なりたくもない英雄
左拳と右拳が交差して――弾ける。
ふらついた僕のわき腹と背骨の中間地点、腎臓に足刀が食い込んで、脳天からつま先まで激痛が走る。
「勝てるわけがっ!!」
顎に右拳、お日様が視えて、僕の視界がぐらつく。
「ねぇだろうがぁっ!!」
鼻梁に叩きつけられる拳。
鼻血を大量に吹き散らしながら、その場に倒れ込む。全身から力が抜け落ちて、気色の悪い排尿感があった。
腎臓を打たれたせいで血尿が漏れていて、あっという間に下半身が真っ赤にそまっていく。生暖かい血沼に浸かりながら、ぐらんぐらんと揺れる世界を見つめる。
「まともに使えない右腕!! 左足でも踏ん張れてねぇっ!! そのカスみたいな魔力量はなんだよ!? あぁ!? かつての完璧な外面は、どこにいった!? 完全無欠の英雄様は、どこにいるんだよ!? なぁ!?」
「…………」
痛い。
シャレにならない痛みだ。今までの人生で感じてきた痛み、それらとは別次元にある強烈な激痛、延々と続いている。痛み以外の感覚が抜け落ちたみたい、熱に浮かされたようにぼうっとしている。
「結局のところ!! てめぇはっ!! あの外面有りきの英雄なんだよっ!! アレだけの力があったら、俺なんて、数秒足らずにぶち殺して終わりだった!! 気持ちの良い爽快感に、ストレスのない幸福な完結だったんじゃねぇのか!?」
アーサーは、僕の髪の毛を掴んで持ち上げ、反射的に顔を歪めている僕を見つめる。
「なんで、幸せな道を選ばなかった……隠居してあの完璧のままで、楽しくて幸せな暮しを全うすればよかったじゃねぇかよ……盲目的に自分を愛する女に囲まれて、妄信的に誰もが敬う英雄でいられて、狂信的にどいつも敵わない力を振るえばよかっただろ……てめぇひとりが気持ちの良い世界で、なんで浸りきっていなかった……」
顔が浮かぶ。
今まで、会ってきた人たちの顔だ。
彼ら、彼女らには、歩んできた人生があった。物語があった。幸福があった。
もし、僕が、完璧な外面を選んでいたら、彼ら、彼女らは、ずっと僕を『様』付けで呼んで、無条件に愛をささやいて、ありもしない憧れを抱いて不幸になるだろう。
誰かが描いた外面どおりに、意思のない操り人形みたいにして、永遠にもてあそばれ続けるだろう。
たったひとりの。僕のために。
そんな。そんなもの。そんなものは。
「……んなもの」
「は?」
僕は、拳を握り込む。
「……まがい物、だろうがっ!!」
左腕を――振る。
アーサーの顎を捉えたそれは、歪な音を立てながら振り抜かれ、目の前の旧友を打ち砕く。よろけながら下がったヤツは、切れたらしい口中から血を吐き捨てた。
「まがい物だろうがなんだろうが、それがお前の望んだことだ。逃げ出したんだろ、悠里。リーナのことを受け止めきれなかったお前は、神託の巫女の甘い罠にのって、見事に捉えられちまったんだ。
てめぇはっ!! 自分から!! 押されて動くだけの、機械仕掛けになったんだろうがっ!! 全自動で人を救うだけの、哀れな道化人形にまで堕ちやがってっ!!」
「……なんで」
ふらつきながら、僕はささやく。
「……なんで、お前が怒ってる?」
「俺は」
自分の顔をなぞり、アーサーの顔に赤色の線が描かれる。それはまるで女性的な仕草で、化粧を施しているようにも視えた。
「俺は……うさちゃんの手を握って、夢を視るだけの日々はやめたんだ……俺だって……お前みたいな英雄になりたかった……お前みたいに人を信じて……この世界を救ってみたかった……」
ぽたぽた、まるで涙みたいに。
アーサーは、塗りつけた真っ赤な血を、眼尻から流してみせる。
