目の前に立つのは
「ユウリ・アルシフォンは来ないよぉ?」
レイア・トイヴァネン……の姿をした神託の巫女は、一冊の本で顔を覆って眠りこけていたアーサーにつぶやく。
「あぁ……? なにぃ、なんかしたの?」
「生意気だったから、最前線に落としちゃった」
人差し指を片頬に当てて、可愛らしく小首をかしげる。その外面はレイアのものであるにも関わらず、怪しげな微笑みは物の怪のようにも視えた。
「へー、あーそう」
「くふっ、怒んないんだぁ? ちょっとびっくり。『俺と悠里の宿命を邪魔すんなっ!!』みたいな怒り方するのかと思った」
「別に。あの黒霞で王都を覆ってもらったのもお前の力あってのものだし、強力な協力者にはぐるぐるに巻かれておきたいだけだ」
「それはけっこー、でも覚えておいてね。あの黒霞は飽くまでも、トリスたんちゃんの魔力で形成されてるから。彼女の身になにかあったら、王都の外側で陣を張ってる人間たちが、どっと押し寄せてくるからねぇ?」
アーサーは、顔の上に載せていた一冊の本を――彼女の足元に放り捨てる。
彼女はソレを拾い上げて、にんまりと笑った。
「最新巻? 読んでくれたの読者様ぁ?」
「稚拙な夢の塊。現実逃避のクズ束。ゴミの集大成。娯楽小説は俺にとってはゴミだが、その中でも群を抜くゴミだね」
「ご都合主義はお嫌い?」
煤けている革張りの椅子から起き上がった彼は、座り直してからささやく。
「現実にご都合主義なんてない。死には特別な意味合いはないし、条理の伴う不条理しかない。こうして俺とお前が語らっている間にも、名前も知らない兵士たちは無駄死にして、民衆どもは文句垂れながら地獄行きだ。
この世に、英雄はいない」
「まぁるでぇ、ゆうりと正反対ね」
神託の巫女は、そのライトノベルをぺらぺらとめくり……困惑するかのように眉をひそめる。
「なんで、最後のページ以外、破り捨てちゃったの?」
「過程を知って、意味があるとでも?」
逆さまにした本を、あからさま、ぽとりと落とした彼女は笑む。
「あなたのお仲間が、みーんな、死んじゃうかもしれないのにぃ?」
「死を厭うと思うか?」
音のしない笑顔――好青年を思わせる顔立ちに似つかわしくもない、悪意と敵意と害意を綯い交ぜにした“厭世観”だった。
「……最高の仕上がりだよぉ、名も姓もないアーサーくぅん?」
「お褒めに預かり光栄だね。
あんたの描いた結末通り――」
アーサーは、床下に堕ちた最終ページを見つめる。
「俺がユウリ・アルシフォンを殺して、この世界から人が消え去り――笑顔で終わりだ」
声が耳に届いた瞬間、アーミラはおかしそうに笑い声を上げる。その出で立ちの前で座るアーサーは、笑ってない眼で睨めつける。
「どうした? 異界の民で言うところの箸でも転んだのか?」
「いぃえ、ちがうの。くふっ、おかしくて。だって、アーサーくん、ユウリと同じ言葉で異なる意味を吐くものだから。
ふたりして、違う笑顔を求めるんだぁ? おもしろ~い」
はしゃぐようにして、ぱちぱちと拍手をする。冷めた目つきで見つめていたアーサーは、立ち上がって花束を手にとった。
「でも、ごめんねぇ? 筋書き、変わっちゃったかも? 今のユウリじゃ、たぶん、ココまで辿り着く前に死んじゃうと思うよぉ?」
「そいつはどうかな」
殺し合う相手の筈なのに、アーサーは彼を思い浮かべ笑っていた。
「アイツは、自分を英雄だと思い込んでる狂人だぜ? そんなところで野垂れ死ぬような人間じゃない」
数秒、空白、笑顔。
「……おもしろ」
ぞっとする――虚空の風穴から漏れたような、およそ人間味のない声音が、目の前の少女から透る。
「ご都合主義を信じてないくせに、ユウリに関するご都合主義だけは信じちゃうんだ……へー……おもしろ……感情移入の度合いかな……だから、物語に没入してる人間は、細かい辻褄合わせは気にしないのか……」
コイツは、人をモノとしか思ってない――アーサーは、気づく。
と同時、自分の抱いている予感を、彼女は理解できないだろうと思う。ユウリ・アルシフォンが目の前に立つ瞬間が、はっきりとイメージできるこの感覚を。人を完全に掌握していると“思い込んでいる”コイツでは、一億年経ったところでわからないだろうと思う。
たぶん、この少女は忘れている……自分が人に作られた疑似人格だということに。
この僅かな理解の境目が、彼女にとって、唯一の“計算外”を招くような気がしてならない。神話で人が神を殺すような、埒外の奇跡を呼び寄せるような気が。
痛みを覚えて、はっと我に返る。
無意識に握りしめていた左手から血が滴り落ちていて、アーサーは強張っていた手のひらから力を抜く。
「どこに行くの?」
歩き出したアーサーに、声がかかる。だから、黙って花束を掲げる。
「知ってたか……いや、知るわけないだろうな。お前が視てきた物語には、書かれてないから」
王城の地下墓地で眠る“彼女”を追憶したアーサーは、首元から下げている首飾りをそっと握り込む。
「アイツ、ああ視えて、花が好きだったんだよ」
――アーサー、ありがとう
あの野花の咲く丘を思い出して――知れず、彼は微笑んでいた。