02:九路瀬家
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「こ、こんにちは! 警備員さん、先日はお世話になりました。あ、あの、実は私、今日からこちらの学校に……」
「こんにちは、明橋さん。大丈夫です、学長からお話は伺っているので、どうぞお入りください」
四月上旬の、午前中のことだった。
私立アンブレラ学園の警備をしている男は、人見知りの少女を見て優しく笑う。
毛先が肩につく程度の濃い茶髪に、前髪が一直線に揃った少女と会うのは二回目だ。
しかし、前回の愛はスーツを着ていたが、今回はブレザーを着崩すことなく身につけている。
「きっと貴方が素敵な方だから、学長さんは貴方を迎えたのでしょう。だから胸を張って、堂々としていいのですよ。今日から貴方様も、この学園の大切な生徒です」
その言葉に、愛は改めて自分が高校生になれるんだと実感した。同時に、学長達へは感謝してもしきれない恩が、心で滝の如く溢れる。
「ご入学、おめでとうございます」
そう言って、警備員はにこりと微笑む。
何故だかそれだけで、愛は慣れない幸福感を感じ、泣きたくなった。
「本当に、本当に、ありがとうございます……!」
最後に深いお辞儀をしてから、愛はまだ固いローファーを進ませた。
春のにおい。鮮やかな花。噴水に城のような大きな校舎。純粋な少女の心を躍らすには、十分すぎる環境だ。
荷物を詰め込んだ赤いキャリーバックを引きずって、二度目になる学長室に目指す。
———本当に、感謝なんて言葉じゃ足りないなあ。
学長夫婦の息子に料理を教えることが学費代わりで、実質無料で入学することになった愛。しかしフェアではないこの交換条件を有り難く思いながらも、どうしても申し訳なさが消えない。
どうやったら少しでも恩返しを出来るのか、ここ数日常に考えていた。
「うーん、私の特技ってなんだろう……。勉強、料理、掃除……うわあ、我ながら地味」
苦笑いをして、肩を落とす少女。
前回は階段を使ったが、今回はキャリーバックがあるため、エレベーターを使用することにした。
上ボタンを押して待機していると、この学校の高校生であろう黒髪の男子が隣で立ち止まった。奥二重のキリリとした目は見覚えがあるような気がするが、思い出せない。
彼も上の階に用があるのだろう。愛は軽く会釈をして、特技探しを再開する。
「……」
エレベーターはすぐにやってきて、この少年と愛だけが乗り込み、独特の沈黙が流れる。
目的の階まで同じようだが、少女はなんとなく違和感を感じ男子高校生を見た。
———す、すごい汗かいてる!?
まだ夏になっていないというのに、彼は汗でびっしょりだった。本人は明後日の方向を見ていて、愛の視線には気づいていないだろう。
具合が悪いのか聞こうとしたが、引っ込み思案の愛にはハードルが高すぎた。口を開いても声が出ない。
少しすると、挙動不審な二人を乗せたエレベーターが、ボタンで指示された階に止まる。
「お先どうぞ……」
愛が男へ先に出るように促すと、ビクリと肩を飛び上がらせる。身長は高く見た目は大人っぽいが、どうやら少女と同じくらい人見知りのようだ。
それでも男として、レディーファーストの精神はある。
「い、いえ。オレが後から降ります」
「え? あ、はい。すみません」
実にギクシャクしていた。
それは自分達が1番分かっていたが、コミュニケーション能力の低い二人はどうすることもできない。
「……もしかして、えっと、学長室に行かれるんですか?」
数秒遅れて後ろを付いてきていた彼に、愛が問う。少年は頷き、「君も?」と小さく尋ねると、同じように愛も肯定した。
すると男はキャリーバックに視線をずらし、納得したような表情をした。
「ああ。君が、父さんと母さんが言ってた新入生か」
「へ……?」
愛が目を丸くすると同時に、いつの間にか彼女を追い抜かした男が学長室の扉に立ち、ノックもせずに平然と開けた。
すると「おや、息子くん」という学長の声に続いて、理事長が話す。
「あ、来たわね馬鹿息子。もうすぐこの前言った子が来……あら、もう貴方達会ってたの? にしても制服合ってるわね! とっても可愛いわ!」
男の陰に隠れていた愛を見つけ、理事長がおいでと手招きをする。
「失礼します。あの、制服のサイズぴったりでした、本当にありがとうございます。―――あと理事長さん。この方ってもしかして例の……」
「ええ。貴方の料理術を伝授してあげてほしい、息子よ。―――というか、改めて自己紹介しましょうか。まだ私達の名前すら言ってなかったし」
考えてみれば、学長と理事長について、愛は何も知らない。前回は泣き疲れた愛のため、制服と学力診断の問題集だけ渡すと、「今日はゆっくり休みなさい」と、帰宅させたからだ。
「私達は三人家族で、夫の九路瀬高広が学長。私―――カオルが理事長をやってるわ。そしてこの社会性のない息子は、契斗。何か学校のことで分からないことがあったら、どうせ暇だろうし、この子を気軽に使ってね」
「おい、1人息子を一体なんだと思ってんだ」
「契斗ってほんと扱いにくい性格してるけど、どうかよろしくね、愛」
さりげなくカオルに呼び捨てにされた少女は、距離が縮まったような気がして、嬉しそうに笑った。
