ユウリ・アルシフォン
「なぁ、悠里」
東、西、南、北――王城を中心として、天高く聳える四つの尖塔。
東西南北に位置する塔に魔力を流し込むことで、王都を包むようにして巨大な魔力膜が形成され、王の城は確固たる要塞と化す。
北の塔。
満天の星空。
魔力灯で光る町並み。
静かな夜。深まる夜。寂しい夜。
エカテリーナ・フォン・シュヴェルツウェインは、子供のように目を煌めかせ、淡い蒼色のドレスを闇に瞬かせる。
「この世界は、美しいな」
「……こんな夜更けにする話か?」
眠っていたところを叩き起こされた悠里は、彼女に手を引かれ、螺旋階段の最後の一段を上がった。
「視ろ、ほら」
リーナは悠里を抱き寄せ、ひとつの毛布にふたりで包まる。
「人の営みが輝いている」
世界に染み込む優しい黒に。ぽつぽつと。碧色の光が、儚げに明滅している。あたかも、闇夜で生まれた光の子どものように。
幻想的な光景を前に、悠里は静かに息を呑む。
教会の時計塔の長針と短針に光芒がじゃれつき、密集した家々を星影の混じった碧光が踊る。寂しげに佇む魔力灯に一筋の月光が手を差し伸べ、おぼろめいた精霊たちが人の世を歌うように滑る。
天をかざるは――そらのめぐりのめあて。
「悠里。わたしは、救いたいと思うよ」
「…………」
「母様が連れてきてくれたこの塔で、母様が見せてくれたこの景色で、母様が伝えてくれた優しさで……わたしは、このすべてを救いたいと思う」
リーナは、微笑む。
「だって、わたしは英雄だから」
一呼吸おいて、彼は応える。
「……好きにしろよ」
「おいおい、もう少し、洒落たことは言えないのか?」
「……やめろ、髪が、大変なんだぞ、整えるの!」
「あははっ!」
思う存分に髪をかき回したリーナは、悠里の頭を優しく撫で付けながらささやく。
「悠里、人は美しいよ」
「…………」
「父は一日の仕事でくたびれた身体を家に向け、母は父と子のために食事を作り、子どもたちは遊び疲れて眠る準備を始める。教会の神父は一日の終わりに祈りを捧げ、騎士たちは剣帯を外して酒盃を交わしに行き、吟遊詩人は小銭を稼ぐためとっておきの歌を奏でるだろう。
そして」
優しげな微笑みを向けられ、悠里は押し黙って顔を隠す。
「わたしたちは、星を視る」
「…………」
「忘れるなよ、悠里。人の美しさを。この景色を。一緒に眺めたこの星を」
あまりに哀しげな横顔に、悠里はなにかを言おうとして――それでもなにも言えず、口を閉ざして彼女を見つめる。
「お前だけは、忘れないでくれ」
そう言われた。
だから、彼は、その夜を忘れなかった。
膝をついた少年は、炭化した少女を抱きかかえていた。
彼の直ぐ横で、ぐちゃっ、ぐちゃっ、ぐちゃっ、と断続的に音が響いている。
「アーサー」
固形化した鼻血が服にこびりついているトリスタンは、一心不乱に“ソレ”を続けているアーサーに呼びかける。
「アーサー……もうやめて……お願い……アーサー……ねぇ、アーサー……アーサーッ!!」
彼女の絶叫に、ようやくアーサーは手を止める。
「なんだよ」
満面の笑顔で応える彼は、血の海に飛び込んだかのように、頭から足先まで赤黒く染まっていて――
「今、忙しいから、後にしろよな」
彼の足下には、騎士の形をした“肉塊”があった。
「も、もう死んでるよ……やめてよ……アーサーまでおかしくなっちゃったら、私、私……」
「『まで』ってなんだ? 他に誰が――」
「アハハハハハハッ! 死ね!! 死ねよっ!! ほら、命乞いしてみろっ!! 死ね!! 死ねよっ!! アハハハハハハッ!」
手を繋いだ右手と右手――王と王地を守る、聯盟騎士団の徽章。
過去の騎士団長ではなく、現在の聯盟騎士団の騎士団長……『シア』という名前の彼女は、強奪した酒を美味そうに呑みながら泣き叫び、狂ったように咎人を切り刻んでいた。
