ばいばい
「過去は変わらないよ」
誰かがささやいた時、リーナの喉元に刃が触れる。
悠里の動きが止まった瞬間、騎馬の男は荒々しい手付きで切っ先を掴み、腕力に任せて彼を転がす。
それから、容赦なく過去の顔を踏み抜いた。
「悠里っ!! よせっ!! 子どもだぞっ!?」
「子どもが騎士の顔を砕いて、戦争を止めたりするものか」
普遍の民の騎士は、鼻血をダラダラと流しながら失神した悠里の足を掴み、ずるずると引きずって乱暴に投げる。
投げ出された少年を抱きかかえ、リーナは頭上の騎士を見上げた。
「エカテリーナ姫……神託の巫女の生まれ変わり……なぜ、俺の村を救わなかった……あの力をもっていたというのに……なぜ、救わなかった……?」
顔を砕かれた男は、赤黒い血の詰まった鼻から息を吸う。悲鳴に似た音を奏でながら、彼女の肩を掴んで揺さぶる。
「なぜだ!? お前には力があった!? なのに、なぜ俺の母さんを救わなかった!? 父さんを!? リリーは、なぜ、死ななければならなかった!? 鍛冶屋の親父さんは、頭を割られて死ぬような目に遭うような人だったか!? なぜ!? なぜだ!?」
その声に釣られるようにして、獣人の民と猩々緋の民が、争っていたのを忘れたかのように怨嗟を上げ始める。
「そうだ!! ふざけるな!! 私の故郷は天災害獣の群れに襲われて滅んだっ!! その間にお前は、普遍の民なんぞの村を救って、我々、獣人の民を見捨てたっ!!」
「我々が精霊に見捨てられ、紋様が身体に現れなかったのは貴様のせいだ!! 各地に現れては、天災害獣を狩る貴様のせいで、魔族の血を継いだ我々にまで精霊の怒りが及んだのだっ!! 貴様のせいで!! 我々、一族はっ!!」
悪態、罵倒、誹謗。
ありとあらゆる呪いが集まったかのように、人の醜さで集成された呪詛がリーナを包んだ。石礫があちこちから飛び交い、彼女の顔面に当たって肉が削げて、血がてらてらと流れる。
「ごめんなさい」
ささやくような謝罪の声。
組み伏せられているアーサーは、藻掻きながら叫んでいたが言葉になっていなかった。遠く離れた箇所から、懸命にリーナへと飛ぶ石を転移魔法で退けようとしていたトリスタンは、一刻の猶予もないと崖を滑り降りてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
虚ろな瞳で、血まみれになった英雄は頭を垂れる。
呪、呪、呪……憎しみの連鎖。
彼女の髪が投石による出血で真っ赤に染まって、その涙さえも赤々と色づいた頃――呪いが止まった。
粛静――音が、消える。
リーナは、顔を上げ、彼を視たはずだった。
ふらふらと身体を揺らしながら、血に塗れた片手を広げ、たったひとり。たったひとりだけで、その“理不尽”に対する英雄がいた。
「……ふざけるな」
彼はささやき、喉が張り裂けんばかりに――吠えた。
「ふざけるんじゃねぇえっ!! お前らみたいなヤツらがいるからっ!! お前らのようなヤツがいるから、英雄が戦わなきゃいけないんだっ!! たったひとりで!! 誰にも打ち明けられず!! 痛くて辛くて醜い世界を、コイツひとりが背負うことになるんだよっ!!」
――背負える人間を、英雄と呼ぶ。誰も見捨てないことを選んだ瞬間、地獄を辿ることになるんだよ
「視ろ、コイツを!? たったひとりで、世界を背負ってきたコイツを!? なにに視える!? お前らには、なにに視えるんだっ!? コイツは神託の巫女なんかじゃない!! エカテリーナ・フォン・シュヴェルツウェインっていう名前の、ただの女の子なんだよ!! お前らが背負わしたから!! お前らがそんな風に視るから!! コイツは……コイツはっ!!」
――あはは。英雄失格だね
「笑えないんだよ……!」
すすり泣く悠里を、よろめきながら近寄ったリーナが、倒れかかるようにしてそっと抱き締める。
「悠里……泣くなよ……キミの泣き顔はブサイクだぞ……」
「お、お前のほうがブスだ……」
ぱちぱちぱち、拍手の音。
ニコリともしない騎士の男は、双眼に憤怒を籠めてふたりを見下げる。
「感動したよ。だから、チャンスをやる。俺と賭けをしよう
「……賭け?」
「あぁ、こんなところで敵に出くわした時は、神に初めての感謝を願った俺だが……この賭けに勝てば、神託の巫女は殺さない。約束する」
「……本当か?」
「あぁ」
満面の笑顔で、騎士は言った。
「今から、お前らをひとつの小屋に閉じ込める。敷居を立てて背中合わせだ。幾らでも、話してもいい。身の上話でも、甘い恋の話でも結構だ。
だが、お前らのどちらかが、ひとつの結論に至るまでは決して外には出さない」
「ひとつの結論?」
「自分ではなく、相手を殺して欲しいと願え」
「ふざけ――」
容赦なく悠里の顔面を殴り飛ばし、リーナが庇うようにして彼を抱きかかえる。
「わかった、その賭けを呑もう」
「……り、リーナ、やめろ。さ、最初から、殺すつもりだ」
「大丈夫」
リーナは、微笑む。
「英雄を信じろ。絶対にふたりで生きて帰れるさ」
「そいつは楽しみだね……おら、戦争は終わりだ!! コイツらを小屋に入れろっ!! 奇跡の目撃者になれるかもしれないぞ!!」