なるほど、さすが血が繋がっているだけあり、契斗は両親によく似ている。前髪が長めの真っ黒な髪は父親譲りで、深緑の瞳は母親ほど鮮やかではないが、受け継いだものだろう。
先程は思い出せなかったが、カオルと契斗の奥二重のキリッとした目は、鏡合わせのように同じだった。
「ま……ま、な、さん。でしたっけ。……よろしく」
「あ、ひゃい! 明橋愛です。お願いします」
母親に突っ込んでいた口調の滑らかさが嘘のように、ロボットになる契斗。対する愛も舌を噛み、第三者からすれば滑稽な眺めだ。
高広とカオルは、吹き出した。
「ごめんね愛。契斗って実は、女の子が苦手なのよ。男相手ならまだ話せるんだけど……。まともに話せるのは家族か、昔から知り合いの子くらい。でもすぐ慣れると思うから、それまで勘弁してね」
「そ、そうなんですか。だからエレベーターにいる時、汗びっしょりだったんですね……なんだかすみません。でも私も人付き合いが不得意なので、なんとなくお気持ちは分かりますよ」
馬鹿にせず、愛は眉を下げて笑う。
「……リアルエンジェルってこういう子のことを言うのね」
カオルが静かに呟くと、能天気な顔をしながら高広は同調した。
愛はボンッと顔を赤くし、出せることの出来る最大のスピードで手を振る。しかしすぐに疲れたのか、ふうと息を吐いて止まった。
「あ、そういえば学長さん。問題集持ってきましたが、もう提出してもよろしいですか?」
「おお、早いね、じゃあ見させてもらおうかな。少し難易度高かったから、難しかったかい?」
「少し苦戦しましたが、一応……全部解けました。せ、正解しているかは自信ないですがっ」
綺麗な字で解かれた問題集を渡すと、学長はパラパラとページをめくる。カオルも横から覗いた。
その間、契斗との微妙な距離感を気まずく思いながら、愛は夫婦の反応を待つ。
「え」
高広とカオルは同じタイミングで、短く言った。
少女はびくりとして、2人に駆け寄る。
「ままま間違いだらけでしたか!? ごめんなさいっ」
「や、逆よ逆。ざっと見た感じ全部あってるわ。これは契斗といい勝負かもねー。結構勉強得意なのかしら? 評定平均いくつだった?」
「よかった……。勉強は、一応好きな方です。平均はたしか、十段階評価で9.0でした」
天然なところがあり、お世辞にも知的には見えない彼女だが、学力は高かった。
対する契斗は平均9.8だが、愛の成績は十分なものだろう。
「それだけ頭良いのなら、ぜひお友達にも勉強教えてあげてね。―――契斗ったら頭だけが取り柄なのに、全然教えてあげないんだから。ケチよね」
「その言い方は誤解を招くだろ。オレはケチなんじゃなくて、教え方が分からないんだよ。それに同じ寮の〝ソラ〝にはテストの度に教えてるし」
溜息交じりに、契斗は言った。この学園内にはホテルのような寮が建設されていて、三・四人ずつに1室与えられる。とはいえ一軒家のような広さで、当たり前のように風呂やトイレ、ベランダが完備されていた。
寮生活は規則になっているため、全ての中高生がそれぞれ共同生活をしている。
学長の息子だろうとその制度は変わらず、契斗と同室の1人が『ソラ』と呼ばれる者だった。
カオルは息子の言葉を無視して、愛に「そうだ」と話を振る。
「ソラは愛のルームメイトでもあるわ。でも安心していいわよ。赤点常連者だけど、人のことを大事にできる優しい女の子だから!」
「……え。あ、ちょっと待ってください。ソラさんが良い方だということは分かりました。あの……ルームメイト、ってことは、つまり……契斗さんとも同じ……家……」
「ええ、息子はこれから愛と同じ屋根の下で暮らすことになるわね。だから今日は契斗にも学長室に来てもらったのよ。寮まで案内してもらうためにね」
1年間自分だけで住んでいた少女は、複数で住むこと自体久しぶりだった。しかも男女混合の寮になっているため、起きれば異性がリビングにいるだろう。
今更だったが、想像をして不安が弾ける。一瞬目眩に襲われたが、理事長はケロっとした表情だ。
ふいに、高広が愛を呼ぶ。
「そうだ、愛ちゃん」
クラクラしていた頭は、名前を呼ばれることで正気を戻す。
そして高広の方へ身体を向けると、手に収まる程度の薄い何かを差し出された。
「はい、これ学生カードだよ。無くさないように、財布とかに入れておくといいかもね。あ、ちなみに君の部屋は20階の〝208号室〝。最上階だよ」
「カード、ありがとうございます。でもそんなに良い物件に入って、良いのですか?」
「勿論! それより、このカードは寮の鍵でもあるから、無くさないように気をつけてね」
カードはアンブレラ学園の生徒だと証明するためのものであり、寮の扉を開けるための鍵でもある。
愛がカードを財布に入れたのを確認すると、高広はハンガーに掛かっていた上着を着て、カオルは髪を結い直し始めた。
「ん? 父さん達どっか行くのか?」
「ああ。会議があるから、ちょっと出てくるよ。愛ちゃんに色々教えてあげなさい、契斗」
初めての寮暮らし。
ルームメイトは共に過ごす時間が長くなる分、特に特別な存在となるだろう。
契斗は控えめに「じゃあ、オレ達も帰ろう」と誘った。ぎこちない対応だが、愛は不思議とその声に安心する。
さあ、行こう。
これから毎日、「ただいま」と呼ぶことになる場所へ。
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