04:始まりの朝
***
朝を知らせる鳥の鳴き声で、愛は目を覚ました。部屋に2つある窓からは太陽の光が伸び、心地良い暖かさに再び眠気がやってくる。
つい昨日この寮へやってきた少女だが、初めての環境の割には深い睡眠がとれ、疲れはまったく残っていない。睡魔の誘惑に負けず、ゆっくりと身体を起こした。
寝癖のついたショートヘアをひと撫でしてから、彼女は立ち上がり〝もう一人の少女〝に話しかける。
「ソラちゃん、起きてください。今日から新学期ですよー」
愛は控えめに呼びかけるが、空姫は気持ち良さそうにすやすや眠っていた。
この女子部屋にはベッドが2つあり、空姫のシーツは黄色、愛のシーツは桃色だ。ベッドだけではなく、机やクローゼットなど、殆どの物がシンメトリーになっていて、区切る壁はないものの、二つの部屋に見える。
長い間1人で暮らしていた愛は、横を向けば人がいるという状況に最初は緊張していた。だが、いざ過ごしてみると、なんとも安心する空間だ。
「うーん、すごい気持ち良さそうに寝てるなあ」
寝顔まで綺麗な少女につい見惚れるが、そんな時間はない。
なぜなら昨日で春休みが終わり、本日から高等部に通うことになるからだ。
「ソラちゃん……どうやったら起きるかな」
なるべく安らかに目を覚まさせたい少女は、空姫のベッドの前でしゃがみ、じっと考える。
そんな時、躊躇ないノックの音が響いた。
「ソラー、愛ちゃーん。起きてるー?」
男にしては少し高めの明るいこの声は、同じ208号室の少年―――村咲由宇だ。
愛は「あ、はいっ」と返事をしたが、当然夢の中にいる空姫から返答はない。
「あー、やっぱソラまだ寝てるか。ちょっと入っていい?」
「へ!? は、い……大丈夫です」
自分だけの部屋ではない手前、勝手に入れていいものか悩んだが、愛は新入りの身。拒否することはできなかった。
ガチャリとドアを開け、部屋着姿の由宇が得意の笑顔を見せる。
「おはよ愛ちゃん! ソラってば、昔から1回寝ると全然起きなくてさー。特に長期休み明けは、毎回遅刻しそうになってるし。ほんと、起こすこっちの身にもなってほしいよね」
文句を言いながらも満更ではなさそうな顔で、遠慮なく空姫のベッドに腰掛ける。
そして頬に包むように手を当て、衝撃的な発言をした。
「おーい空姫ちゃん。早く起きないと、チューしちゃ……グファッ!」
「……なにしてんのよ変態」
まさに、瞬間の出来事だった。
つい先程まで完全に眠っていた少女は、二重の目をぱっちりと開けている。それだけではなく、ルームメイトの少年の左頬に強烈なビンタを捧げ、由宇は床に転がっていた。
「まったく……目覚め最悪だわぁ」
「全然目覚めないソラが悪いんじゃん! 愛ちゃんも起こしてくてれたのに……かわいそー」
痛む頬を撫でながら、少年は口を尖らす。
愛の名前を出された空姫は、はっとしたようにキョトンとしている少女を見た。
「ご、ごめんね愛、おはよう! あたし、ほんっと朝弱くて……」
「いえいえ! そんな、気にしないでください。……朝起こす人がいるって、なんだか幸せになれますし」
愛はふにゃりと微笑んだ。
しかしその瞳は、どこか暗い闇があることに、空姫と由宇は気づく。
彼女が以前独り暮らしをしていたことは知っているが、その理由などは何も知らされていない。
だが、あえて由宇達は何も聞かなかった。
「―――ねえ、愛」
その代わりに、空姫が優しい顔で、ひとこと問う。
「これからも、起こしてもらってもいいかな?」
この言葉の本当の意味がちゃんと届くように。少女は気持ちを込めて、そう言った。
愛は一瞬目を見開いたが、嬉しそうに静かに頷く。
「……さーって、契斗も待ってるし、早くご飯食べよご飯! 俺お腹すいちゃったよ」
「あ、わたし朝食つくりますよ。何か食べたいものはありますか?」
「ほんとに!? 俺卵焼き食べたい! 甘いやつ!」
四人が住むこの208号室は、朝から男女の声で賑やかだ。三人がリビングへ出ると、寝足りなさそうな契斗がクッションを枕にして横になっていた。
由宇は彼をさりげなく踏みつつ、爆発した髪を直しに洗面所へ向かった。
卵焼きと軽いサラダの準備を手際良く進める愛から、無意識に笑みが溢れる。
「なんだか楽しそうだね、愛。そういえば、初めての寮はよく眠れた?」
料理を手伝う空姫がそう聞くと、少女ははにかみながら目を伏せた。
