アーサーのお絵かき
猩猩緋の民は、幼少の頃から精霊の声を聞いて育つ。
赤髪の民族とも呼ばれる彼らは、森林、水際、火山、霊場、寒冷地……精霊の住み着く地へと移り住む遊牧民である。
厳しい掟と節制を徹底的に行う猩猩緋の民は、年齢に関係がなく精霊との契約を結んだ者を〝成人〟として見做し、集団からの離脱と掟破りを許した。
精霊の声を聞き、精霊に力を分け与え、精霊と友愛を結ぶ……この三箇条を達成した時、猩猩緋の民は精霊との契約を交わしたこととなり、身体のどこかに〝紋様〟が現れる。
死ぬまで契約を結べずにいる者が散見されるほどに、精霊と契約を執り行うことは難しい。中には、精霊たちの自分勝手な自由気ままさに絶望して、一生を〝未成人〟として扱われる人生を選ぶ者もいる程だ。
ヴェルナ・ウェルシュタインの顔半分に、〝契約の証〟が現れたのは、弱冠12歳の時――彼女が属していた集団の中では、過去に例を見ないほどに早く、猩猩緋の民全体で見ても百年に一度の逸材であった。
12歳にして、祭り上げられたヴェルナは自惚れた。
所属していた集団を抜け出し、冒険者としての活動を行うようになってからは、更に傲慢になっていった。
彼女は、負けず嫌いなのではない。
あまりに、〝負けたことがない〟のだ。だからこそ、負けた後の対応が下手くそであり、なおかつ敗北を認めるということに慣れていない。
そういう事情もあり――
「う、嘘だ……」
最大出力で放った不意打ちが、紙吹雪を纏ったような目の前の少女に、〝片手〟で消失させられたことに驚愕を隠せなかった。
「精霊魔法だね」
手配書に載っていた男を庇うように、一歩前に出ていた彼女は、焼け焦げた自分の右手を見下ろして「スゴい」と感嘆の声を上げる。
「ココまでの威力は久しぶり。精霊に愛されてるんだね、いいな」
「い、壱から伍式解放!!
疾き風、来たりて、拡充霊唱、吹き飛べ!!」
突風が巻き起こってヴェルナは守るように包み込み、彼女の赤紫色の髪が巻き上げられるように逆立って、顔から両腕にまで伸びた紋様が碧色に光り輝き――彼女の突き出した両手から、轟音と共に暴れ狂う竜巻が繰り出される。
「無効化申請、論理式――空間展開」
敵対者である少女は、焦げた指先を自分の眼前に運び、宙を切り抜くような動作をすると、空間が歪んで竜巻が収納されるかのように消え失せる。
「く、空間魔法……あ、有り得ない……」
取り扱いが異様に難しく、リアルタイムで行使することが不可能とされていた、空間を自由自在に操る魔法を目の前にして、ヴェルナは呆然として立ち尽くした。
「トリスたん、スゴい!! トリスたん、かわいい!!」
「うっさい」
手配書に載っていた男……アーサーは、犬猫を愛でるようにして少女の頭を撫でまくっていたが、数秒もしないうちに手を払いのけられる。
「あ、あなたたちは、何者なの……?」
「俺は、アーサー。家名はないから、だたのア――」
「あんたには、聞いてない。
貴女は、何者なの?」
無言で壁を殴り始めたアーサーを放って、少女は言葉少なに名を語る。
「トリスタン。好きな食べ物はゼリー。よろしく」
トリスタンと名乗った少女から、ゆっくりと距離をとりながら、ヴェルナは彼女の背後にある〝遺棄された民家〟との距離感を図る。
「か、勘違いしてる……あたしは、アーミラうんちゃらなんかじゃない……」
「お前、ユウリから、何も聞かされてな――」
「あんたは、喋らないで!!」
拗ねるように、その場に座り込んだアーサーは、木の枝を使って楽しそうにお絵かきを始めた。
「ユウリ・アルシフォンから聞かされてないの?
だとしたら……可哀想だね」
「どういう意味?」
「信頼されてないってこと」
くすくすと笑いながら、トリスタンは言った。
「本当にただの隠れ蓑なんだ。神託の巫女が、その身体の内側にいるっていうのに、知らされていないだなんて。
擁している魔力量からしても、アーミラ・ペトロシフス・リリアナラ・ウェココロフ・ペチータ・アインドルフがいるのは、アナタの裡側であるのは間違いないもん」
「神託の巫女? あのおとぎ話の?」
「おとぎ話なんかじゃない」
押し殺された憤怒が混じったかのように、彼女の声は張り詰めていた。
「神託の巫女は実在す――」
今!!
