いぬのふぐり姫【改訂版】
冬空は怒る。
波は荒れる。
船は揺れる。
私の足元はグラグラと覚束ない。
淡い銀がちりばめられた水色のピンヒールでバランスを取るが、雨に濡れた体も左右に揺れていました。
裾を重ねた水色の細身のドレスは、強風にまくり上げられて、枯れ木のような私のふくらはぎをはしたなく見せています。
部屋から出る時にかぶっていた絹のショール。
絢爛石を縫い込んだそれも風に引かれて、灰色の海に飲み込まれていきました。
全て彼が妾に買ってくれたもの。
もうどうなろうと知ったことではありません。
今の私には、かじかんだ手の中の存在だけが全てです。
鋭く光るナイフ。
これだけ。
『レティシア。貴女と我らの名誉を汚したものを許してはならないわ。やつらを我らの剣にて殺すのよ。そうして逮捕されなさい。我が家が全力を持って無罪にしてみせましょう。……失敗したらですって? やつらにさらなる屈辱を与えられる前に、自らを断ち切りなさい。あなたはSneedronningenに連なる高貴なるヴェロニカ家の一員なのです』
実家を統括する伯母が、真剣な顔で渡してくれたナイフは、冷たい光を放っています。
ナイフの名はヴェロニカ。
先祖から伝わる由緒あるもの。
ヴェロニカ・ペルシカという青い小花を象嵌と青玉であしらった白い柄が特徴的です。
家名ヴェロニカの由来でもあります。
白い息を飲み込んで船室を開けました。
視界に入るのは豪奢な調度品に囲まれたベッド。
幾重にもレースが重ねられた羽毛の布団の中では、金髪の男女が眠っています。
かつての幼馴染のカイルとデリア。
今は……私を妾にした旦那様と、その本妻です。
五年前。
彫刻が並べられた、ツタの生い茂る白亜の壁。
バラが咲き誇る屋敷の東屋で、私は彼のために用意した白磁のカップを前に告白しました。
『私はカイルが好きです』
『僕もだよ。僕を信じてくれるレティーが傍にいれば、どんなことでも頑張れる』
私は幼いころから旦那様――――カイルを好きでした。
昔からその思いを隠そうとも思わなかったし、彼も照れくさそうに受け入れて、恋人として長く付き合っていました。
やがてカイルは軍人として政府に出仕をします。世界各地をあらゆる手で征服し、領土を広げている昨今。軍人こそが出征の花道なのです。
彼を支えることは、私の喜びでした。
軍内の待遇が思うようにいかず、愚痴る彼に頷きながら、白磁のティーカップに自ら紅茶を入れて差し上げる日々は、穏やかなものでした。
そして、素直じゃないけれど優しい親友のデリア。
彼女は、憎まれ口と笑顔で「頑張りなさいよ。レティーはすぐカイルに騙されるのだから」と応援してくれていたはず……でした。
―――なのに。
何を間違ったのでしょうか。
気が付いたら、ある日カイルは「デリアと結婚する」と言い出しました。
でも私とは別れたくないと言って、突然押し倒し―――――。
『デリアは不器用だから僕くらいしか幸せにできない。でも僕も君がいてくれないと不安で仕方がない。レティーは僕のことを何があっても愛してくれるって言ったじゃないか。だから、見捨てないでほしい』
そして乙女ではなくなり――――世間で言うところの傷物になりました。
貴族の結婚の基準が大変厳しい私は、もうまともなところには嫁げません。
頭が真っ白なまま「愛していると」流されて、いつの間にか私は妾に、デリアは本妻という形になっていたのです。
この事態に、どこよりも気位の高い実家は激怒しました。
だが彼の家それなりに政府に力があったために、向こうの親筋に当たる軍閥のお偉方が仲裁に入り、いまだに揉めて収まる様子がありません。
一方で、私の心は弱かった。
とんでもない裏切りにあったはずなのに、怒っていいはずなのに、まだ私は彼が好きだったのです。
(彼の愛情は嘘ではない。ただ、私が知っているものとは形が違っただけ)
そう心の中で唱え続けました。
そして親友のデリアを信じたかったのです。
「ごめんねごめんね」と言いながら、決して彼の腕を離さない彼女。
(私のことはまだ好きだと思っているから、苦しんでいる。彼女も苦しんでいる)
そう信じようとしました。
……だけど。
(……まさか気弱の私が睡眠薬を仕込むとは思わなかったでしょうね)
軍人なのに、まったく目を覚まさないカイルの繊細な美貌を眺めて、複雑な気持ちになります。
私はそっと濡れた薄い自分の腹を触りました。
――――うん。
今なら殺せるはず。
ようやく嫌いになれたのだから。
この二人を殺して、頭で荒れ狂う苦しさと悲しみを昇華させなければ。
私はナイフを振り上げ――――動けません。
手が震える。
背中に緊張が走り、柄が汗で滑り始める。
そして胸のあたりを見つめていた焦点がぶれ始めました。
「はあ、はあ、はあ」
怖い。
人を殺すのが怖い。
―――――ただ憎いだけで人が勝手に死んでくれたら、どんなに楽でしょう。
刺している途中に彼らが目を覚ましたら?
