マルス・エウラシアン③
戦場に行く前、マルスは妹の寝顔を見に行く。
健康体そのものである妹の幸せそうな寝顔を見て、心臓が動いているのを確認し、小さな体躯から発せられる寝息を聞く。
戦場の兵士たちは、常に安息を求める。
彼らの真の敵は、眼の前にはおらず、自身の裡側にこそ存在している。
彼らは、己の心を凪ぐために、著名な音楽家を招いて一曲奏でてもらったり、虫たちの軽やかな羽音に耳を澄ませたりする。
戦場でのストレス負荷は甚大だ。特に開始前、昂ぶる精神は肉体に影響を及ぼし、躊躇という名の自殺行為を生む。
だからこそ、マルスは妹を必要とした。
――救いなさい
既にこの世にはいない、母の言いつけを守るためにも。
『奥様、お身体が弱いのに、夜に出歩いていたらしいわよ』
『えぇ? あの人、懲りないのね。いつも熱に浮かされているせいで、まともに受け答えもできないくせに……だから、『ノロマ』とバカにされていたじゃない』
『旦那様に捨てられると思ったんでしょう? 『肚』と呼ばれていたんだから』
『マルス様共々、親子して病弱なんて悪いところが似たわねぇ』
『噂じゃあ、フィオール様は腹違いだって』
『しっ! 滅多なこと言うんじゃないわよ! 瞳の色は同じ“青”じゃない!』
『魔術で幾らでも変えようがあるんじゃないの?』
『やめなさいな、死人に鞭打つような真似は』
『でもねぇ、奥様もバカねぇ。マルス様が初陣に出た頃合いには、医者から危篤状態だと言われていたのに……息子に看取って欲しいとは思わなかったのかしら』
『だから、あの夜、出歩いていたんでしょう。ほら、もう黙りなさいな』
物思いに耽る中、ベッドの軋む音が聞こえた。
「……兄様?」
ささやき声。まどろんでいるフィオールが、傍に座っていたマルスの人差し指を、ぎゅっと握った。
「……どうしたのですか?」
小さな手。まだ10になったばかりの彼女は、幼さの残る顔立ちを笑みで包み、精一杯に笑いかけてくる。
「今日は冷える」
マルスは、立ち上がる。
「暖かくして寝なさい」
「兄様」
釣られるように、フィオールは身を起こす。
「どこへ行かれるのですか?」
双眸の裡で不安が揺れていた。小柄な身体が寒さとは別の原因で震えていて、離された手が伸ばされる。
「兄様、どこへ?」
――お前がダメなら、次がいる
「……おやすみ」
今だけは、痩躯が大きく視えますように――裡に渦巻く感情を抑え込みながら、兄としてマルスは微笑んだ。
「おやすみ、フィオール」
口を半開きにして、言葉を発そうとしたフィオールを扉ごと封じ込める。
一時期は殺そうとまでした相手を、実の妹ではないかもしれない少女を、自分からなにもかもを奪った敵を、マルスはたったひとりの妹として愛していた。
だからこそ、彼は剣を振るう。
――救いなさい
「母上」
最期の日、“約束”として、衝かれた胸の中心を押さえる。
「ぼくは、全てを救ってみせます」
彼は誓う。
だが、現実はそう甘くはない。
戦場で人は死ぬ。簡単にあっさりと、一束幾らで売られる野菜クズみたいな気楽さで、人命は大安売りされて死んでいく。
――マルス様、お供しますよ!
彼を慕ってくれていた従者は、飯炊きの準備をしている最中に飛んできた流れ矢が、右目を抜けて脳に到達し死んだ。
――どうか、あなたに神のお恵みを
そういって祈りを捧げてくれた修道女は、とある貴族連中の慰みものにされ、数日後にはハエがたかっていた。
――はい、お兄ちゃん! これ、あげるね!
マルスに野花をプレゼントしてくれた少女は、マルスが見逃した敵兵に殴殺され、数時間後には全身が青紫色に染まっていた。
――あまり、無理してはなりませんよ
母によく似ていた女性は、マルスに料理をご馳走してくれた。毒味が泡を吹いて倒れ、彼女の首が眼の前で刎ねられた。
彼は、誰も救えなかった。
救えない度に、彼の身につける鎧は大きくなった。
人が死ぬ度に縮こまる内面とは裏腹に、外面ばかりが膨れ上がっていった。
「見ろ、軍神だ……あの大きな鎧を見ろよ、振るう剣と同じで中身もバケモノだな……気を損ねるような真似は命取りだ……陣中で余計なことはするなよ……」
外面は抑止力になる。
人は見た目に左右される。彼が大きな鎧を纏えば纏うほどに、無意味な殺戮や強姦を防ぐことができた。
もっと強く、もっと大きくなるのだ。そうすれば、多くを救える。
マルスは、旧態依然とした貴族連中をまとめ上げ、エウラシアンの地位を利用して王族につけ入り、空白地域に根ざした紛争解決に取り組んだ。その過程で起きた反乱によって、王都が真っ赤に染まったこともある。
「死ねっ!! バケモノッ!!」
名も知らない男の子に、石を投げられる。
「死ねっ!! とおちゃんとかあちゃんを返せっ!! 返せよっ!!」
彼自身は誰も殺してないのに、いつしか、彼の手は赤く染まっていた。
「我は……」
肥大化した外面。鏡に映る彼は、文字通り、何倍にも膨らんでいた。
「我は……なにを……誰を救ったのだ……」
『ぼく』という一人称が、兵士を統率するのによくないと気づき、『我』という不遜を名乗るようになった。サイズの合っていない兜と鎧を身に着けて体躯を大きく見せ、腕に見合っていない名刀を腰に差すようになった。
鏡中に迷い込んだ彼は、外面だけだった。どこにも、内面はいなかった。
「母上……」
――母には、あなたの行く先に、たくさんの路が視えますよ
「コレが……コレがぼくの路なのですか……あなたの見た路は、こんなにも……こんなにも、薄汚れていたのですか……」
鏡に縋り付き、彼は崩れ落ちる。
「我は……なにを救えたのですか……答えてください……母上……どうか……母上……」
「さすらば、答えてあげる」
鏡に女が映る。
燃えるような赤紫色の髪、目玉の裡側で回る魔法陣、全身を覆い尽くす碧色の紋様――鏡を突き抜けた腕が、マルスの胸ぐらを掴む。
「どうも~、軍神さん」
彼女は、嘲るように口の端を歪めた。
「ちと、面貸せや」
そして、マルスは、鏡の中へと引きずり込まれた。