清めた口と穢れた舌先
「貴女の要求を呑もう」
「お兄様っ!!」
重苦しい沈黙の後、アカの要求を呑んだ兄に対して、フィオールは思わず声を荒げていた。
「いけません!! この女の口は、正義を語ることはないっ!! 利益で結び付けられた縁が如何に脆いのか、お兄様ならおわかりの筈でしょう!?」
「だが、利益で結ばれた縁は、〝利〟が確かであれば解けることはない」
「おひいさまのお口は、聖水で清められているのでしょうね」
実に美しい笑顔で、アカはフィオールに微笑みかける。
「生まれ落ちてから、その口で泥水を啜ったことがないのでしょう? 汚くてえげつなくて無差別で理不尽な〝現実〟は、すべてそこの騎士殿や〝ユウリ様〟に呑んでもらったから」
――おやすみ、フィオール
汚い世界を覆い隠すようにして、戦に旅立った兄が言い残していった言葉……あのセリフが脳裏をよぎり、フィオールは二の句を告げずに口をつぐんだ。
「ふふ、気に触ったなら申し訳ありませぬ。気にすることはないのですよ。異界の民のおとぎ話に出てくるお姫様は、毒を喰らっても王子の接吻で吸い出してもらうことで目を覚ますのだから」
とん、とん、とん、軽快な身のこなしで長机の山から下りた彼女は、フィオールの眼前に着地してささやいた。
「貴女の毒を吸い出してくれる王子は、いつまで生きていられるのでしょうね?」
強くなったつもりだった。兄に迷惑をかけたくないと、兄に守られなくても大丈夫だと、〝Sランク〟という外面をもった冒険者になることで証明してみせたつもりだった。
だが、わたしの求めた強さは、わたしの感じた強さは、わたしが願った強さは、コレで良かっ――
「婦女子の雑談はそのくらいにして頂けるかな」
冷たい兜と鎧で痩躯を隠した兄の背中が、知れず思い悩んでいたフィオールの視界を塞いだ。
「生憎、茶を用意できる者がこの場にはいない」
「ふふ、不器用なのですね」
「男は誰しも不器用なのだよ。
さて、本題に入ろう。五つも目があれば、同じ顔を見続けるのは飽きるだろうからな」
また、兄に守られた――失意の念に心が落ち込むのを感じつつ、そんな場合でないとフィオールは自分を奮い立たせる。
「わたくしの願いを叶えてくださるということは、ガラハッドを打倒した暁にはあの女を差し出してくださるということですね?」
「その認識で構わん。だが、ひとつ、条件がある」
整った眉を歪めたアカへと、マルスはつぶやいた。
「我ごと殺せ」
「お兄様……それはどういう……」
「不可能です。貴方様には、〝この目玉〟がない。あの女が入れませぬ」
「ならば、貴女の目を頂こうか。命と引き換えるのだ、目玉ふたつで間に合えば、重畳と言い切れるのではないかな?」
顔を両手で覆ったアカは、人差し指と中指の間から、円形魔法陣の描かれた目玉を出して笑んだ。
「まるで、悪魔との取り引き……いいでしょう。この目玉、差し上げます」
兄とアカの会話の内容がひとつも理解できず、ただ、自分だけが蚊帳の外にいるという感覚。
フィオールが疑問を発する前に、彼女を置き去りにし、交渉は成立して次のステップへと進んでいた。
「ガラハッドが擬態魔法を用いるとはにわかに信じ難いですが……事実、ヤツは、擬態して町民になりすましておりまする。
ヤツの擬態を見抜く方法として、最も簡単なのは〝この目玉〟を用いること」
怪しげに、アカの両眼が光り輝く。
「精霊を使役せしめるこの目があれば、僅かに精霊のまとわりつく量が異なる擬態の見分けがつくでしょう」
「五つ目の総人数は?」
「45人」
「まるで、足りんな。この町の広さから考えても、45人で間に合うとは思えん」
「いいえ、十二分に」
訝しげに肩を揺らしたマルスの前で、六角錐を模した水晶を取り出したアカは、目の前に町の見取り図を投影した。
「ルィズ・エラの要所にある35の精霊篝に、五つ目を配置いたしまする。五つ目たちは、精霊がより集まることで形成される精霊篝を介して〝遠隔通信〟を行うことが可能」
精霊篝を示しているであろう35の光柱が上がり、3次元の地図上に指し示される。
「元々、精霊篝は、町の全容を把握するために作成したモノ……35の精霊篝に人員を配置すれば、ルィズ・エラの全体を掌握したと言っても過言ではありませぬ」
「念話石とは違って、精霊を介した通信であれば、如何にガラハッドであろうと対策しようがないということか」
正解だと言わんばかりに、アカは柔和に微笑む。
「残り10の五つ目はどうする?」
「丁度、ユウリ様に引っ張られていった人員が8人。彼女らを除いて、残り2人は我々の護衛として残ってもらいましょう。
これにて、ガラハッドの捕捉は落着……しかし、ひとつ、問題が」
「剣戟防層」
水晶を懐に仕舞い込んだアカの前から図が消えて、再び静まり返った教会の中に軋音が響く。
「あの剣戟による防御を突破し、ガラハッドを殺すために――」
赤紫色の髪の毛が魔力で広がり、女は悪魔めいた笑顔を浮かべた。
「貴方様の妹、どちらかに死んでもらいます」
思わず――フィオールは、兄の目線からシルヴィを隠した。