私を恨むでしょうか。
怖い。
どんなに憎らしくとも、殺意があふれそうでも。人に嫌われるのが怖い。
万が一うまく殺せても、カイルとデリアのご両親に恨まれるでしょう。
世間が私を殺人鬼と呼ぶでしょう。
人の目が、噂話が、不安になる自分の心が、怖い。
憎い。でも怖い。
塗りつぶされた憎悪の隙間に、一瞬だけ彼らの笑顔が点滅します。
嫌われるのが、怖い――――。
私はほつれて目に入りかけた金髪を、ナイフから離した指掬おうとして―――――失敗しました。
ナイフが滑って、毛足の長い緋毛氈の絨毯に落ちます。
慌てて拾おうとしゃがんだ時。
デリアが寝言を言いました。
「むにゃ……私の赤ちゃん。早く大きくなってね」
――――――――。
気が付くと船室を飛び出して――――灰色の海に身を投げていました。
最後の記憶は灰と黒。
全身の体温は急激に下がり、体中に冷たい水が侵入するのを感じます。
水面の下からは、世界が歪んで見えました。
灰色に荒れ狂う空。
豪奢な金の装飾がなされた黒船が、大海を心もとなく揺蕩っているのです。
◇◇◇◇
額にふわふわとした何かが乗りました。
―――――温かい。
同時に、明るい陽の光を感じていた瞼に影が掛かります。
重い腕をようやく持ち上げて、額の何かを触ると―――――丸い毛玉が二つ?
ふわふわの毛。
ころころした形。
そしてふんわりと温かい。
思わずぎゅっと握ると「きゃん!」と頭上で悲鳴がしました。
上半身にふわふわのしっぽがぶつかる。
――――しっぽ!?
一気に目が覚めます。
『何なのです!?』
「きゃんきゃん!」
砂地を起き上がると、そこにはとても大きな白い犬が固まっています。
狼よりも毛足が長めで、顔が毛で覆われて目がよく見えない。
必死な顔をして後ろを振り向いている犬。
口元は緩く開いて舌を出し、とても可愛らしいけれども。
私が掴んでいるのは―――――そのまん丸いな犬のキ、キン、キンタ―――――言えない!
慌てて手を離します。
そこに低音の、聞きなれない男の声がしました。
「おいおい。なんちゅー女だ。そんなに太郎の金玉が好きか」
膝をついたまま男を見上げます。
真っ先に目に入ったのは細い赤い前掛け。一フィートより少し長いでしょうか。
それがひらひらと風に揺られて――――前掛けではありません。
下着です。
(この人、下着以外何もつけてない!)
全身が日に焼けて、筋肉で引き締まった、ほぼ裸の大男が腕を組んで仁王立ちをしています。
精悍な顔に黒いザンバラ髪。黒い目が鋭く私を見据えます。
タローと呼ばれた犬が、「くーん」と鳴いて彼にすり寄りました。
彼の飼い犬でしょうか。
『誰!?』
「その言葉……お前は異人か。まあ、その白い髪と青い目と妙な服を見ればまるわかりだけどな」
『?』
タローが彼に「わん、わん!」と吠えています。
「うーん。恐ろしくもタマを握りつぶされかけたタローが、お前を気になっているようだし。とりあえず村に来い。名前は――――って、その胸元のナイフの柄の装飾は〈オオイヌノフグリ〉!? まじか。お前本当に金玉好きなんだな。じゃあとりあえず〈ふぐり〉でいいか」
おい。ふぐり、行くぞ。
足がふらついて動けない私を、タローが背に乗せてくれました。
ふわふわの白い長毛が、陽を含んで温かい。
思わずぎゅっとしがみつきました。
祖国の灰を含んだ空とは違う、透き通った青空。
遠く見える、漁村らしき茶色の家々。
赤いひもの食い込んだ男の引き締まった尻……。
(うわあ……)
見たくないので、ふわふわの背中の毛に顔を埋め、私は漂着した海岸を去りました。
◇◇◇◇
それからの私の生活は、肌色とキン―――に包まれました。
いいえ、言い換えます。
タマタマで許してください。
木と土、草で編まれた小屋に暮らしている人々。生業は漁業が中心だが、小山の斜面で作物も育てています。
黒髪黒瞳。薄い黄色の肌をこんがりと焼いた、とてもおおらかな人たちでした。
