マルス・エウラシアン②
マルス・エウラシアンが、はじめて人を殺したのは15だった。
彼よりも、少し年上の獣人の民だった。
訓練通りに動いた長剣は腕の筋を断ち切り、甲高い悲鳴を凪ぐようにして、切っ先が喉をスッと通り抜けた。
それで、終わりだった。
綺麗な丘の上。血溜まりの中に沈んだ死体。ぼんやりとした瞳で、彼は殺されていく誰かを見ていた。
「阿呆が」
その夜、父に剣の腹で打擲された。
頬骨が割れて、奥歯が数本折れた感触がした。どうせ直ぐ治ると思いながらも、激痛に顔が歪む。
「何人、斬った?」
「……ひとりです」
膝裏を斬られる。思わず、膝をついて苦痛の声を上げる。髪の毛を引き掴まれて、目と目を合わせられる。
「なぜ、あそこに連れて行ったかわかるか、お前に斬らせるためだ。
ひとりよりもふたり、ふたりよりもさんにん……人を斬れば斬るほどに、剣技は研ぎ澄まされ剣筋は磨かれ剣術は輝きを増すのだ。人を斬ることで人を知れ。肉の柔さと筋の通りと骨の間を極めるのだ。女を買う金があれば、抱くのではなく斬れ。お前が惚れていいのは刃紋だけだ。わかるか阿呆」
拳骨が鼻にめり込む。生温かい鼻血に溺れかけて、口から血の溜まりを吐き出した。
「苦しみを悔しさの糧とし、己が今生に焼き付けるがいい」
解放されて突っ伏したマルスに、無表情の父は吐き捨てる。
「これでわからんなら、お前はあの女の肚に還れ。最早、お前はエウラシアンではない」
去っていく父親は、ぼそりとつぶやいた。
「お前がダメなら、次がいる」
情けない声を上げながら、マルスは泣いていた。はじめて人を殺したことで、多少なりとも、慰めや激励の言葉をもらえると思っていたからだ。
だが、待っていたのは罰と報いだった。
マルスは、口端から血反吐をこぼしながら、床に染み込んでいくのを見ていた。その血筋に、どれだけの家名が混じっているか、疑問を覚えながらも眺めていた。
眺め続けているうちに、妹の顔が浮かんだ。
――お前には、才がある。いずれ、俺すらも超えるかもしれん
なぜ、ぼくじゃない。
――“アレ”とは、まるで出来が違うな
なぜ、ぼくじゃない。
――アレは、肚違いかもしれんな
燃えたぎる嫉妬が、彼の心の臓を焦がしていった。
三年前までは、マルスはフィオールと稽古に励んでいた。だが、彼女はもうマルスと剣を交えようとはしない。
――兄様に適うわけがありません
哀れみを籠めた目で、父の方を伺いながらそう言うのだ。
――私など、相手になるわけが
そんな様子を見て――父はせせら笑っていた
「…………」
草も木も眠っていた。起きているのは月だけだ。ただただ冷たい眼差しを向けて、冷えた感慨を贈るだけ。
長剣を握りしめ、マルスは妹の部屋を目指した。
彼の両指には、あっさりとした人殺しの感触……ただ相手を肉にしたという事実が、十指にどろりと沈んでいた。
一歩、また一歩。
進んでいく。後戻りができないとわかっていても、彼はひたすらに妹の寝室へと歩んでいき――
「マルスさん」
微笑む母に出会った。
「ダメですよ~、そんなに怖い顔をして夜更かししたら~。アレなんですよ、夜に怖い顔をしたら幽霊になって、ひゅ~どろどろ~って誰かに取り憑いて不幸にしちゃうんですよ~。
そんなの、望むことではないでしょう?」
月明かりに照らされる母は、抜身の長剣をもったマルスに微笑みかける。
「さぁ、部屋に戻りましょう?」
「……戻る場所などありません」
「わがままをお抜かしになるのですねぇ……では、母の肚に還ってきますか?」
カッと血が上る。直情的に長剣を振り上げる。脅しの意味合い。だがしかし、母は僅かにも身じろぎしない。
「実の子に殺されるとは、どんな親も思いもしないのですよ。ですから、そんな脅しは無意味なのです。残念無念」
「母上、退いてください……私には、コレしかないのです……」
「目が悪いのですね。母には、あなたの行く先に、たくさんの路が視えますよ」
「母――」
声を荒げようとした瞬間――いつも、ノロマとバカにされている母が眼前に現出し、彼の口をそっと押さえた。
「……あなたの父に、見つかったら殺されますよ」
稲光の歩法!? いつの間に身につけたのだ!?
驚愕で殺意が鈍ったマルスは、ニコリと笑いかけられる。母の柔らかい人差し指が、唇にそっと載せられる。
「マルスさん。あなたの父は、私に『お前など、生涯を三度繰り返しても、稲光の歩法を使えるようにはならん』と言いましたよ」
くすくすと笑いながら、愛おしげにマルスの髪をかき回す。その慈愛に、長剣をもつ手が緩んでいった。
「なぜ、己で可能性を閉ざすのですか? 自分で自分を閉じ込めるなんて、そんな酷い仕打ちったらありません。もっとどばーんっと! マルス・エウラシアンを、信じてみたらいかがですか?
この世に、不可能などないのですから」
音を立てて、長剣が床に落ちる。
抱きしめられて、マルスは静かに目を閉じた。
「母上」
「なんです」
「人を斬るのは好きません。なにも感じないのが恐ろしいのです」
「では、もう殺すのはおやめなさい」
マルスの胸の中心に指を当て、彼女は言った。
「救いなさい」
たったひとりの母親は笑う。
「母との約束、ですよ」
「……はい」
母は心底嬉しそうに微笑み――数日後に死んだ。