龍と少女
南北の塔が、火を吹いた時――トマリの目に過去が映った。
彼女は、アダント家に養子として迎えられた子である。
アダント家には、特段、養子を迎え入れる必要性はなかった。長男、次男ともに健在で、次男は誉れ高い騎士として名を残している。
では、なぜ、アダント家が彼女を引き取ったのか?
彼女が――天災害獣に育てられた子であるから。
赤ん坊の頃に森に捨てられた少女は、龍に冷めきった体を温められ、粘液体から流動食をもらい、藍乱甲羅の硬い甲羅に守られてすやすやと眠った。
「ママ、ママ!!」
彼女が龍種の言語を多少なりとも話せるのは、そういった幼少期を過ごしてきたからで、遊び相手であった天災害獣の大群を前にして、ちっとも恐怖感が湧いてこないのも仕方がないことであった。
母龍には小さな子どもの龍がいたが、トマリはその子龍と兄妹みたいにして育てられた。なにをするにしても息がぴったりで、龍である彼は、なにかと妹であるトマリの世話を焼いてくれた。
十二歳まで続いたその日常は、アダント家による天災害獣狩りで、あっという間に終わりを告げる。
いつものように朝起きて、水を飲みに行って帰ってきた。
帰ってきたら、血の海が広がっていた。龍のお母さんは冒険者たちによってなぶり殺され、王都から要請を受けたらしい聯盟騎士団は、小綺麗な鎧を真っ赤にして高々と“友だち”の首を掲げていた。
「おい、子供だぞ! 天災害獣にさらわれたらしい!!」
「大丈夫か、お嬢ちゃん!!」
その場で、なにが起きたかは憶えていない。
気がついたら、彼女はアダント家に引き取られる手はずになっていた。
「…………」
アダント家の当主は、無口な老人だった。
恐らく、そこまで、歳を重ねていない筈だが、背中が複雑怪奇に折れ曲がっていて、口ひげは病的なまでに真っ白だった。
彼は優しかった。獣同然だったトマリに人の言語と人の生活、人として生きる方法を教えてくれた。彼の妻も少女の境遇に同情的だったし、ふたりの兄も、小さな彼女を可愛がってくれた。
だが――
「いやぁああああああああああああああああああ!! いやだいやだいやだぁああああああああああああああ!! それだけはやめてぇええええええええええええ!! いやぁああああああああああああああああああ!!」
一日に一度、行われる“実験”だけは耐えられなかった。
「…………」
アダント家は、異様なまでに、天災害獣に対して興味関心をもっていた。その頃合い、シュヴェルツウェイン王家によって、天災害獣の研究調査は禁じられていたがそんなことはお構いなしだった。
「…………」
アダント伯の実験テーマ、『天災害獣に育てられた人間の心は、天災害獣か人間か』……縛り付けられたトマリの目の前で行われたのは、天災害獣をゆっくりゆっくりと刻んでいく“作業”だった。
「お願いしますっ!! やめてくださいやめてください!! やめてぇええええええええええええ!!」
断続的に響き渡る悲鳴。天災害獣だって涙を流すし、耳の奥に残るような断末魔を上げる。
あの森に住んでいた天災害獣たちは、皆、トマリにとってのお友だちだった。だからこそ、効果的だった。見知った面々が、トマリにだけわかる“言語”で、必死に助けを求めてくる。
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてなんでみてるのたすけてひどいたすけてぼくたちはたすけたのにたすけてひどいなんでたすけてひどいたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて。
「お前は、人か天災害獣か」
持病をもつ心臓を押さえつけながら、アダント伯は、いつも異様な形相で彼女に問いかける。
「人か!? 天災害獣か!?」
「人です!! 私は人です!! ですから、もうやめて!! やめてください!! おねがいします!! おねがいします!! おねがいしますからぁあああああ!!」
アダント伯にとっては、知的好奇心を満たすための“欲求行為”だったのかもしれない。だが、それは荒療治として、急速にトマリを人間へと近づけていった。
アダント家に引き取られてから数年後、アダント伯が心臓の病で亡くなった頃合い、彼女は完璧に人としての外面を取り繕うことができていた。
だがそれでも、時たま、彼女は自身が“天災害獣”であるという実感を覚えることがあった。その発作のタイミングは、自分ではどうしようもない。なにが条件であるかもわからない。
そんな時、彼女は、人の形を保つために“外面”をなぞる。
「私はトマリ・アダント……人間、人間だ……だいじょうぶ、人間……人間だ……人間、人間、人間、人間、人間……」
化粧……目元を際立たせることで外面を見つめ直し、白粉で頬を叩くことで外面をなぞり、口紅を塗り込むことで外面を確認した。
「人間だ人間だ人間だ人間だ人間だ人間だ……っ!」
人と天災害獣の共存の道を目指したトマリは、天災害獣研究機関で働くことを自ずから望んだ。
彼女は、そこでたっぷりと学ぶ。人と天災害獣が交わることはない。この現況をどうにかしてくれる英雄などおらず、現実という名の絶望と添い遂げて死ぬくらいしか救いはないのだと。
少女は現実を知って、内面と外面の辻褄を合わせたつもりだった。
それでもなお、発作はおさまらない。
龍の母親のあの優しいぬくもり……アダント家の母は優しかったが、トマリは一度も抱きしめられたことがなかった。
人として生き、人として愛され、人として受け入れられることがなかった。
だから――
――だいすき!! ありがとっ!!
