!!
でも、家族になりたかった。認められたかった。誰からも祝福を受けるような、母娘であり兄妹であり姉妹でありたかった。
孤独が怖い。だから、夜が嫌い。
――絶対に互いを裏切ったりはしない、“証”で結ばれた絆のことですよ
己に恐れを抱き、姉を思い出した瞬間――ルィズ・エラは、明くる日を迎えた。
今、正に夜明けを迎えようとしているルィズ・エラは、美しい朝日を出迎えてシルヴィ・エウラシアンを照らす。
一瞬。ほんの一瞬。
彼女は、おひさまを見つめた。
暗い、暗い、夜を照らす光を。見つけた。
シルヴィ・エウラシアンの纏うドレスに、名残惜しそうに精霊がしがみつき、碧色に発光した。
彼女の背に、ひび割れた雷神の横顔が映し出される。
その瞬間――噛み合う。
バラバラに動いていた三本の剣が、あたかも一筋の剣閃のように……流麗な稲光と化した。
マルス、フィオール、シルヴィ。三人の稲光の足運びが、ものの見事に“同じ速度”へと至る。
有り得ない出来事だった。今までに幾千もの稲光の足運びを発動してきたシルヴィだからこそわかる。
マルスもフィオールも、自分の疾さにはついてこれない。彼女を孤独へと追い込んだ、剣茨とも言える才能の隔たりが存在する筈だった。
死ぬ気だ。この人たちは、シルヴィに追いつくために死ぬ気だ。
マルス、フィオールの姿を見なくても、兄たちが瀕死の状態で剣を振っているのがわかった。まるで、シルヴィの意思を読み取ったかのように、彼女をひとりぼっちにしないために渾身を振るっている。
涙がにじみ、目と目が合う。
蒼色の瞳。自分とは異なる瞳。
ふたりは、微笑んで、シルヴィに目で訴えかける。
――シルヴィ、剣を振れ
シルヴィ・エウラシアンは、大きく目を見開く。碧色に光り輝く長剣を振るい――白刃を弾き飛ばした。
「……なに」
始めて、ガラハッドの顔に動揺が浮かぶ。
一が振るわれれば二が、二が振るわれれば三が。
あたかも、一体の人間のようにして、三位一体の剣が自由自在に折り重なるようにして、意思疎通を共通させて動く。
シルヴィ・エウラシアンの頬に血が飛ぶ。
自分のものなのか、兄のものなのか、姉のものなのか、そんなのはもうどうだってよかった。
もう、外面を取り繕う必要はない。今ならばわかる。
私たちは――剣だ。
「バカな……よもや、ココまで……」
ガラハッドの振るう剣が鈍り、そこに生じる好機。
勝つ。勝つ勝つ勝つ!! 今、ココで、すべてを!! なにもかもを!! 捧げるっ!! 死んでもいい!! 消えてなくなってもいい!! エウラシアンとして!! ただ、一本の剣として!!
シルヴィ・エウラシアンとしてっ!!
超える。超えてゆく。
シルヴィ・エウラシアンは、喉が張り裂けんばかりに叫び、三本の剣が重なって“稲光”となった。
この剣に――すべてを懸けるっ!!
三本の閃光、ガラハッドの剣が飛ぶ。彼の顔に、はっきりとした驚愕が映り込んだ。
「「シルヴィッ!!」」
兄と姉の叫声が耳内に響き渡り、シルヴィは己の全力を投じる。
「瞳も髪も生まれも、そこに至った才能もっ!! 外面なんて関係ないっ!! 誰がなんと言おうともっ!!
私は……私は……っ!!」
泣き叫ぶシルヴィは、なによりも疾く――
「シルヴィ・エウラシアンだぁああああああああああああああああああああっ!!」
剣を叩き下ろした。
完膚なきまでの一撃、完全無比の剣閃だった。
だから、シルヴィは勝ったと思った。己に生じた不安ごと、彼を叩き斬り、兄と姉を救ったと思った。
だが――そこに、ガラハッドはいなかった。
「……え」
腹部に衝撃。彼女は、ぼやけていく視界の中、ガラハッドの顔が“溶けていく”のを視ていた。
「そんな……う、嘘……」
この疾さ。知っている。知っているからこそ、信じられない。なぜならば、それはエウラシアンのみに受け継がれる秘奥。
「この外面は、それほどよくできていたか?」
感じていた違和感。なぜか、惹かれていた彼の剣。
その理由が、今わかった。
「ど、どうして……なんで……」
擬態魔法が解除され、その内面が明らかになり――
「お父様……」
父親は、ただじっと彼女を見下ろしていた。