異形である私を「ユキンコ」と指さしていきます。
どうやら「ユキンコ」とは、この村とは古くから交流する、「モノノケ」という人種に属する、穏やかな一部族のようです。
気候は祖国よりもずっと温暖。
だがまだ外は肌寒く。
男はフンドシ(先ほどの下着です)に一枚だけを服をひっかけ、女性はフンドシの代わりに薄い布を腰に巻き(コシマキというらしいです)、やはり一枚の服を羽織って腰紐で縛っています。
そのせいで、女性たちは荷物を抱える時に胸元や太ももが見えてしまっています。
縁側で胸をはだけて、子供に乳を与える母親。
港では上半身裸で作業する女性もいます。
ここは裸族が多くいらっしゃる国のようです。
たまにサムライという貴族が、そり上げた頭にチョンマゲという珍妙な物体を頭にのせて歩いています。なんてクレイジーな恰好でしょう。
彼が村の広場らしいところに私を連れてきました。
そこには他の人よりも地位の高そうな女性たちがいて、温かく迎えてくださいます。
人より羽織を一枚多く着た女性が前にでます。
強気な表情で、私の手を取ってくださいました。がっしりとした手です。
「おやおや、かわいい子だね! みんな、自宅警備侍の一心が嫁を連れてきたよ!」
「無職の一心にユキンコの嫁かい! 大人の姿は初めて見たよ! よく山神たちが許したね! どこの女衒から買ってきたんだい!」
「馬鹿だねえ。一心にそんな金があるわけないだろう? 太郎が連れてきてくれたのだろうさ。いつまで独り身の男を気の毒に思ってさ」
「名前はなんと、ふぐりちゃんかい!? ……子宝に恵まれそうな名前だね」
「でもだいぶ細いねえ。うちの干し芋食ってきな!」
「なんだいその布は。股が蒸れちまうよ!」
がっはっは。
怒涛のしゃべりを発揮した女性陣に小屋に連れていかれると、その場で服をみんな脱がせられ、キモノという服を羽織らせられました。
黄色く明るい格子の柄。草で編まれた草鞋もくださいます。
そしてズロースを奪われました。
女の大切なところを守る下着が!
スースーする股が心もとありません。
小屋から出た私を、フンドシ男は上から下まで眺めてうんうんと頷きます。
「おお、ふぐり。似合うじゃないか! 」
「この子はあんたの嫁なんだろ?」
「いいや? 拾っただけだ。でもまあ周りも面倒くさいしな。それでいいや」
「一心、どこに行くんだい!」
「海岸線を警備かなあ」
「どうせ釣りだろ!」
「はっはっは。ちゃんと村長に許可はもらってるよ。ふぐりは俺ん家にでも住まわせといて」
彼は私に「家の中勝手につかっていいぜ。汚いけどな」と何かを言って、フンドシ男は歩いて行きました。
リーダーの女性が叫びます。
「一枚くらい着な! 万年ふんどし野郎!」
「いやだよ弥ン子。面倒くさい」
『あの!』
「気にするな。ついでに部屋を掃除してくれてもいいぜ」
「この子は体力が落ちているんだ。だから、うちで寝かせるよ!」
「ああ、そうか。じゃあよろしく」
私は呆然と見送りました。
すると、彼にタローと呼ばれていた白い大犬がふらふらとやってきて、ぴとりとタマタマを私の腕につけてきます。
『ちょっ』
「わふう」
「ああ、きっとあんたの体が冷たくて気持ちがいいんだろうね」
『タマタマ押し付けないでください!』
「山神は荒ぶる心を雪ん子に冷やしてもらうもんだ。最近は国も海も物騒だからずっと荒ぶっていてね。金玉冷やしてもらって嬉しそうだ」
『いやー!』
押し付けるならふわふわの毛皮がいい!
なぜ私にそれを押し付けるの!?
慌てて押し返すと、めげずにタローは今度は背中にタマタマを押し付けてきます。
周りの肌色率の高い村人たちは、その様子を笑っています。
これは異常事態なんですよ!? それともここでは普通ですか!?
「いやあ、これで山神たちも穏やかに暮らせるよ。最近海を見ては荒ぶっていたからね」
「遠吠えもうるさかったしなあ」
何なのです。
この和やかな雰囲気はなんなのですー!?
