愛は道端にささやいて
ベリーチェ・ロヒロは28になる女性だ。
母親ゆずりの煉瓦色の髪を伸ばしすぎて膝裏まで延びきっている。
その長い髪をいつも、太い一本の三つ編みにしてまとめていた。
同じ色の瞳は、いつも眠たげ。
霧がかかった朝のようにはっきりとしない。瞳に光が射していないのだ。
体型はやせ形だが肉付きは悪くはない。
胸もお尻も出るとこ出ているかのように見えるのは、他の部分があまりにも細いからだ。
ベリーチェの食生活が乏しいから、がりがりに痩せてしまっている。
ベリーチェの朝は、ファクトリーロードの倉庫のような部屋から始まる。
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「おっはようございます!!お母さん!!
ベリーチェは今日も元気よく起きれました」
僕はいつも寝ている倉庫の廊下からごそごそと起き出す。
昨日のフリーマーケットからゲットした紫色の毛布を床に敷いていたことを鮮やかな色合いで思い出した。
これは、短い昼休みで手にいれた最上級の戦利品だ。
ところどころ、穴が開いているけれど冷たいコンクリートの上に寝るよりは暖かい。
大事な大事な毛布を畳み、寝床の近くに脱ぎ散らかした藍色のツナギを着た僕はぼさぼさの髪をおおざっぱに整えた。そして、一本の三つ編みにまとめて、紫色の毛布をツナギの中にいれる。
久しぶりに暖かい朝を過ごせるとにんまりと笑った。
僕、ベリーチェ・ロヒロは父親を日本人、母親をイギリス人の間に生まれた女だ。
父親は僕が生まれたときに蒸発。
母親は僕が生まれたときに病死。
実際には母方の祖父母に育てられた。その祖父母も僕がハイスクールに上がる前に亡くなった。
祖父母には借金の山があったらしく、住んでいた家も土地も全て借金取りにとられてしまった。
住むところがなくなった僕は、このファクトリーロードの寂れた廃倉庫の一ヶ所に勝手に住み着いている。
仕事は派遣業。現在は、ロンドン・シティ空港の清掃員。
日当2万。女ひとりが生活していくのはとんでもないが無理だ。
生まれてこの方、電気を使ったことがないし、テレビを見たことがない。
お風呂に入ったこともないし、ガスなんて夢のまた夢だ。
流行のオシャレなんてチンプンカンプンだし、それにかけるお金もない。
ないないづくしで生活してきたせいか、ほとんどの女が思う欲なんて皆無。
恋人も友人もいない僕は、周りから笑われるだけだろうけど、
それでもこの生活が僕にとっては全てで最高だ。
これ以上、下がることがないのだから。
まだ、太陽が上っていない午前3時から僕の一日が始まる。
朝御飯は食べないでそのまま歩いて空港に向かう。
ロンドン・シティ空港はファクトリー・ロードの目と鼻の先。
4年間、勤務しているおかげで目をつぶったままでもたどり着ける。
これは比喩ではない。実際に、歩いてみた結果だ。
てくてくと歩いていくとわずかに紫がかった空から真っ白いボディをもった飛行機が雲を切り裂いて滑空してくる。その姿を眩しく思いながら、目を細めた。
・・・・・・空を自由に飛べたらいいのに。
空を自由に飛べたらこの不甲斐ない僕とお別れできるかな。
イエスさまを信じているわけではないけど、
ときどき思ってしまうんだ。
もう、活きるのがつらいって。
丸っこい屋根が見えてきたら目的地に到着だ。
ロンドン・シティ空港は利用者が少ない。
どっかのハブ空港が幅をきかしているからだ。
大型駐車場に上がる階段を上がっていると、ぶるるんぶるるんと桁外れに大きいエンジン音が聞こえた。
いつものことだから目を向けずに上りきる。
意識しないで猫背になってしまうのは情けないかぎりだ。
事務所の扉を開けようとした瞬間に、
「ベリーチェ、おはよう」
「おはよう・・・・・・ナタリー」
ばさっとチョコレート色の髪がナタリー・ヘップバーンの首振りで大きくはためく。
ナタリーは美しい女だ。
