彼女の境界線
右の鼻から、たらりと血が垂れ落ちた。
「まさか、まだ、稲光の歩法を発動できるとはのう……正直言って、お前さんを見くびっていたかもしれん」
ひゅーひゅーという喘鳴が、自身の喉から聞こえる。
虚無みたいなその音に耳を澄ませながら、シルヴィ・エウラシアンは、ぴくぴくと痙攣する右まぶたを押さえる。
「前にも言ったが、お前さん、右半身に魔力が偏り過ぎとるのう。入力と出力の割合に偏重ができているから、分散が起きずに損傷を受けるんじゃよ。踏み込みの際の体重移動も、癖があり過ぎるしの」
「……ハッ」
横たわる姉を背後に隠しながら、シルヴィは悔し紛れを頬に浮かべる。
「ぜ、全世界待望の天才児、シルヴィ様を前にして、くだらない講釈たれてんじゃないわよ……そ、そもそも、あんた如きに、剣を習った憶えはないっての……しね、ばーか……」
「忘れてしまったとは、哀しいのう。小さい頃から、アレだけ教えてやったと言うに。
まぁ、悪いことは言わん。もう稲光の歩法はやめておけ。眼の前で自殺されたら、剣士の恥にな――」
五度目の稲光の歩法が発動する。
緩慢に動き出した一歩目が地面を引き掴み、魔力放出量を違えて、ブーツの中で爪が弾け飛んだ。
激痛を引きちぎるように――跳ぶ。
景色が流星のように流れて、夜空がぱんっと切り替わった。両脚から利き手へと魔力の流れが変じ、腕が瞬間と化して敵の臓腑を狙う。
殺った。
自信に満ち溢れた刺突は、明朗な金属音に阻まれ、即座に転じた殺意を横薙ぎにして喉元へと食い込ませる。
だが、当たらない。剣戟に阻まれる。
疾い!! 防御動作への転換の“思考”が、根こそぎ“消失”している!!
宙空に――火花が散った。
碧色、魔力散乱現象。
体外へと放出された魔力と魔力が空気中で衝突し、生じた碧光が四方八方に乱出される。建造物と建造物がぶつかり合ったかのような大音響、余波で精霊篝が軋んで灯明が揺れる。
なぜ!? なぜなの!?
目の前の仇敵を睨めつけながら、剣戟による舞踏に興じながら、生と死の合間に剣先を滑り込ませながら――シルヴィは、衝撃を覚えていた。
どうして、こんなにも、この剣に惹かれるの!? 始めて剣を合わせたのに、なぜ、“もっと知りたい”と思うの!?
正体不明の“親近感”……限界を迎えた肉体は空気を求め、口内に溜まった血を呑み下しながら下がる。
「その剣は……なに?」
「剣戟防層」
求めていた答えではないものが、好々爺の口から返ってくる。
「タネ明かしが必要かのう? どうせ、儂のコレは、周知の事実とも言える。望むのであれば、愛する孫を相手にするように教えて進ぜよう」
「魔力強化した神経で、反射的に相手の攻撃を弾いてるんでしょ?」
ガラハッドは、実に残念そうな顔で頷いた。
「もうバレた……つまらんのう……頭脳戦、したかったのう……」
バレるに決まっている。シルヴィが、何度、死角から攻撃したと思ってるのよ。後の先をとれるような速度、実現できるとしたらそれしかないじゃない。
そもそも、とシルヴィは思う。
そもそも、剣戟防層の“タネ”は重要じゃない。重要なのは、『それが有り得ない』ということ。
なんせ、魔力の操作で、最も難しいのは“体内操作”……所謂、気とも言われるモノだ。
人間の五感は、基本的に外部に向けられたものであり、内部に向けられたものではない。外側にあるもののほうが、把握しやすく理解しやすく制御しやすい。乱暴に言えば、五指を動かすのは簡単でも、内臓を動作させるのは不可能に近いようなものだ。
だから、内部での魔力操作をする場合には、想像する他ない。心臓や腎臓が自在に動くイメージを思い描くのだ。
皮一枚を挟んだ筋肉を魔力強化するだけでも、数十年の時間を要すると、シルヴィは聞いたことがある。
だとすれば、馴染みのない“神経”の強化は、どれほどの時間と研鑽を要するのか……考えたくもない。
魔力強化された反射神経。全自動の絶対防御。雷神の雷でさえも、その防御を貫くことはないだろう。
有り得ない。だが、目の前に現実として存在する。
勝てる気が――しない。
「……逃げるのか?」
無意識に、後退りをしている。
「だ、だれが……ふ、ふざけたことを抜かしてんじゃないわよ……か、格下相手が……」
口とは裏腹に、両脚はじりじりと後退していた。
五度の稲光の歩法で、一度足りとも有効打は与えられなかった。対応策もなしに、剣戟防層を打破できるとは思えない。ココで逃げるのは、論理的だ。
逃げる言い訳は、幾らでも浮かんできた。
だが、その逃亡を防ぐ境界線は、姉として存在していた。踵が彼女にぶつかって我に返る。
――シルヴィ
それだけで、シルヴィは、己の命を捧げる覚悟が出来た。
「は、ははっ……」
刃が折れてボロボロになった短剣を構え、シルヴィ・エウラシアンは、傾いた己の半身を支えるように笑う。
「お姉様……守りきれず、申し訳ありません……」
ココで、フィオールを見捨てて逃げれば、自分だけは助かるだろう。もし、見捨てなければ、犬死にしてふたりとも死ぬのはわかりきっている。
だが、それでも。
「きなさいよ、ハゲ……死んだ毛根ごと、あの世に送り返してやるから……」
シルヴィの生涯に、『姉を見捨てた』という事実が刻まれることだけは――命を失っても、絶対に嫌だった。
――シルヴィ、髪を洗いましょう。ほら、来なさい
姉の蒼い瞳が、シルヴィの紅い瞳を見つめる。
姉の金髪が揺れて、シルヴィの黒髪がたなびく。
姉の家は、妹の家でもある。
陽光の只中。汚れまみれでシラミがたかっていたシルヴィを、イヤそうな顔ひとつせず、全身くまなく洗ってくれた。
家族として、迎え入れてくれた――だから、命を懸ける。
「……さらばじゃ」
目を閉じる。悔いはなかった。
距離を詰めた、ガラハッドの剣が飛び――忽然と現出した儀礼剣が、その太刀筋を阻んだ。
呆気にとられたシルヴィの目に、大きな背中が視える。
「お兄様……」
知れず、シルヴィは、泣きながら名を呼ぶ。
「お兄様っ!!」
応えるように、彼は不格好な鎧を揺らす。
その大鎧は土汚れが酷く傷だらけ、おまけに大きさが身体に合っておらず、あちこちに激戦を思わせる罅と割れが入っていた。
「我の妹に」
だが、鎧の裡にある、その内面は――
「勝手に別れを告げるな」
この世界の誰よりも、格好良かった。