分かち合う憎しみ。
皮肉にも、戦争を止めて彼らを協力させたのは、神託の巫女という名の共通の敵だった。
「おいっ!! ざけんじゃねぇぞ!! 俺も入れろっ!! 俺も同じ小屋に入れて、賭けに参加させ――」
頭を蹴り飛ばされ、アーサーは失神する。悠里たちを助け出すために身を隠すことにしたのか、トリスタンはその姿を見せようとはしなかった。
「楽しみだよ、いつまでもつのか。せいぜい、足掻いて、その聖人みたいな面が歪むところを見せてくれ」
その騎士の言葉を最後に――ふたりは、闇へと落ちていった。
小屋の中は薄暗く敷居が立てられていて、そこを境に魔力封じの縄で縛られたふたりが座らされる。
背中合わせ。
力をもたない少年と力を失った少女は、まともに傷の治療も受けさせてもらえず、暗闇の中で互いの体温だけを感じている。
「悠里」
「……なんだ」
「すまない。恐らく、助けは来ない。この村の周囲は、謎の黒霧で覆われていて、誰も出入りできないようだ」
「……お前も謝れるんだな」
「昔から素直で真面目、あまりの実直さに爺がハゲたくらいでね」
「……フッ」
「相変わらず、キミの笑い方はキザで面白いな。好きだよ」
「……惚れるなよ」
「ガキに惚れてたまるか。むしろ、お姉さんの魅力に惑わされるなよ」
「……今は大した美人でもないだろ」
「あはは。ぶん投げて、空を散歩させてやろうか」
「…………」
「…………」
「……なぁ」
「ん?」
「……俺は死んでもい――」
「二度と言うな」
「…………」
「…………」
「…………」
「昔話をしてもいいかな?」
「……あぁ」
「昔、英雄になりたい女の子がいた」
「……名前はエカテリーナ?」
「正解。彼女の名前は、エカテリーナ。とある王家に生まれながらも、正義をこよなく女の子だった」
「…………」
「彼女が幼い頃、母親が死んだ。たったひとつの石礫だった。誕生祭の一日目のことでね、誰かが投げた石が額に当たったんだ。それで死んだ。あっけなく」
「……辛かった?」
「愛してたんだ、本当に。優しい人でね。毎朝、毎朝、王女であるにも関わらず、優しい手付きでわたしの髪を梳いてくれた」
「…………」
「三日三晩、泣き続けた。目元は腫れ上がり、泣き声は掠れて、体力を失って気を失った。そして、起きた次の日、もうお母様のような犠牲は出したくないと想った」
「……それで努力したのか」
「あぁ。剣を振るって、学を身に着け、知で見抜いた。本当の限界を迎えた人間が努力を続けると、血反吐を吐いて血尿を垂れ流すと知った」
「…………」
「この世から、不幸な死をなくそうと思ったんだ」
「……無理だ」
「あぁ、そうだね。でも、当時も、今でも、わたしはわからなかった。だから、今ココで、こうしている」
「…………」
「ただ、英雄になりたかったんだ……物語に出てくるような、誰も見捨てない誠実な人間に……お母様にもらった優しさを……忘れたくなかったんだ……」
「……お前は」
「ん?」
「……お前は、僕の英雄だよ」
「……ん」
「……クラスメイトに生ゴミを食わされた時」
「うん」
「……母親は教育を間違えたと泣きわめいて、父親は特訓だと言って俺のことを殴ったよ」
「そうか」
「……アイツらを全員殺したかった」
「うん」
「……でも、お前はアイツらも救うんだろうな」
「ごめん」
「……だから、もう殺そうとは思わないよ」
「…………」
「……お前だけだ、僕を助けてくれたのは」
「…………」
「……壁に躓いた僕を、助けてくれたのはお前だけだ」
「…………」
「……だから、僕が継ぐよ」
「う、ん……」
「……もう、戦わなくていい」
「いいの……わ、わたし……でも……」
「……もう、いいんだ」
「わ、わた、し……英雄に……英雄に、な、なりたくて……」
「……僕がなるよ」
「で、でも……悠里が……や、やだよ……悠里が……」
「僕はもう弱くない」
「ぅ……ぅ……」
「お前が教えてくれたんだ……他でもない英雄が……だから……」
「ぅん……」
「僕が英雄になる」
三週間が経った。
「…………」
「…………」
腐りかけたパンがひとかけら、そして水がコップに半分。
まともな食事も与えられないような状況下で、ふたりの衰弱はどんどん進んでいき、やせ細った少年と少女は虚ろな目で宙を見つめるだけになった。
「…………」
「…………」
こんな状態になっても、ふたりは決して互いを殺そうとはしない。地獄のような飢餓の苦しみを覚えてもなお、絶対に相手を傷つけるような言葉を発しなかった。
「…………」
「…………」
敷居越しに繋がれた手。
骨に皮がへばりついたような手が、そっと重ねられていた。
「……ゅ、ゅり」
「…………」
「……ゅ、ゅぅり」
「……ぁ」
「……る、る、れっとしない、か?」
「……る、れっ、と?」
最初に閉じ込められた時、リーナの懐からこぼれ落ちていた“ルーレット”。
――かわいらしくもじもじしながら『お、教えてくれよ……』って言うなら、三回のルーレットチャンスを与えてやってもいいがね
ふたりの間で、なにかを“賭け”をする時に使われる遊び道具のひとつだった。
――そんな君に、ルーレットチャーンスッ!!