―――――恐ろしいことに。
タローを始めとする、ヤマガミという種の犬たちは、私にタマタマを押し付けるのを止めませんでした。
それどころか。
ヤマガミの仲間は日々増えていって、隙あらばタマタマを押し付けに来るようになったのです。
◇◇◇◇
優しいお姉さんたちは、女社会の中に入れてくれました。
言葉はなかなか通じなくとも、手取り足取りで仕事を教えてくれます。
漁から帰ってきた男たちから魚を受け取り、捌いて加工をし、商人たちと売る交渉をするのが主な仕事です。
この村特産のオオワンコウオ。七フィートはある巨大な魚です。
初めてぴちぴち跳ねる魚を見た私は、怖がりました。
そこに、一発。
ホウチョウ(ナイフの一種だ)でエラシタに止めを刺したヤンコ姉さんの、ふっと笑う顔が素敵すぎて忘れられません。
(私もこんな風に仕事ができるようになりたい)
少しずつできるようになる作業が、とても楽しいです。
村にはテラコヤという民間の学校もあり、知識人の先生やボウズと呼ばれる宗教者たちが私に言葉を教えてくれました。
どうやら私は物覚えが大変良いらしいです。
誰にもそんなことを言われていないと申すと、先生は少し気の毒そうな顔をして、「家によっては子女が賢くなっては困ることがあるからね」とおっしゃいました。
『レティーはほんわかとしていることがいいんだ。だから本を読むよりも、僕のそばでお茶を入れてよ』
脳裏によみがえる、大切な人だった方の声。
私は頭を振って、スミをつけたフデを持ち直しました。
――――え? イッシンさん?
漁にも参加せず、男たちとショーギさして酒飲んでいましたよ。
毎日仕事しなくてふらふらうろついて、フンドシなのも変わりません。
彼の仕事は「国の防衛」らしいのですが、やっていることは風来坊です。
なのに、なぜか村人は仕方ないなあと彼を受け入れています。
よく分からない方です。
フンドシの彼が帰ってくると、私はご飯を用意します。
木の床にアグラをかく彼に、私はお姉さんたちに教わったダイコンのカテメシを炊いて、大きなドンブリに入れてお渡ししました。
「イッシンさん、はい」
「おお、ふぐり。ありがとな」
漬物の壺を開けて、どっさりとカテメシにのせて「うんめえ。米が少し硬いけど、まあうんめえや」と食べ始めます。
その横で、焼いたばかりの少し焦げたメザシを差し出しました。
これも喜んでボリボリと食べてくれます。
彼は全然稼いでいません。
私が村の仕事を手伝って分けてもらった食料を、腹いっぱい食べてはいびきをかいて寝て、また次の日にふらりと出かけていきます。
「またメシ頼むわ」と言いおいて。
でもそれくらいです。
彼は一切、私に手を出しません。
胸元に入れたままのヴェロニカのナイフにも目くじらを立てず、「差し出せ」とは言いません。
代わりに、彼は毎日「ありがとう」と言ってくれます。
当たり前の言葉。
だけど久しく聞いていない言葉に、私の胸が温かくなるのを感じます
――――ぴとり。
ほんわかしていた私の背中も、温かくなりました。
って!
「タロー!!!」
「おいおい、タロー。飯時に金玉押し付けるのはやめようぜ。外海が荒れていたのは分かるがよ」
タローは家の中に入り込んでは、隙を見て私にタマタマをくっつけるのを止めません。
彼以外にジローやサブローという犬たちもいます。
ですが、とりあえずリーダーがタローらしく、夜中に額にタマタマを乗せてくるのは彼だけです。
良かった……いえ、全然よくありません!
ふわふわしたものは好きですが、これは全く別問題です!