ヴェルナ・ウェルシュタインに抱きしめられた時、自分が人の形をしていることを知った。そして、自分の内側にある母龍のぬくもりは、どうあがいたところで捨て去ることができないことも悟った。
以降、発作が起こることはなかった。
――お願い……生きて……生きてて……お願いだから……死なないで……
「ヴェルナさん……」
そのことを教えてくれた彼女が、泣いて欲しくはなかった。最早、自分の妹のように感じるあの子が、悲しんでいる姿を視たくはなかった。
だから、覚悟を決める。
「すみません、ココを頼みます」
「え?
お、おい!! よせ!! 武器もなしに!! 死ぬぞっ!! よせっ!! 誰か、あの子を止めてくれっ!!」
統制の見直しが終わり持ち直した王城前、名ばかりの指揮官だったトマリは、呼び止める兵士の横をすり抜けて南に駆ける。
魔力の流れ弾が飛び交う戦場、兵士たちは天災害獣を抑え込もうとしており、トマリは駆け抜けようとして――
「あっ」
脇腹の半分が消し飛ぶ。
どっと粘つく汗が流れ出し、立っていられずにヘタレ込む。兵士たちは目の前の敵に精一杯なのか、傷ついた彼女のほうを見ようともしない。どろどろと流れ出した赤黒い血が地面を汚し、失血のせいで足に力が入らなくなる。
「天災害獣を……う、裏切った代償かぁ……あ、あはは……い、痛いなぁ……」
だくだくと血が流れる脇腹を押さえつけ、民家の壁に身を押し付けるようにして、トマリは必死に南塔を目指す。
ぼやける視界。死が近づいてくる。
朦朧とした意識の中、聞き覚えのある龍の鳴き声が聞こえた気がした。アレだけの龍が王都に集結しているのだから、兄龍とよく似た声を上げる龍がいるのかもしれない。
いつの間にか、彼女には森が視えていた。
天災害獣のお友だちは笑っていて、彼女の遊び相手をしてくれている。母龍は優しい眼差しをこちらに向けていて、兄龍は心配そうにぐるぐると上空を回っていた。
「ママ……おにいちゃん……ごめんね……ごめんね……」
――人か!? 天災害獣か!?
いつの間にか涙が漏れ出ていて、トマリは震える口元で笑みを形作る。
「私は……天災害獣だ……ママは龍でおにいちゃんも龍で……おともだちは天災害獣だ……でも……でも……」
――だいすき!! ありがとっ!!