「でも、人間は、大好きな人を殺した……許せるかよそんなもん……赦せてたまるか……あんなやつらに生きてる価値があるだなんて……どうやったら、どうやったら、信じられる……」
彼は、優しく微笑む。
「俺は、お前になりたかった」
視界から――アーサーが消え――僕は、膝をついて嘔吐している。
血混じりの胃液を吐き尽くした頃合い、みぞおちを打たれたことに気づき、本格的な“苦しみ”を感じ始める。
「そういや、お前、最初は吐いてばっかりいたな」
ゴンッ、側頭部が揺れる。
脳みそがシェイクされる感覚、わけもわからず寝転んで、理解不明なままで胃が痙攣するまま嘔吐く。
「悠里」
仰向けにされ、腹に跨がられる。両足で両腕を押さえつけられた状態、“鉄槌”の形で握り込まれた拳骨が視えた。
「今から、お前を――」
アーサーは、笑った。
「泣きわめきながら命乞いするまで、殴り続ける」
無防備な僕の顔に――拳が叩きつけられる。
明滅。明滅する痛み。鼻が折れる音がした直後、魔力膜で固められた拳が、続けてふってくる。ガードしようにも完全に組み伏せられており、全体重をかけられている状態で、細身の僕は為す術もない。
「どうした、英雄」
ゴッ、歯が抜け落ちる。
前歯が喉に入り込み咳き込んで、口の中に殴打が叩き込まれる。大量の血と反吐、窒息手前で横に殴られ、かろうじて吐き散らす。
「ブチのめすんだろ」
ゴッ、ゴッ、ゴッ――身体が勝手に反応して、下半身がびくんっと跳ねる。
ヴェルナとフィオールの泣き叫ぶ声、三半規管がイカれているのか、靄がかかったみたいに聞こえた。
「どうした? なぁ? 救いに来たんじゃないのかよ?」
必死に空気を求めて足掻いている最中、ひたすらに痛めつけられる。
意識を失いそうになると魔力を流し込まれ、指の爪が焼ききれて弾け飛んだ瞬間に目が覚める。喉が焦げ付いたみたいに悲鳴も出なくて、ひたすらに拳の雨を受け続ける。
「泣きわめいて!! 命乞いしろっ!! そうしたら救ってやるよっ!! オラッ!! オラッ!! オラァッ!! 泣け!! 泣いてわめけっ!! 『僕は英雄なんかじゃありませんでした』って言ってみろよっ!!」
息を荒げながら汗だくになったアーサーは、僕の髪の毛を乱暴に引き掴み、首を晒すみたいにしてふたりに見せつける。
「オラ、視てみろよ!? なぁ!? コレがお前らの英雄様だ!! こんなにも顔面がパンパンに腫れ上がって、歯も抜け落ちて、顔の骨格が歪みきってるブサイクな英雄様を視たことあんのかよ!? なぁ!?」
かすかに開いた目、彼女らはこちらをじっと見据えている。だが、決して、手出しはしてこない。
「……なんとか言えよ」
その瞳――ボロボロになって、無様な外面になった僕を、ただ真摯に捉え続けている。
「なんだ、その目……おい、なんだよ……ふざけんじゃねぇ……なんとか言ってみろよ……おい……」
その目に、見覚えがある。
何度も視てきたからわかる。
あの完璧な外面で。
幾度となく。
幾度となく視てきたから。
幾度となく視てきたからわかるんだ。
「なんとか、言えよぉ!! なぁ!? おいっ!!」
アレは――英雄を見る目だ。
「ふざけんな……ふざけんな……なんで……なんで、そんな目してやがる……絶望しろよ……この世界はどうしようもないって……諦めろよぉおおおおおっ!!」
ふわり、僕の身体が宙に浮いて。
最大限に魔力を籠めて、アーサーは拳を握り込み。
思い切り――僕に叩き込んだ。
「……ぉ」
声が、漏れる。
背骨ごとぐしゃぐしゃに潰れたかと思った。全身の骨という骨が叩き折られて、臓器という臓器に突き刺さったかと感じた。
