07:恋の概念
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「あの……」
まだ肌寒い夕方。
教室から208号室の寮に帰った四人は、共同スペースで食卓を囲んでいた。本日の夕食は鍋だ。良いにおいが、食欲旺盛な十代の鼻をくすぐる。冷蔵庫には、放課後に買ってきたデザートの杏仁豆腐もある。
すっかり食べることに夢中だった高校生達だったが、か細い愛の声を誰一人逃さない。
「ん? どうしたの愛」
黄色の部屋着に身を包んだ空姫が聞き返すと、愛はもじもじしながら、視線を下に向ける。
「あの、料理部に……見学に行こうと思うんです。契斗くんが次の水曜日空いているらしいので、付いてきてくださるのですが、部活というとものが私には未知の世界でして……。ソラちゃん達に部活の作法を教えていただきたいんです」
まるで好きな人をカミングアウトしているかのような照れ具合に、空姫は気の小さい小動物を見ている気分になった。
「さっき葉井島先生が顧問してるって言ってた、あの料理部? うんうん、いいじゃん! んー、部活の作法……ねえ。部則はそれぞれだけど、とりあえず先輩に敬語使えれば、なんの問題もないと思うよ?」
賛成する少女に続き、由宇も口に入っている食べ物を飲み込んでから、頷く。
優柔不断な愛は、2人の同意を得て、ほっと胸をなでおろした。もしもここで反対されていたら、入部は諦めていたかもしれない。
「にしても。契斗、随分愛ちゃんに優しいねえ? 見学に付いてってあげるなんてさ。手間のかかる事は嫌がるくせに」
からかうような由宇の口調に、契斗はそっぽを向いた。
「別に、暇だったから断る理由はないだろ」
つんとした態度の契斗に、空姫は「そんなんだから、モテないのよ」と言いかけたが、自分の中で消化した。
由宇は何か閃いたようで、両手をポンッと叩く。
「そうだ愛ちゃん、俺からはひとつだけ、部活について教えてあげるよ。あのね、ズバリ”彼氏”ができるかもっ」
軽快にそう言って、由宇が完璧な笑顔を咲かせる。
途端に契斗は白菜を喉に詰まらせ、苦しそうに胸辺りをばんばん叩いた。その後水を口に流し込むと、ぜえぜえと息を整える。
愛は「彼氏」という単語が脳内でエラーを起こし、ぽかーんとフリーズしていた。
「ブッ、あっはは。契斗ったら、どうしてそんなに慌ててんの?」
「だ、断じて慌ててはねーよ。つうか、部活は彼氏つくるとこじゃないだろ!」
部活動とはあくまで遊びではなく、恋愛をする場でもない。だが入部したことがきっかけで、関わる人間も増える。そうなれば部員同士で純粋に友情が育まれるだけでなく、恋をしたされたという事態が起こり得るのも、事実だろう。
そんなことは契斗も分かっていた。
「もー頭固いなー! でも実際、愛ちゃん可愛くておしとやかだから、そういう子好きな男多いと思わない? ……ああ、もしかして契斗、愛ちゃんに彼氏できるの……寂しい?」
「んなわけあるか。……そもそも愛の恋愛事情なんか、オレには関係ない」
自分自身でそう言ったにも関わらず、契斗は何かに引っかかっていた。
魚の小骨が突っかかったような、今まで感じたことのない違和感。しかし、何も間違った事は言っていないはずで、今にも雨が降りそうなほど曇った心は、きっと気の所為だろうと思い込む。
彼女が誰を好きになろうと、誰と付き合おうと、”関係ない”のだから。
「『彼氏』って……都市伝説じゃないんですね……」
純粋無垢な少女は真面目な顔をして、深刻そうに呟いた。
突拍子のない愛のその発言に、数秒間の静寂が流れ、三人同時に吹き出した。
「とっとっ都市伝せ……! どんだけ”彼氏”っていう存在が信じられないのっ」
ひーひー笑う由宇に、愛は口を小さく開けて停止する。
何がそんなに壺に入ったのか、彼女にはまったく分からなかった。だが、自分に恋愛経験がないことを大っぴらに教えたことに気づき、みるみる羞恥に支配された。
「わ、私、おぉお男の子とあんまり話したことがなくてっ……! 恥ずかしながら、恋愛初心者どころか、概念すら曖昧というか……。友情と愛情の違いも、恋人の存在理由も、全然知らないんですっ。なので由宇くん、どうか教えてください!」
「俺!? い、いや、馬鹿笑いしたけど、正直彼女できたことないんだよね……あっははごめん……」
混乱して珍しくよく喋る愛に圧倒されつつ、少年は苦笑いを浮かべた。そんな由宇に、空姫が間髪入れずに言葉をぶつける。
「由宇は告白されても全部断るからでしょ。知ってるわよー、この前も呼び出されたんだって?」
「えー、ちょ、誰から聞いたのー。でもさ、そんな軽い気持ちで付き合うなんて、やじゃん? 嫌いじゃなかったらとりあえず恋人になるって人もいるけど、そんなの相手に失礼だし、時間の無駄だよ」
「あんたの最後のひとことの方が失礼な気もするけど、まぁ同感かも」
ルックスが良く明るい性格の2人は、度々好意を寄せられていた。
ある日は教室、ある日は中庭、告白に慣れそうなほど好かれるのが、由宇と空姫だ。
それでも決して受け入れることはなく、2人に断られた敗北者はそこら中にいる。
「そこで提案なんだけど、モテる者同士付き合っちゃうのはどう? ソラ!」
「ちょっといい事言ったと思ったらそれ!? なんでこんな奴がモテるのか、宇宙の面積並みに分からない」
このように、学校でも戯れてばかりの2人は 、裏ではカップルだと噂されている。しかしどちらも男女問わず人気なため、その関係に羨む者は多いものの、妬む者は小規模だ。
「つまり、俺は偉そうに言える立場じゃないけど、結果的にはあれだよね。恋はするものじゃなくて、してるもの! 彼氏も彼女も、他人に自慢するためのキーホルダーじゃない。好きで好きで仕方がなくて、その気持ちがお互いに溢れた結果、カップル成立! ……うん、我ながら素晴らしい」
恋人はいなくとも、由宇は”恋”を知っているんだと、愛は直感した。
───きっと由宇くん、好きな人いるんだなぁ。
柔和に、ふふっと笑う愛。
そして大事な友人の恋が、いつか実るように願った。
「……やっぱりまだ私は、恋愛というものがよく分かりません。けど、好きになるって綺麗な感情ですね」
いつか自分にも春が来るのだろうか。
愛はなんとなく契斗を見て、すぐに視線を逸らした。
空姫はのんびりした口調で、鍋をつつく。
「ま、いずれは結婚とかしたいけどー。今はカレカノのいない四人で、こうしてお鍋囲む方が幸せかなあ。……あ、ねえ、お鍋に杏仁豆腐入れたら美味しいかな?」
「待ってソラ。杏仁豆腐はやめよう?」
「なんでよー、由宇だって人並みに杏仁豆腐好きじゃない!」
「熱い杏仁豆腐はやだよ!」
恋を知らない少女が誰かを好きになった時、焦がれ、悩み、戸惑うことになるだろう。
その相手がもし友だと思っていた人ならば、尚更動揺するだろう。
彼女の初恋が芽吹くまで、あと───。
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-continue-