「今日もバイクで来たのか?」
「もちろんよ。あれはアタシの魂ですもの。
・・・・・・・セフレのところに置いておくわけにはいかないわ」
「そうなのか」
ナタリーとともに事務所に入る。
入ったら中にいた、ふたりの男女に声をかけられる。
「おはよう、お嬢さんたち。今日もしっかり仕事をしてちょうだいね」
「ナタリー!おはよう、今日も美しいわね。・・・ベリーチェ、なんであんたは今日もツナギなわけ!?どんなに見た目が悪かろうと女で生まれた以上、精一杯、オシャレするもんじゃないの」
「余計なお世話だ」
「なんっ・・・!?なんなのこの子はっ!?」
いつものように小言を言う、シェリーズ・ミッドリアは僕に言い返されて怒りだす。
シェリーズは、艶めいた男だ。
デスクに座っていた事務長のサブリナ・フィーヌは苦笑いをして書類にサインをしていた。
サブリナは牛乳のにおいがする女。
ベリーチェ、ナタリー、シェリーズは他愛ないことを言い合いながら更衣室に入った。
**+
各々のロッカーの前で着替える。
シェリーズが口を開く。
僕は、またかと唇を引き結んだ。
更衣室で話される話題はいつも決まっている。
「昨日の男、中だししやがったのよ。ほんと最悪っ!」
昨日、寝た男の話題
「それを言ったら、アタシのほうはゴムをつけたら萎える男だったわよ」
その男の悪口。
ふたりの美しいと思われる男女が話すには思いっきり、軽薄で俗物すぎる。
僕は着替える手を止めないで聞くだけに止めている。
だって、処女が話す話なんてないし。
「最近の男ってほんっとうに、顔だけよ。アタシの夫はそんなことはなかったのに」
ナタリー・ヘップバーンは一児の母親だ。
育児に翻弄されているにも関わらずに、チョコレート色の髪と深い青色の瞳は曇ることなく輝いている。
ミルク色の肌。肉厚な唇。さっぱりとした鼻筋。
服の上からでもわかる魅惑的なプロポーション。
絶対にこどもがいるとはわからないイイ女。
街角に化粧して立っていたら、確実に男に声をかけられる対象だ。
「アタシから誘ってやったのに、あの野郎最終的に怖じ気づいたのよ。
信じられないわ。
ガールフレンドがそんな怖いのかよ、だったら誘いにノンじゃねぇよ」
ロッカーを蹴りあげてイライラをぶつけたナタリー。
シェリーズは憐れむような目でナタリーを見た。
「器の小さい男が世の中に居すぎってことね。しょっぱい、世の中だわ。
こっちは病気になったらどうしてくれんのかしらってことよ。
慰謝料払ってくれるように説得するけど」
説得じゃなくて脅しの間違いじゃないかな。
シェリーズ・ミッドリアはゲイだ。
肩にかかるほど銀色の髪を伸ばし、初恋の相手にもらったという紐でくくっている。
見事なカットを施したエメラルドがふたつ、石像のように整った顔に飾られていた。
美しいというよりも、人外魔境すぎて悪魔の魅了に近い艶をまとっている。
ふたりならんだら完璧な恋人。
僕がいたらただの当て馬。
そんなふたりと僕は仕事仲間だ。
業務時間は3時半から11時半の8時間。
さすがに朝が早いから昼を食べたらすぐに寝る。
それが僕の毎日。
この仕事を辞めるまではこの毎日が続くであろう。
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毎日着ているツナギとほとんど変わらない作業服に着替えた僕は、用意されている道具を持って持ち場に向かう。
足のサイズと違いすぎる長靴がぎゅむぎゅむと歩く度に音を出す。
僕が掃除をする場所は、受け付けの真ん前だ。
今も浮浪者が寝ているソファの付近を箒で吐き出す。
利用者が多くなったら追い出されるだろうけど、だいたいは我が物顔で居座るだろう。
これがこの空港の朝の風景だ。
利用者の利用が増えていくのは午前6時から。
朝のフライトでお昼には現地につきたいと思っている人がいるらしい。
早朝着きたい人は、前日のフライトで行けば間に合う。