◇◇◇◇
「せんせい、いつも、ありがとう。これ、ヤンコねえさんから」
「おや。ふぐりちゃん、助かるよ。だいぶふっくらとしてきたね。それに可愛い髪型だ」
「おそわった。かんざし、も。ヤンコねえさん、からの、もらいもの」
「一心からももらえばいいのに」
「おいてくれる。ごはんたべてくれる。それだけで、うれしい」
「まったく、欲がないねえ」
「ううん。わたし、よくばりで、しあわせだと、おもう」
日差しの良く届くエンガワ。
先生のご自宅にご訪問した私を、オヤマダ先生は男臭い笑顔で受け取ってくれました。
白い髪を頭でくるりと丸めて、木の簪で止めた私。
フロシキに包んで差し出した包みを広げた先生が、「やった饅頭だ」と、おっしゃいます。
先生はお茶を入れると言って、一つマンジュウを私に分けてくれました。
「ありがとうございます」
「今日は、一心は?」
「ぼうえい、のために、さんぽ、するそうです」
マンジュウはおいしいです。
パンと少し違って小麦粉を膨らませて焼くのではなく、蒸して甘いアンコを入れるのです。
甘いものはそれなりに高いですが、この村では食べられないものではありません。
この村は想像以上に豊かでした。
遠くに住む、アベというトノサマ(領主?)が、とても良い施政をしているらしいです。
サムライという、チョンマゲの人たちは本当に貴族のような地位です。国を守り、オカミを上に置いて秩序を守ります。
ですがみな質素で腰も低く――――不思議な気持ちになります。
貴族とは、少しでも格下に足元を見られないように、必死に取り繕うものなのに。
―――――祖国のように。
はぐはぐと、マンジュウをほおばる私。
横で、先生が緑茶を入れながらため息をつかれました。
「またさぼりか……まったくあいつもいつになったら士官するんだ。殿はずっと待っているというのに」
「トノ?」
「一心の前の上司さ。いちおうあいつは蟄居ということにはなっているが、もう疑いは晴れているんだ。まだふぐりちゃんにこの言葉は難しいだろうけど……ところで」
「はい」
「ふぐりちゃんは異人に間違いはないんだけどさ……本当は雪ん子の血が入っているんじゃないの? ほら」
――――ぴとり。
私のふくらはぎに、六つの毛玉が押し付けられました。
またですか!
立ち上がって足で振り払います。
「タロー、ジロー、サブロー、め!」
「「「くーん」」」
私に追い払われた白い大犬たちが、ふわふわの毛皮を小さく丸めて悲しそうな声を出します。
きっと睨むと、ボケの木の横まで後退して座り、切なそうな瞳(毛でよく見えませんが)で見つめてきます。まん丸い巨大な毛玉が三匹です。
(押し付けるなら、下手な絨毯よりもふかふかそうなその毛皮にしてください!)
「タマタマきんし! おんなにおしつける、だめ!」
「あれだねえ。やっぱり雪ん子と同じだ」
「ユキンコ、みんないう。うれしそう。いったい、なに、ですか」
「それを説明するには、この国の状況を説明しないとね」
ユキンコとは、もともと普通の人とは少し違う存在だそうです。
住む場所は主に雪山。
冷気を体から発し、雪を降らせることも可能。
ほとんどが女性の姿で、血気盛んで闘争心の強い山神たちをなだめることができたそうです。
「山神は熱くなると狂暴になるから、金玉を冷やさないとだめなんだ。特に雪ん子の冷気がちょうどよくてね。あ、金玉のくだりは他の普通の犬でも同じだから」
「はあ」
「でもねえ。雪ん子は、もうほとんどいないんだよ」
理由はその容姿。
白皙の美貌。白い髪。白い瞳。雪に溶け込むような白い装束の彼らは、雪を降らせる以外には、力のない存在だった。
ヤマガミら、他のモノノケの力を借りて身を守ってきたとか。
原因はこの国の政府。
モノノケを人とも思わぬトップ――――ショウグンが、来襲した数隻の黒船に対して、脅しに屈し、彼女たちを奴隷として捕まえて献上してしまったとか。
全国に渡るユキンコ狩りにより、彼女は消えてしまいました。
私は震えました。
手に持ったマンジュウの欠片が、膝に落ちます。
「くろはわたしの、くにの、ふね――――」
「そうだね。君の国だ」
「せんせい、わたし」
「知っているよ。服に書かれた文字や君の言葉。本来なら幕府に引き渡してもいいんだ。ちょうどいい取引材料になる」
先生はじっと私を見つめます。
男臭い顔立ちに、深く黒い瞳。
その目の奥は猜疑の光がまたたいています。
そして深く目をつぶり―――――教えてくださいました。
「一心がな。俺を信じなくともいいから山神を信じろという。それに一心が背中を預けたのは君だけだ。私も――――ここでの君の努力には嘘がないと知っている。だから信じる」
◇◇◇◇
私は海岸に来ていました。
三か月前に漂着した場所。
だいぶ日が高くなり、その辺に生える草が青々と茂り、季節は夏が近づいてきたことを教えてくれます。
草鞋にも慣れました。
ざくざくと歩いていると、後ろからポテポテとタローが付いてきます。
気配が近くなると、後ろを振り向いて睨みます。すると、また毛玉の距離が離れていきます。