止める人間は、いない。
「儂は誤った……誤ったのか……ただ、あの子には、静かに暮らして欲しかっただけなのに……また、奪われた……コイツらに奪われたのか……あの女性だけではなく、儂から子までも奪うのか……あの優しい子の安らぎさえも、貴様らは……貴様らは……」
騎士団長であるガラハッドは、正気とは思えない瞳の色をたたえて、ぶつぶつと虚空に向けて語りかけていた。
義憤、悲嘆、狂躁……聯盟騎士団による一方的な虐殺は、彼らがこの村に辿り着いてから数分で決着がついた。
だが、終わらない。
憎しみの形をしたソレらに、彼らは思い思いの感情をぶち撒ける。それが正常であると信じ込むかのように、誰もが疑問視すらせずに狂気に染まっていた。
「なぁ、皆ぁ! 安心してくれっ!」
笑顔のアーサーは、血で染まった聖剣を取り落し叫んだ。
「リーナは、生き返る! 生き返るんだっ!!」
「アーサー……なにを……?」
「神の採択だよっ!!」
少年らしい高い声で、愛らしくアーサーは言った。
「各地の精霊の坩堝を解放して、リーナの身体から逃げ出した神託の巫女を探し出し、この世界にいる人間どもが滅びればいいだけなんだっ!! たったそれだけで、リーナが生き返る!! 簡単だろ!?」
「そうか……神の採択……その手があったわい!」
ガラハッドの目の色が、気色悪いくらい綺麗に変わる。
「やるのう、アーサー! 儂としたことが、その手があったことを忘れておったわい! こんなにも思い煩う必要なんてさらさらなかったわけじゃな!」
「リーナが……生き返る……リーナが……」
静かに泣いていたトリスタンは、花弁を押し広げるように笑った。
「よかった! それなら、皆、幸せになれるねっ!!」
「えー!? 姫様が生き返るんですかー!? アルコール摂取し過ぎて頭がイカれたと思いましたが、現実味のある選択肢なら最高ですよぉ!!」
「俺たちは、今日から『円卓の血族』だ! 血で結ばれた俺たちは、互いを裏切ることはない! そのための誓いをっ!!」
その狂いに気づいた騎士はその場を離脱して、興奮冷めやらぬ聯盟騎士団の一員はアーサーと血を交わした。
儀式が終わった後。
燃えくずの中から、首飾りを掘り出したアーサーは、決意を示すかのようにソレを身に着けた。
赤色の宝石がはめ込まれた首飾り……リーナが首から下げていた、彼女の徴とも言えるアクセサリーだった。
「悠里」
微動だにしない悠里に、アーサーが手を差し伸べる。
「お前のことは気に食わなかった。でも、俺は、命懸けでリーナを守ろうとしたお前を視た。だから、もう兄弟だ。血と血で結ばれた家族だよ、俺らは」
「…………」
「行こうぜ、悠里。もう人間を、救おうなんて思いもしないだろ? こんなゴミ共をリサイクルするだけで、俺たちのあの日々が元通りになるんだ。神の採択様様じゃねぇか」
「…………」
「悠里。ほら、手を」
「…………」
「さぁ、手をと――」
「……僕は」
か細い声で、だが、はっきりとした声音で――少年は告げた。
「……悠里だ。パーシヴァルなんかじゃない」
「お前……なにを……」
少年は、黒く焦げた少女をそっと下ろし、なにもかもが変わり果てた“目”で彼を見つめる。
「僕は、英雄になる」
その宣言に、アーサーがたじろぐ。
「ば、バカなこと言うなよ……ふざけるのも大概にしとけ……リーナは、なんの罪もないのに殺されたんだぞ……燃やされたんだ……アイツの苦しみを俺らが……俺らが救ってやらないといけないんじゃないのか……?」
「リーナが救おうとしたものを、お前たちは台無しにした」
少年は、意思の籠もった目で、彼らを睨めつける。
「だから、僕は――お前たちとは、“同じ”にならない」
沈黙。
数秒か数分数時間か、曖昧な時が流れて、アーサーが口を開く。