「はい、自分でも驚くくらい爆睡できました。本当にこれからの生活が楽しみで仕方がないです」
「あたしも愛が来てくれて、すごくわくわくしてるよ。夏祭りに、文化祭に、修学旅行! きっと全部、最高なものになるよ」
一生の宝物になるような思い出を、彼女達となら作ることができるだろう。愛はそう確信していた。
その後も女子同士の会話に盛り上がっていると、契斗の唸り声がした。
「……あーかったりー。新学期なんてめんどくせぇよ春休みよ永遠にぃ……」
「うっさい契斗。学長達の一人息子なんだから、もっとしっかりしなさいよ」
「うるせー。それを言うなら、ソラもトップモデルの娘なんだからもっと女らしく振舞えよな」
この言葉に、愛の耳がピクリと反応する。
ファッション雑誌よりも漫画派の愛は、モデルに疎い。それにも関わらず、小さな子供のようにキラキラした瞳で、少女は空姫を見つめた。
「ソラちゃんのお母さんって……モデルさんだったんですか? たしかにそれなら、ソラちゃんがこんなに美人さんなのも納得できます!」
恵まれた顔もスタイルも、モデルの遺伝子を持っているためだと言われれば頷ける。
しかしその愛の輝く視線から、空姫は逃げるように背中を向けた。顔は見えず、表情は分からない。
「はは、まぁねえ。沢山のショーに出て、いっぱい賞も貰った自慢のママだよ。ステージに立ってるママは、ほんとに綺麗なの。と言っても、あたし実家に帰ってないから、もうずっと会ってないけどね。―――まあまあ、そんなことより! 早く準備しないと遅刻だよ遅刻! 由宇、早くドライヤー交代しなさいよっ」
母親が大好きで仕方がないような口調だったが、途中その声はどこか冷えていた。
洗面所で空姫と由宇がぎゃいぎゃいと騒ぎ始めても、一瞬別人のようになった少女が脳裏から離れず、愛は立ち尽くす。
「―――愛、卵焼き焦げるんじゃねーか?」
「へ……? あわっ、焼いてるの忘れてました! 教えてくれてありがとうございます、契斗くん」
慌てて卵を仕上げつつ、頭は空姫で埋め尽くされる。そんな様子を察したのか、契斗がボソリと言い放った。
「オレ達が愛が今までどういう生活をしてたのか知らないように、愛もソラや由宇の過去を知らない。だけどいずれ、ちゃんと言う時が来る。だからあいつらが自分から話す時まで、待ってやってくれ」
決して責めるような声ではなく、包み込むような優しい少年の声。ぶっきら棒だが、その言葉は、愛の心にすとんと落ちる。
「―――そう、ですよね」
すっかり仲良くなった気になっていた。
すっかり何でも分かるような気になっていた。
笑っている姿しか知らないのに、「あの人はこういう人だ」と決めつけていた。
いつでも明るいのが空姫、いつでも元気なのが由宇。たったの1日しか過ごしていないにも関わらず、そんな風に思っていた。
「私はまだ……何も知らない」
人間はずっと笑顔でいられるような、そんな単純な生き物ではない。
しゅんと俯く愛の頭に契斗の手が伸びる。が、自分で自分の行動に驚いた契斗は、直前で我に返り、それを引っ込める。
「……そんな落ち込むことじゃねーよ。事実あいつらって、常にうるせえし基本元気だからな。おかげで陰キャラでいたい俺まで、一緒にいるだけで目立っちまう……。ちょっとずつお互いの光も影も、受け入れられるような関係になれればいいとオレは思うよ」
「ううっ……契斗くん神様ですか……!」
「えっ、ちょ、愛泣いて……!?」
少年の心遣いにポロポロ涙を零す少女と、あたふたと混乱する男。
タイミング悪く、髪のセットが終わった由宇が丁度その場面に鉢合わせし、きっちり三秒静まり返った。
「……ねえねえソラー、大事件。契斗が愛ちゃん泣かせてるよー!」
「は!? ……いい度胸ね契斗、そこに正座して」
「なっ、これは誤解だ誤解!」
「ハイッ、最期の言葉頂戴しましたー! ソラ、契斗で日頃のストレスをぶちまけちゃっていいよ、勿論拳で」
「くっそ、覚えてろよこの残念系美少年め! ……って、え、ちょ、ソラまじその拳をおろせください!」
他の生徒は始業式を前に緊張する中、208号室は活気が溢れていた。だから、例年この始まりの日が憂鬱で震えていた愛も、不思議と怖くなかった。
今日、彼女たちを歓迎するかのように、私立アンブレラ学園の門が開く。
その先にあるものとは―――。
***
-continue-