ふと、目の端の草地に見慣れた花が移ります。
歩いていくとそれはヴェロニカ・ペルシカ。
四つの花弁を付けた青い小さな花が、密集して咲き誇っています。
黒船が運ぶ荷物にくっついていた種は、あっという間にこの国で繁殖をしたそうです。
ただ、この国での名前は「オオイヌノフグリ」。
犬のタマタマのことです。
もともと近縁種に「イヌノフグリ」という花があり、それに似ていたことからその名が付きました。
私のここで名づけられた名前「ふぐり」もここからと言われ―――――知った当時はさすがにイッシンさんに泣いて抗議をしました。
ですが、「いいじゃないか。犬の金玉はじっさい可愛いぜ? タローたちのソイツはまん丸でふわふわだ。はっはっは」と取り付く島もありません。
本当にイッシンさんはデリカシーがなく、服すらフンドシだけで、仕事もせず、品もありません。
ですが―――――彼は感謝を知っています。
それだけで、怒りはしゅるしゅると収まってしまうのです。
「わん!」
突然、タローが私を追い越して掛けていきました。
わふわふと向かった先は――――釣りをするイッシンさん。
岬の先で、ぼんやりと座って釣り糸を垂れています。
「イッシンさん」
「ああ、ふぐりか。今日は全然釣れないよ」
「……いつも、つり、だけ?」
「いいや? 海を見てるいよ?」
「……シュッシ、しないの?」
「出仕? ああ、小山田がまた何か言ったの? 気にしなくていいよ、あいつは昔から心配性なんだ」
私は彼の横に座りました。
座り方は気を付けないと、見えてしまうから難しいのです。
ナニが? という質問は無粋ですよ。
タローは私の隣に――――行こうとして睨まれたので、イッシンさんの隣にお座りします。
彼の見ている先は青い海。
私も一緒に眺めます。
そのはるか彼方には――――私の国があるはずなのです。
「わたし、くろふねと、おなじ」
「ああ、知ってるよ」
「ユキンコさんたちを」
「知ってる。それは今、阿部様が動いている。俺ができることは海を見ることだけだ」
「わたし、やくにたたない」
「役に立つことを期待して拾ったわけじゃない。それこそ俺は役に立たないだろう?」
「ううん。イッシン、ありがとういってくれる」
「……おまえさ、騙されやすいって言われないか」
「なぜ、それしってる」
「……」
彼はしばら黙っていましたが、やがて私の肩を叩いてくれました。
なんとなくイラっとしましたが、それよりもその次の言葉に衝撃を受けました。
「子供はどうする」
「……なぜ、それを」
「弥ん子が教えてくれた。お前は身重で、もう腹が隠せないってな。お前、旦那がいたのか?」
「だんな、なんかじゃない」
私はうつむきました。
そしてそっと、腹を触ります。
――――カイルに手籠めにされた時。
私は初めて妊娠をしました。
だけど、やがて大きくなる腹を見たデリラの心が病んでいき、カイルのいない間に私を階段から突き落としました。
結果は流産。
カイルは衝撃を受けたようでしたが、「デリラの心の傷を癒さなければ」と私への慰めはほどほどに部屋に捨て置かれました。
そして一年経って、デリラが待望の妊娠すると、微笑んで言ったのです。
「これでレティーと子供が作れるね。最初のは失敗しちゃったから」と。
嬉しそうに手首をつかまれると―――――この世と思えないほどの悪寒が走りました。
心の底からの拒絶をしながらも、彼は遂行しました。
私の心を、さんざん踏みにじって。
――――そして。
光るヴェロニカが私に渡されたのです。
(まさか、本当に、あのひどい行為で子供ができるなんて―――――)
私は途方にくれました。
横に座る彼に、なんて言えばいいのか分かりません。
もう、これ以上世話になるわけにはいかない。
そう思った時でした。
「じゃあ、ちゃんと婚姻しようか。ふぐりの子ならきっと可愛いだろう」
「え……」
「万が一俺が死んだ後でも、家と土地くらいは残してやれる」
思わず彼を見ると、海を見つめたまま動きません。
そしてぽつり、ぽつりと。
本当の仕事のことを教えてくれたのです。
◇◇◇◇
二年後。
赤座藩の海岸付近に、黒船が数十隻現れた。
今度の意図は強請りではなく、れっきとした幕府への政権受け渡しの依頼。
国をよこせと。
よほど雪ん子が気に入ったのだろう。モノノケなどの資源は貴重だから保護すると上から目線でものを言っている。砲台を城に向けながら。
赤座藩当主・阿部新條の求めに応じ、斉藤一心は再出仕をした。
海岸に張られた本陣に現れた斉藤。
山神に好かれる褌姿ではなく、甲冑で。
斉藤の横には、なぜか妻であるふぐりが、付き添っている。
彼女は美しい白い髪を首元でまとめ、黄と白を基調とした華やかな小袖を着込み、かしこまって座っていた。珍しい青の瞳。黒船の人種の多くが持つ色だ。
そして後ろに並ぶは「太郎」と呼ばれる物の怪の個体。
山神の代表として彼も参加していた。
「新條様。お久しぶりでございます」
「その方らがとうとう準備ができたと申し出を受けた。それはどこだ」
「外をご覧ください」