「……ま、まわ、せ」
「……なん、で」
徐々に慣れてきた喉から、声が漏れる。
「……み、みずを賭けよう」
お互いに遠慮し合って、いざという時のために残されていた、コップいっぱい分の水。それが中央に置かれていた。
「……ぃ、いいぞ」
悠里は、恐らく、リーナのいかさまを見抜いている。
魔力封じの紐で縛られていても、微弱な魔力は放出できるだろうから、リーナはあのいかさまを起こすことができるだろう。
ルーレットの底をすくうようにもって、下から魔力を流せば、魔力流入量が高い針を自在に止めることができる。逆に下からもたなければ、リーナもハズレを引く可能性があるということだ。
「…………」
リーナは、すくうように下からもった。いかさまをする気だ。
「…………」
それを見抜いている悠里は、彼女に失望した様子を見せようともせず、微笑を浮かべてルーレットを回す。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり。
針が回って――当たった。
「……ぇ?」
「……ど、どうやら」
リーナは、笑った。
「……きみの勝ちだ」
「……り、りぃな、わざ――」
リーナは、コップ一杯分の水を一気にあおって――潤った喉で叫んだ。
「彼が言ったぞ!! わたしを殺せとっ!! おい聞こえてるんだろ!? わたしを殺せと彼が言ったぞ!!」
「……っ!?」
待っていたと言わんばかりに、外に立っていた見張り番、実に嬉しそうな顔をした騎士が飛び込んでくる。
「ついに言ったか! ハハ、所詮は畜生だな!! 三週間も待たせやがって!!
準備は整ってる!! 薪の上に磔にしろっ!!」
「……っ……っな……ちが……っ!」
両脇を抱えられて、引きずられていくリーナ。悠里の乾ききった喉、急激に大声を張り上げようとして出血し、ものの見事に使い物にならなくなる。
「悠里」
綺麗な笑顔で、リーナはささやく。
「お前といれて、本当に楽しかった」
役立たずの喉を掻きむしったせいで、削げ落ちた肉がこびりついた指先を、必死に必死に必死に伸ばす。
「ばいばい」
扉が閉じられる。
「…………っ!! っ!!」
悠里は地面を掻きむしるようにして這って移動し、僅かに開いている隙間から外へ。懸命に懸命に、少しずつ前進していく。
彼の命を賭した前進、また前進、その間に刻一刻と時間は進む。
辿り着いた時――十字架に磔られた彼女の周りで、民衆が笑いながら炎を待ち望んでいた。
「……めろ……めろぉ……た、たの……たのむ……やめ……やめろ……やめ……お、おねが…やめ……っ!」
伸ばされる手を、彼女だけが見つめていた。
「悠里」
磔にされた十字架の下、薪へと火が灯される。
足下からめらめらと火柱が上がり、ゆっくりと舐めるようにして、彼女の体躯を炎が犯していく。
「悠里、聞け」
――やぁ、少年。はじめまして。目玉ほじくりはいかがかな?
「もう、誰も恨むな」
――君は弱いな
「格好つけろよ、少年」
――君には、箱を開く側の人間でいて欲しい
「泣かないでいい、悠里。泣くなよ。ブサイクだぞ」
――今なら、顔を赤らめてそっぽ向きながら『お、お前に、教わりたいんだよ……』と言えば、ルーレットチャンス五回をプレゼント!
「笑えよ、笑ってろ。ほら、笑って」
――悠里、笑って生きろよ。どんなに辛い時でも、ユーモアを忘れるな
「後は頼んだ、英雄」
いつものはにかみ笑顔。
その笑顔が崩れて、彼女本来の弱々しい笑い顔に変わる。
「ねぇ、悠里……昨日、夢を見たんだよ……普通の女の子になって、キミと一緒の学校に通う夢……」
火の中で震える彼女は、そっと涙を流した。
「こ、こんど……こんど、生まれるときは……」
嗚咽を漏らしながら、彼女はささやいた。
「普通の女の子に……生まれたいな……」
火に包まれる。
すべてが見えなくなって、悠里は呆然とそれを見送る。
――約束だ、悠里。笑って終われよ
少年の喉から――絶叫が迸った。




