守られる側と守る側
疾駆――ひとつしかない脳を焦がすのは、ひとつしかない“想い”。
助ける! 助ける助ける助けるっ!!
――おやすみ、フィオール
兄に守られ、助けられ、優しい“嘘”で守られていた彼女は、現実に立ち向かうことを選んだ。
――貴女の毒を吸い出してくれる王子は、いつまで生きていられるのでしょうね?
幼い自分の頭を撫でる、兄の青白くか細い手を幻視した。弱くてなにもわからず、誰かを犠牲にして生きてきた己を回想する。
わたしは、もういやだ。誰かに守られて、誰かに助けられて、誰かが作ってくれた優しい外面で生きるのは。
放り投げたシルヴィが、落ちてくるのは数瞬の後。身体が石畳に叩きつけられれば、待っているのは血みどろの離別。
数瞬の猶予で目の前の少女を助け、落下する妹を受け止めるなど不可能――が、それを可能とするのが、稲光の足運びという名の妙技だった。
稲光の足運びは、エウラシアンに代々伝えられる特殊歩法である。
足の裏、膝の裏、腿の裏――三箇所に魔力の集中点を作り、一気に放出させることで、稲光が如き高速移動を可能とする。
ひとつの集中点からの放出のタイミングがズレても、魔力の放出量に大小が生じても、身を護る魔力膜の絶妙な薄さを保てなくても……この技は成立しない。
汗腺から血が噴き出すようなたゆまぬ努力、怠慢を是とはしない鍛錬の継続、発動の度に迫る死の恐れへの克服。どれが欠けても結実しない。
今、少女は、一筋の光閃と化す。
研鑽の果てに、辿り着いた光閃へと。
第三の選択肢へと導く光閃に。
速度を重視するあまり、極力まで薄く引き伸ばされた魔力膜。皮膚が引きちぎれて出血、激痛に口から咆哮が迸る。
一瞬――時が止まる。
腰を抜かした五つ目の少女の前で停止、魔力の噴出を逆方向に修正し勢いを消失、両腕を魔力補強……彼女を弾き飛ばした。
シャボン玉を思わせる魔力膜で覆われた彼女は、叫声を上げながら安全な家屋の中にぶち込められる。鈍器と化した腕を振り回している暴徒に、めちゃくちゃに身体を殴りつけられ、全身鎧と内側の肉がへこむ。
反転。苦痛の声を吐き出しながら、再度、フィオールは稲光の足運びを発動する。
目の前が、霞む。痛い。辛い。吐血で喉がつまる。魔力膜の保護が末端まで伸びず、腕と脚の指がへし折れている。踏み込む度に両足が悲鳴を上げて、鎧からどろりとした血が噴き散らかされる。
お兄様、ユウリ様。あなたたちは、こんなにも辛かったのですか?
倒れる。前のめりになったフィオールは、辛酸に浸かろうとしている。
ひび割れた雷神の横顔、神ですら完璧ではないことを示す証左――エウラシアンの家紋を理由にして、彼女は諦めの境地に至ろうとしている。まだ、ひび割れてもいない、纏っている鎧に描かれた雷神を尻目に。
どうして、あなたたちは耐えられるのですか? こんなにも辛くて酷いのに。同じ人として、耐えられるとは思えない苦痛なのに。なんで、耐えられるのですか? 耐えようと思うのですか?
温かいベッドで優しい眠気に促されている中、兄の柔らかい手で、頭を撫でられるのが好きだった。
――おやすみ、フィオール
あの時の兄の目。自分と同じ青い瞳。慈愛に溢れていて、これから艱難辛苦に飛び込もうとする人間とは思えなかった。
なぜ、どうして、なんで――お兄様は、あんな目をしていたんだろう?
刻一刻と、スローモーション。目の前で眠りこけた妹が、固い地面に身を委ねようとしている。頭から落ちる。あの高さだ、無事では済まない。
その顔。その寝顔がクローズアップされる。冴えに冴えた脳みそに、大事な妹の愛らしい顔立ちが飛び込んでくる。
無防備。まるで、この世界に恐ろしいことはないと言わんばかりに、すぅすぅという寝息が聞こえてきそうなほどに。
妹は、幸せを信じきって眠っていた。
その寝顔を見た瞬間――フィオールは、兄の“あの目”の理由を知る。
あぁ、そうか。お兄様は、“コレ”を守りたかったのか。自分を信じて委ねてくれる、“幸福”を見ていたのか。
兄を想い、ユウリを想う。
そう言えば、ユウリ様は、槍で串刺しにされても、なんてことはないような顔をしていた。まるで、笑っているみたいに。
フィオールは、倒れかけた自身を、両足で踏み込み支える。
そうだ。笑え。笑え、フィオール・エウラシアン。こういう時は、笑ってしまえばいいんだ。あまりに辛くて折れてしまいそうなら、笑顔で立ち向かってしまえばいいんだ。
フィオール・エウラシアンは――
「…………フッ」
彼みたいに笑ってみせた。
と同時、爆発。石畳が剥がれて宙を飛び、音もなく土埃が舞った。
疾走。疾走、疾走、疾走!!
踏み込んで、踏み込んで、踏み込んで――彼女は、大切なモノに飛び込んでいく。
その幸福を守るために、己がしてきたことを実証するために。
凍土をこじ開けて芽吹いた種が、時を経て花弁を押し広げるように――フィオール・エウラシアンはココに完成する。
彼女は知らない。歴代の稲光の足運びの担い手よりも、コンマ秒速い世界に自分が立っていることを。
滑り込んで、抱きしめる。
その温かさを、幸福を、両の腕で感じとる。
「……お兄様」
汗だくになって息を荒げ、彼女は抱きとめた“大切”の重みを感じる。
「……ユウリ様、コレで、よかった、んですよね」
フィオールの纏っていた鎧は、見事なまでに破壊され――描かれた雷神の横顔は、完膚なきまでにひび割れていた。
「……コレで、よかった、ん、です、よね」
フィオールは、最後の力を振り絞る。
妹を己の全身で包み込み、暴れ狂った町民の渦に呑み込まれた。