だから、昼間利用する人は余裕と金がある人たちだ。
口許を覆っているマスクを軽くずらして早朝の空気を吸う。
利用している人がどれほど悪タレであれ、空気は綺麗だ。
澄みきっていて、甘い。
ヨダレがでるほどではないが、口から入り、喉を通っていくのを感じるほど清涼感が強い。
埃対策用のゴーグルに光がまっすぐぶつかってくる。
大きな窓から入ってくる光に、まだ起きたくないと背中を窓側にして二度寝を決め込む浮浪者たち。
あぁ。やっと太陽が上ってきたのか。
大きな窓から入ってくる日光に、思わず目を細めた僕は日の光と共に飛行機が降りてくる部分を見かける。
青いラインが入ったその機体はまるで、日の光を衣にしているかのように光り、輝いていた。
そんなこんなで午前4時。
僕の仕事はまだ30分しか経っていない。
若い男女とすれ違った。
バカンスに行くのだろうか、桃色のネタを垂れ流しながら顔を緩まして通りすぎてゆく。
その姿を見て、あぁ、もう8月になったのかと思い出した。
そういえば。
周りの利用者に目を向けて実感した。
脚や腕を出して歩いている老若男女。
突然のスコールや霧が多いロンドンの近くに住んでいると分からないけど、もう暖かくなったのか。
テムズ河って運河でもあるけどきったないよな、水浴びなんて絶対にできないな。
ファクトリー・ロードの目の前に流れている河を思い出してげんなりする。
さて、今年の涼しさ確保はどうしょうかね。
朝と夜は南極のように寒いけど、昼間対策はしてないと暑くなってしまう。
森で暮らしていたためか暑さにどんと弱い。
いつもなら、
「あっ」
考えこんでいるのが悪かった。
上から降ってきた声に咄嗟にびくっと肩が上がり、体が震えた。
やばい。
「あの、」
上質な灰色のベストにぶちゅっと低い鼻先とかさかさの唇があたってしまっている。
衝撃的なことに、目を大きく開いて固まってしまう。
こんなことは初めてだ。
こんなことは、・・・・・・。
「大丈夫ですか?申し訳ありません、私が余所見をしていた性であなたの仕事を邪魔してしまいましたね」
僕の顔色を伺うかのようにしゃがんで覗きこんでくる表情に面食らう。
本当に心配しているかのように、きりりっとした眉を寄せて、垂れている目を一層、垂らしていた。
潤んだ紫色の瞳に、二の句が告げない。
これは、どういうことなんだろうか。
この仕事に就いて初めてのことに驚いてそろっと足を擦らせて後ろに下がる。
僕が離れたことにより、相手は腰を戻した。
心配そうな表情はそのままで。
「・・・・・・大丈夫だ、お客さん。どこもおかしいことはない。そっその、僕も悪かった。
余所見をしていた僕が悪い」
「だったら、私も悪いです。本当に申し訳ありません」
たかが清掃員に謝る頭の角度ではない。
きっちりと45度に下げられた頭に、僕は唖然となる。
さすがに、ここでこのまま話を進めるのはやばいだろう。
そして、上に話が伝わって辞めさせられたら次の仕事を見つけないといけない。
この年で風俗なんてやってみろ、絶対に客なんてつかないだろ。
ここで仕事を失うのは大損失だ。
僕は穏便に済ますために、普段使わない猫なで声で言葉を出した。
「大丈夫ですよ、お客様。わたくしの方はなにも問題ありません。
お客様の方はお怪我はありませんか?」
さっと頭をあげた利用者は白い肌に血を上らせていた。
そして、恥ずかしそうに肩にかけていた旅行鞄を強く握った。
「はっはい、大丈夫です」
声が上ずっている。
なぜだ。
「それはよかったです。お客様には失礼に当たりますが、わたくしは業務に戻ってもよろしいでしょうか?」
「こちらこそすみません。お時間をとらせてしまって」
「それでは失礼いたします。・・・・・・よい、たびを」
「・・・・・・」
用具を慌てて持ち上げ、早足で事故現場から立ち去る。
こんなことがまたあってたまるか。
僕は、煩わしいことを考えこみたくなくて事務所への道を大股で駆け出した。