被害者Sの悲劇
夏休みが始まる一週間前の日。
長期休暇へのワクワクとなぜこんな暑い日に登校しなければならないのか、という気持ちが混じったクラスルームで私は下敷きを団扇代わりにして仰いでいた。
「いやー、暑いねぇ真帆」
私を真帆と呼んだ彼女は私の前のイスを引き、こちらを向きまたがってえくぼを作り笑った。
「奈緒は全然暑そうに見えないんだけど」
「そりゃあ、夏休み前ですよ。元気にもなりますよ」
ニシシと奈緒は笑う。
夏休み前だからと彼女は言ったが、いつだって彼女は元気だ。冬でも半袖で笑う小学生みたいな性格なのだ。そんな彼女は私の愛しき友人であり、幼馴染だ。
「おはよう、二人とも朝から元気ね」
「おはよー、うっわ、こんなに暑いのに長袖の制服?私だったら耐えられん」
奈緒はおおげさにげっそりする演技をする。先ほどまでの元気のいい奈緒は何処へやら。
「おはよう美奈子、私も今日は流石に暑いと思うわ」
美奈子と呼ばれた彼女は微笑みながら私の隣の席に座る。その微笑みは暑さを微塵も感じさせないものだった。
「私もね、暑いと思ったのだけれど母様が淑女たるものって厳しくって」
「うっわ厳しー! だけどその理論でいったら私、淑女じゃない感じ?」
指を自分自身に向けながら奈緒は私を見る。演技だと分かりつつ、いつものように私がこたえる。
「奈緒はまだ小学生だからね」
「真帆ひどっ、今度アイス買え!」
奈緒に私がツッコミを入れながら美奈子が笑う、これがここ最近のルーチンワークだ。授業が始まる前の私たちの唯一の楽しみになっている。
今では仲良し3人組だが、実はこの席になってから美奈子と仲良くなった。
元々は私と奈緒が二人だけでつるんでいたが、私たちの会話を聞いて美奈子が笑ったのがきっかけだった。美奈子は最初お嬢様気質で近寄りがたい雰囲気であったが、とても聞き上手でいつの間にか美奈子を笑わせようと奈緒と二人で漫才のような会話をするようになった。
「そうだ、二人とも夏休みの最初の一週間の予定ってあるかしら?」
「私はないけど、真帆はー?」
「私も特にないけど、奈緒あんた部活あるでしょ。」
「最初の一週間は美奈子に誘われる予定が今できたんだよーへっへー」
奈緒はソフトボール部員だ。
私は帰宅部だが、ソフトボール部は夏休みに練習があるに決まっている。それこそ地獄のような。それを愛しき我が友人の奈緒は堂々とサボる発言ときた。呆れと心配とで、部活内の立場がどうなっても知らないぞ、という視線を奈緒に送ってやった。
「それでどうしたの、美奈子。私たちを何に誘ってくれるの?」
私は奈緒にため息を吐いて視線を美奈子に移した。
「ふふ、二人のやり取りが長いから忘れられてしまったのかと思ったわ」
美奈子はニコリと微笑んで言葉を続けた。
「私、夏休みの初めに祖母と祖父の家に行くの。少し田舎の村なんだけれど有名なお祭りがあって二人も一緒にどうかと思ったのだけれど、来てくれるかしら?」
「はーい、行きまーす!私は暇なのでー」
「私も本当に暇だから是非行かせてもらうよ。誰かさんと違ってね」
美奈子は手を合わせてまるでお嬢様のように、「そう、よかった」と微笑んだ。こうして私たちは美奈子の祖父、祖母がいる漁村へ遊びに行くことになった。
ただ夏休みに友人の実家に遊びに行く、よくある学生の出来事だった、そのはずだった。
これを油断と呼ぶには理不尽すぎた。誰が想像できるだろうか、この理不尽を。不測事態なんて生易しいものではない。少なくとも私と奈緒にとったら。
そう、それは村での祭りの後に起こった。
「どういうこと美奈子ッ!!!」
パニックになった奈緒が叫ぶ。それは耳をつんざく悲鳴に似た叫びだった。
しかしこの場に美奈子の姿はない。美奈子だけではない。屋台のおじさん、祭りを楽しんでいた村の人たち、それら全ての人が消えたのだ。
その代わり、この祭りが終わった直後の暗闇には別の影がある。その影は生臭く、ピチャ、ピチャと音を立てて近寄ってくる。逃げなければ、と直感がそう言っていた。当てはないが、ここから一刻も早く離れたい。だから私は奈緒に声をかけた。
「奈緒!! 走って!! 奈緒!!」
奈緒はガクガクと震え、動かない。思うように足が動かないのだろう。
それはきっと影の正体を見てしまったから。そう思えるほど私は影は見てはいけない、何がだと思った。
「しっかりして!! 奈緒!!」
奈緒の右腕を掴み、呼びかける。最悪、奈緒の手を引いて走ろうと考えていた。
すると奈緒は怯えた顔で私の顔を見た。
「…真帆…私を置いて…逃げて…」
その時の奈緒の顔は青ざめて、涙を流し、硬直し、絶望し、目を見開いていた。涙と汗はごっちゃになって泣き叫びたくても叫べない。そんな恐怖が伝わってきたのだ。
そして、その理由はすぐにわかった。暗闇から一本の腕が奈緒の右腕を掴んでいたのだ。
そしてその腕は異質だった。
鱗が付いていた。
水掻きが付いていた。
ヌメヌメとした液体が付着していた。
人間の腕ではなかった。
おそるおそる、影を見た。そこには目が開ききった魚人のような顔した化け物が居た。見てしまった。見えてしまった。私は私の中で何かが少し、壊れた気がした。頭が真っ白になって全てがおかしくなって、バリバリと何かが無くなった。
気づけば私は走っていた。そこは森の中で近くに奈緒の姿はなかった。木の合間からは光が見えていた。それをきっとずっと追い続けて走っていた。
私、≪佐々倉真帆≫が町の警察署に着いたのはそれから2時間後のことであった。