「簡易霊唱、吹き飛べ!!」
一瞬、目の前の少女の気が逸れたのを感じ、ヴェルナは気精を解放して突風の弾丸をぶち撒ける。
「どこを狙っ――アーサーッ!!」
「トリスタン、見て見て!! 最高傑作のう○こ、書けちゃっ――」
二階の民家に放たれた風弾は、見事に壁を破壊して崩壊を招き、崩れ落ちてきた瓦礫に巻き込まれたアーサーは赤い染みになっていく。
「気精!!」
ヴェルナの両脚に巻き付いた風雲は逆立ち、上空へと打ち上げられた彼女は、逃走を図るために冒険者ギルドへと身体の向きを変える。
「言っとくけど!! あたしは、負けてないから!!
悔しかったら、再戦してみ――」
目の前に出現した紙の塊は、荒れ狂う嵐のような猛烈さをもって、ヴェルナを地面へと叩き落す。
「ぁ……かはっ……!」
衝撃で抉れた地面の中心で、自発呼吸が不可能になったヴェルナは、肋骨の軋む音を聞きながら、じんわりと広がっていく赤色の水たまりの温さに浸かった。
「アーサーが死んだくらいで、逃がすと思った?」
地面に下り立ったトリスタンは、慰めるように赤髪を撫で付けながらささやく。
「アナタ、弱いね」
「よ、弱くないし……ま、負けてない……」
「弱いし負けたんだよ」
優しく優しく、労るように撫でられたヴェルナの目に涙が浮かぶ。
「よ、弱く……ないもん……せ、先輩だって……ほ、褒めてくれ――」
「雑魚」
脳に染み込むようなささやき声――どうやっても、言い訳のできない事態に追い込まれたヴェルナは、完膚なきまでに負けたことを自覚し、自分の心がポキリと折れた音を聞いた。
「これから、ルポールは酷いことになるよ。
アナタは知らないだろうけど、前にあった大戦の時に、この街には外へと通じる地下通路が作られた。そこを通って、天災害獣が雪崩込んでくる」
実に嬉しそうな声音で、トリスタンはつぶやいた。
「フィオール・エウラシアン、死んじゃうかもね」
「ダメッ!!」
唯一無二の大切な友人の笑顔が脳裏に浮かび、必死の形相でヴェルナは絶叫する。
「お願い……やめて……」
「なら、一緒に来て」
「わかった……行くから……行くから、やめて……」
ひょいっと、軽々しく抱きかかえられたヴェルナは、抵抗する気もなくして、虚ろな目でルポールの街を眺め――甲高い悲鳴をその耳で聞いた。
「そんな!! なんで!?」
混乱に包まれるかのように、そこら中で助けを求めるかのような喚き声が上がり、街に災害がもたらされたのを知ったヴェルナは呆然として目を見張る。
「嘘、ついたから」
トリスタンは、申し訳なさそうに謝罪を口にする。
「ごめんね。フィオール・エウラシアンには、死んでもらったほうが都合いいの」
「ふ、ふざけないで!! やめて!! おねがいっ!!」
「無理」
「そんな……フィオ……いや……やめて……」
嫌な現実から目を背けるように両耳を手で覆った彼女は、絶望に心を支配されながらもか細い声で〝誰か〟を呼んだ。
「たすけて……誰か……ねぇ、誰か……いるんでしょ……たすけてよ……」
来るはずがないことを知っていても、彼女は誰かへと助けを求めていた。顔をぐちゃぐちゃに歪めた少女は、慣れ親しんだ町並みを見つめながら願いを口にする。
「お願い……誰か……誰か……たすけて……っ!」
その懇願が聞こえたかのように――足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ……ゆっくりと歩きながら、こちらに近づいてくる彼を目視したトリスタンは、あまりの驚きに全身が震えるのを感じていた。
「まさか……そんな……早すぎる……」
トリスタンは、驚嘆で足を止めて、悠然と現れた〝英雄〟を凝視する。
「先輩……」
ヴェルナは、泣きながら、大声で叫んだ。
「ユウリ先輩っ!!」
ユウリ・アルシフォンは、そこに立っていた。当たり前のように、呼ばれたから出てきたと言わんばかりに、少女の願いを抱いて立ち尽くしていた。
焦げ茶色のローブで身を包んだユウリは、涙を流しながら自分を呼んだ少女へと歩み寄る。
「……用意はいいか?」
彼は、言った。
「……雑魚」
彼の瞳に――敵が映った。