「人にも……人にも……ともだちができたよ……ママ……おにいちゃん……ねぇ、聞こえてる……私にも……人のおともだちが、できたよ……?」
天災害獣が、笑っていた。その笑顔に少しでも近づきたくて、トマリは足を引きずりながら進む。
崩れ落ちている南塔の鉄扉。トマリはそれに縋り付き、手のひらがじゅうじゅうと焼き焦げて、凄まじい激痛が全身を襲った。
「ぁあ……ぁあああああああああああああああっ!!」
あまりの痛みに痙攣する全身、それでも彼女は手を離さず、脇腹から大量の血を零しながらこじ開ける。
血みどろ。滑る両足。倒れ込むようにして、塔の中に入った。
立っていられない。だから。
這う。這う。這う。
潰れかけの虫みたいな無様な格好で、口端から血を垂れ流し、震えの止まらなくなった両手両足を懸命に動かして上を目指す。どんどんどんどん、火が燃える度に酸素が薄くなって、彼女の頭が酸欠で鈍る。
「ママ……ママ……」
捨てられたあの日、誰も救ってくれなかった日、優しい母親の龍だけが、彼女を包んで温めてくれた。
「おにいちゃ……おにいちゃん……」
彼女が窮地に陥った時、兄龍はいつもどこからともなくやって来て守ってくれた。
「ヴェル……ヴェルナさん……」
自分を抱きしめてくれた少女が、楽しそうに笑っていた。
「ふ、ふふ……がんばれ……がんばれ、トマリ・アダント……天災害獣の……人の成り損ない……がんばれ……がんばれ……」
――あたしが、西塔へ行く
「ここで諦めたら……あの子に……あの子に笑われるぞ……がんばれ……がんばれ、トマリ……がんばれ……」
一段、一段、階段を赤色に染め上げながら。着実に上っていく。あまりに血を流しすぎているせいか、誰かが自分よりも上の段を駆け上がっていく音を聞いた気がした。
「がんば――」
窓が破れ、火柱が迸る。
崩れ落ちた天井の一部が上から降り注ぎ――トマリの眼前の階段を破壊しながら、下へと落ちていった。
「…………」
進む先を失ったトマリは、ぴくぴくと指先を動かしながら横たわる。
――お願い……生きて……生きてて……お願いだから……死なないで……
「ごめんなさい……ヴェルナさん……や、役に立てなくて……や、約束も守れなくて……ごめんなさ――」
塔の壁が――吹き飛ぶ。
青い空が視えた。
その空を支配する龍は、優しげな目つきで、死にかけのトマリを見つめる。
トマリは、彼が、何者であるのかを知っていた。
「おにいちゃん……」
龍は、なにも言わずに首を下ろす。
「ゆるして……ゆるしてくれるの……まだ、家族でいていいの……?」
雲をかきとばすような――咆哮が上がった。
戦場にいる兵士たちも気力を失っていた民たちも血を浴びた天災害獣たちも、その轟くような龍の叫びに反応し顔を上げた。
「いつも、そうだね……私が困った時、たすけにきてくれたもんね……」
兄龍の背にのって、トマリは舞い上がる。
まだ機能している尖塔の防壁、兄龍の身体は膨大な魔力の射出を受け、焼き焦げて翼が折れ曲がる。
血だるまになりながらも、彼は上昇していく。
「おにいちゃん……」
そのぬくもりに身を預け、トマリはささやく。
「だいすきだよ……」
龍は、ただ、そっと鳴いた。
塔の頂上、巨大な龍は墜落するかのように突っ込み――投げ出されたトマリは、床をバウンドして魔法陣の上に横たわる。
あとは魔力を流すだけ。だが、流してしまえば、もう治療は行えない。ありったけの魔力を流し込んでおかなければ、数分もしないうちに魔力防壁は崩れ去ることになってしまうことだろう。
「お、おにいちゃ……ん……」
トマリは、必死に手を伸ばして――応えた龍と手をつないだ。
「ありがとう」
笑って、魔力を流し込んだ。ありったけの魔力を。
壁面に術式が描き込まれた南塔は自動修復機構を開始し、傾いていた尖塔は勝手に魔力膜を貼り直して元通りになっていく。
すべてが元に戻って、
――ママ、おにいちゃん、おやすみ!
手のつながれた兄妹は、微笑みを浮かべて眠っていた。
静かに、静かに。
もう開くことのないまぶたを固くしめて。
仲良く、眠り込――「現実逃避」。
トマリは、目を覚ます。
彼女は、ゆっくりと呼吸している兄龍に寄り添っていて、なぜか全快している自分を見つめる。追ってきたらしい王都民たちが、ありったけの魔力で消火作業を行っている声が聞こえた。
疲労で眩む頭を押さえ、塔のてっぺんから外を見下ろす。
そして、その後姿を視た。
黒焦げの右腕、そして左足。
傷だらけの状態で足を引きずりながら、何度も倒れながらも立ち上がり、決して諦めずに北塔へと向かう彼の姿を。
「……英雄」
ささやいたトマリは、ただ、彼の後ろ姿を見守っていた。