「偽善者が……臆病風に吹かれたかよクソ野郎が……っ! お前は……お前だけは……信じてたのに……っ!」
少年は、跪いて、黒焦げになった少女の額にそっとキスをした。
誓いは、それで十分だった。
「無駄だ!! お前はっ!! 英雄になんかなれないっ! まともな魔力ももってないお前がっ!! 誰を救えるんだ!? 答えてみろよ!? リーナを救えたのか!? なぁ!? お前がっ!! 俺たちがっ!! なにを救えたのか、答えてみろよ!? 答えてみろっ!! 答えてみろよ、悠里っ!!」
背中に浴びせられる言葉。
一度たりとも振り返らずに、悠里は、アーサーたちに決別を告げた。最初から、その地獄を辿ると決めていたかのように。
一度たりとも。振り返らなかった。
「ひさしぶりぃ、ユウリ」
僕は、過去と一緒になって、神託の巫女と向き合っていた。
現在、そして過去の神託の巫女。
力を求める僕が、英雄を目指す僕が、リーナが支払った犠牲を求めた僕が、到達すべき標はそこにしかなかった。
「全部、思い出した?」
「……この村を覆っていた黒霞を発生させたのはお前だな?」
「うん。だから、リーナが火炙りにされるまで、都合よく聯盟騎士団は現れなかった」
「……あんな近くで、唐突に殺し合いが始まった」
「うんうん、それもアミィの仕業だね」
「……悠里が騎士に拳を叩きつける時、死霊術師が手助けした」
「はーい、アミィが引き起こした“ご都合主義”でーす!」
僕の憤怒が渦を巻き――彼女の目を見つめて――静かに拳を下ろす。
「くふっ。殺そうとしないの? 憎いんじゃないの? 許せないんじゃないの? リーナの敵をとりたいんじゃないのぉ?」
「……過去は、変わらない」
「せいかーい! よしよーし、よく学習したね~?」
神託の巫女の手を払いのける気力すらなく、その甘い感覚に迎合し気持ち悪さを覚える。
「ほら、視て。悠里が契約するよ」
僕の隣で、彼は選ぼうとしていた。
「かわいそうなユウリくん……大丈夫だよ……あなたに力をあげる……」
「……疑似人格。ガラハッドの言った通りか」
覚悟を決めたかのように顔を上げた悠里少年に、神託の巫女は微笑みかける。
「あなたの望むあなたにしてあげる……さぁ、願って」
「…………」
考え込んだ彼は、そっとささやく。
「……人を救いたい。でも、もう人とは関わりたくない」
「うんうん、わかるわかるよぉ。あんなに、つらい目にあったもんねぇ?」
「……酷い光景を視ても、笑っていたい」
「健気だねぇ? あんなに醜い人の姿を視たら、笑ってられないもんね? でもぉ、リーナとの約束は守りたいんだ?」
「……記憶を、記憶を消して欲しい」
「ん? どういう意味?」
「……別人になりたい。このライトノベルの主人公みたいな」
「ちょっと、見せてね~?
ふ~ん、ふむふむ……あはは、なるほどぉ。ユウリは、人を救うだけの“機械”になりたいんだねぇ? だとしたら、ちょっとえっちでお気楽な、誰にも負けないようなチート主人公、ってところかなぁ?」
「…………」
「なら、悠里は、今から『ユウリ・アルシフォン』。このライトノベルの主人公の姓、『アルシフォン』をもらって、まったくの別人、誰もが羨む英雄に変わるの」
「……できるのか?」
「もちろん」
目の前で、彼は変わっていく。
リーナの望んだ姿に……いや、彼が望んだ英雄に。ただ、人を救うことだけに特化した機械仕掛けの道化に。
「ユウリ。これから、あなたの視た光景は、すべて“喜劇”に変わるよ。だから、笑ってられる筈。どんなに醜くて陰惨な悲劇でも、あなたの目を通すと、途端に喜劇に様変わりする。
そう、“勘違い”するから」
そして、ユウリ・アルシフォンは誕生した。
「愉しみだよユウリ……あなたの喜劇じみた悲劇が……」
目の前が、暗転する。
過去は終わった――現在が始まる。