空中で数回転した僕は、無様に倒れ込む。痙攣する全身、まともに身体が言うことを聞かない。
「そこで……そこで、人間どもが滅び死ぬのを待ってろ……絶望しきってから死ね……」
腫れ上がっている拳を振りながら、アーサーはよろめくようにして去っていく。
どんどんどんどん、姿が遠ざかっていき――止まった。
「……ふざけんな」
立ち上がった僕を見つめ、アーサーは泣いているみたいな困り顔をする。
「なんで……なんで、立てる……立てるわけ、ねぇだろ……立てるわけが、ねぇんだよ……顔面ぐちゃぐちゃに潰されて、身体中の骨はひび入るか折れてる状態で、俺に勝てる可能性なんて一ミリもねぇのに……」
歯を食いしばったアーサーは、必死の形相で叫ぶ。
「なんでっ!? なんで、立つんだよ、てめぇはぁああああああああああっ!!」
右拳がわき腹に突き刺さり、血反吐をぶちまける。
だが、倒れてやらない。
僕は、小刻みに振るえている左腕で――ぺちんと、アーサーの顔を叩いた。
「ふざ、けんな……」
アーサーの拳を顔で受け止め、僕は後ろによろめきながら倒れる。
そして、立ち上がる。
「立つな……立つな立つな立つな立つなぁあああああああああああああああああっ!!」
乱撃。
打って打って打って打って打って打って打って打って打って打って打ちまくる。
左から右から下から上から、無数の乱打が襲いかかってくる。受け止める体力も技術もなく、僕はひたすらに痛みと一緒に受け入れる。
肉という肉が変形して真っ黒に変色し――僕は、膝をついて倒れる。
「そこで死ん――」
アーサーの目が、驚愕で見開かれる。
立ち上がった僕は、ふらつきながら。狭まった視界の中、目の前にいるヤツだけを見つめ続ける。
絶対に負けるわけにはいかない、アイツだけを捉え続ける。
「立てる、わけが、ねぇだろ……ふざ、ふざけんな……なん、で、なんで……そこまで、して……か、勝ち目もないのに……立てる……なんで、ど、どうして……」
「…………」
わかんないだろうな。
――やぁ、少年。はじめまして。目玉ほじくりはいかがかな?
わかんないだろうな、お前には。
――あはは。お断りだバカ野郎、死にかけの癖に調子乗るなよ君
こんな風に散々に痛めつけられた後、アイツに助けられたこともないお前には。
――外面に対する、誹謗中傷は無意味だ
託されてないお前には。
――後は頼んだ、英雄
わかるわけないだろうな。
――わ、わた、し……英雄に……英雄に、な、なりたくて……
だって。
――笑えよ、笑ってろ。ほら、笑って
アイツの。
――後は頼んだ、英雄
アイツの望んだ英雄は。
「……こんひゃ……こんひゃちょこりょで……」
僕は、“笑う”。
「負けたり……しないんだよ……!」
僕は倒れるような形で前に進んで、祈るような気持ちで口にする。
「現実……」
どうか、届きますようにと。
「現実……っ!!」
アイツに、捧げる。
僕の動かした左腕、アーサーが反応する。当たり前だ。今まで、僕は、左腕でしかアーサーを殴っていない。今度もまた、左腕で殴ると思うだろう。
だって、僕の右腕は、焼き焦げているから。
だから――
「現実ッ!!」
アーサーの顔面に“右拳”が食い込んで――僕の左手は“聖剣”を引き抜き――アーサーは呆気にとられて瞠目する。
「――逃避ッ!!」
この一撃が――届く。
碧色の閃光が迸り、僕の右腕が跡形もなく消し飛ぶ。
「……お前になんて」
光に巻き込まれたアーサーは、諦めたかのように微笑み――
「なりたくもねぇよ」
消え失せた。