新條が本陣の上座から立ち上がり、天幕を上げる。
そこには―――――。
「おお!」
「全国の山神を結集させました。妻の協力により、彼らは荒れ狂う心を安定させ、山神軍としてこの緊急時に収集されることを了解したのです」
ずらりと並ぶ巨大な犬たち。
太郎のような白い丸い犬から、黒、キジトラ、茶色まで。様々な形をした犬たちが勢ぞろいし、きちんとお座りをして侍っていた。
「雪ん子は救出されたが、まだ戻っておらぬと聞く。これだけの山神をどうして――――」
「妻が、すべてやってくれました。ふぐり」
「はい」
ふぐりと呼ばれた青目の細君は、立ち上がると一番巨大で、櫓よりも大きな茶色の犬に向かっていった。
そして、なんと。
ぐわしと犬の金玉を掴んだのだ。
◇◇◇◇
私は両手に余るほどのタマタマを、軽く手に取りました。
ふわふわの茶色の毛で覆われて、とても柔らか。
そしてまんまるい毛玉はとても繊細で―――――。
(この中に殿方のとても大切なものが入っているとはとても思えませんね)
私の心は決まっています。
自然に目が座っていくのも分かります。
そして、故意にタマタマに力を入れさせていただきました。
「きゃん!」
「きゃん!」
「ぎゃー!」
茶色のコタローの体が悲鳴を上げて震えます。
なぜか、見ているだけのタローの体が震えます。
そして、傍で立っていただけの侍が震えます。
「コタロー様。あなたがこの戦いの要なのです。どうかこの国の――――イッシン様のために戦ってくださいませ。ここで黒船を全て沈めて国を守り、雪ん子を確実に取り戻すために」
「くーん」
そんなことより手を離して。
そう切なそうに見つめてくるコタロー。
なぜか哀しそうな瞳で、私たちを見つめてくる周囲の山神たち。
私は誰よりも優しく微笑み「さもなくば」と言いました。
「どうか私を信じてください……そうしなければ、握りつぶしちゃいますよ……?」
私は、急激に縮こまるタマタマを優しくなで、ひらりとコタローの背中に乗りました。
横にはタローに乗った一心様。
周りのしっぽを丸めた犬神たちを眺めては、苦笑をしています。
彼の仕事は本当に国の防衛でした。
ふらりといなくなったのは、国の最高戦力である山神たちを完全に掌握するため。
協力者であった雪ん子がいない中、唯一山神と言葉を交わせる人間として、一人藩の中で奮闘していたのです。
「では行くか」
「はい!」
黒船に次々と襲い掛かる山神たち。
彼らの毛皮に火器は効きません。
『なんだ、この怪物どもは!』
『ひいっ』
大混乱の末一隻一隻と沈ませていく中。
私は見知った姿を見つけてしまいました。
『レティシア!?』
『私はふぐりよ!』
彼の名前?
―――――知りませんね。
私は一心の妻であり、彼は敵です。
子供は一心の子としてすくすくと育っています。
そして驚愕に歪む軍服の男に向かって、まっすぐにヴェロニカを――――ふぐり丸と改めた小刀を、彼の股間に振ったのです。
――――急所は全て外させていただきました。
ただ指が開かず、歩けず、しゃべれないだけです。
生きて帰れるかも、しれませんね。
ただ、子供は作れないようにさせていただきました。
もう、彼の行く末に興味はありません。
◇◇◇◇
やがて、犬神軍が海を渡ると――――祖国は滅ぶ直前でした。
いいえ。訂正します。
祖国の名は氷に埋め尽くされ、ヴェロニカという名の国になるところでした。
氷に閉ざされた王城。
立憲君主制の象徴たるとなりの政府庁舎も完全に氷の山になっていました。
『これは……』
『レティシア。とうとう立ち上がりましたね』
『伯母様』
悠然と氷の山の前で経っていた伯母様は、歳を全く感じさせない美貌で私を迎えてくださいました。
白い長い髪を後ろに流し、薄いドレスがまた幾重にも重なって、優美に揺れます。
「「一心様ー!」」
わらわらと彼女の後ろから現れる、たくさんの白い髪の子供たち。
さすがにフンドシの上にコートを羽織ったイッシン様のもとに集まります。
伯母さまはふふふ、と薄い唇と三日月のように歪めました。
『この子たちはSneedronningenに近しい子たち。東西はあれど、ヴェロニカに近いものに危害を加えるものは死んでもらいます。そもそも幼い子供を攫う大人は皆殺しですけどもね』
『まさか、伯母様』
『カ……なんとかというクソ男の実家とデ……なんとかいうクソ女の実家はきれいに更地になっていますよ。あなたが穏便にというから裁判をしてきましたが、死に追いやったとなれば別です』
そして、小袖の上から甲冑を着込んだ私を、優しく見つめておっしゃいました。
『成長しましたね。貴女は怖がりで人の目ばかりを気にしていました。その蛮族の立ち姿。ヴェロニカ家の子女としてとても似合っていますよ』
『伯母様』
『それにいい男を捕まえたようではありませんか。女としても誇らしいわ』
ユキンコにもみくちゃにされる旦那様。
みんな笑顔で嬉しそうです。
そして伯母様が後ろにいるヴェロニカ家の女たちに指示をして、氷柱を引きずり出してきました。
その中にいたのは―――――デリア!
恐怖で顔をゆがめて四角い氷柱の中に固まっています。
『さあ、レティシア。このあばずれを貴女ならどうします?』
『伯母様。わたしはもうレティシアではありません。ふぐりで結構です』
『フグリ? 変わったお名前ね』
『かの国ではヴェロニカ・ペルシカに近しい名前です。そして彼女の子供は――――生まれたのでは?』
『ええ。もちろんよ。夫以外の子種で生まれた可愛い子がね』
『え……』
ほほほほ。
軽やかに残酷に笑う伯母様は説明します。
――――後日。この命名の意味を知った伯母様が、一心様を殺しに海を渡ってきたことはいい思い出です。
ヴェロニカ家は、大切な娘を望まぬ妾にした男女を決して許しませんでした。
思い知れ。
そして用意したのは、息のかかったヴェロニカの美青年たち。
彼らはデリアに誘惑を繰り返し、彼女を奪い合う構図にします。
モテると勘違いしたデリアはやがて、その中でも飛び切りの美青年に流されて――――。
そうして生まれた子供は、白くて毛むくじゃらの子狼。
『ヴェロニカはSneedronningenの系譜。男はまれに雪狼の姿を持つの』
カイルはただちにデリアを拒絶。
発狂したデリアは赤子を捨てるが、すでに自身が捨てられた後だった。
『人を簡単に捨てられる人間は、やがてあっさりと自身が捨てられるのよ。それ相応の報いを受けたまま』
赤子は、伯母様とヴェロニカの美青年に大切に育てられているといいます。
だが、赤子を突き放したデリアは浮気がばれ、実家に恥をかかせたとして放逐されました。
その間に実家も伯母様たちに潰されたというわけです。
『貴女ならどうするの? クソ男にはヴェロニカのナイフで止めを刺したのでしょう』
『私は……』
私はずっと怖かった。
人に嫌われるのが。
だけど。どんなに馬鹿にされても、軽蔑されても、大切なものを失ってはならないのだと今は知っています。
私は氷柱に手をやって、溶かしました。
目覚めたデリア。
彼女は私を見て顔をゆがめ、ののしります。
『レティシア!? 何よ、私を見下しに来たの!?』
『いいえ。貴女を哀れみに来ました』
『許さない……許さないわ。貴女ばかりが昔から可愛らしく優しいと言われ、私は男たちから見てもらえなかった。良い子ちゃんぶって今更なによ!』
『私は昔から良い子じゃありませんよ。でも、もう「子」でもありません。デリア、あなたの子供はどうしたの』
『うるさい! 私に子供なんていない!』
『そう……良かった。だって、子を慈しむ親を殺すわけにはいかないもの』
私は優しく微笑むと、彼女の首に手をかけました。
『ヴェロニカを使うのももったいないので、息を止めて差し上げます』
少し喉の筋肉を凍らすだけです。
ええ、ゆっくりと時間をかけて、次第に呼吸ができなくなるだけですとも。
信じられない、という顔で彼女が見上げてきても、私の良心はカケラも傷みません。
早く子供にオニギリを作ってあげたいな。
頭に浮かぶのはそれだけです。
『ありがとうございます。デリア。私は立派なヴェロニカの姫――――いぬのふぐり姫となれそうです』
――――――――やがて。
ヴェロニカという国とジパングの阿部幕府との間で、友好条約が結ばれた。
女王リリーア・ヴェロニカと将軍・阿部新條様は互いに署名を交わし、永年の絆を誓い合う。
間に立つのは赤い褌の将校と、白い髪の小袖の美女と、白い髪の子供たちと、巨大な犬たち。
犬たちに美女が微笑むと、なぜか犬たちがしっぽで股間を隠すという様子が見られた。
しかしめげない太郎という犬は、タマタマを美女に押し付けようとして――――「めっ」と握り潰されかける。
平和な悲鳴が青空に響き渡ったのだ。