01:出会いの季節
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「き、緊張してきたぁ……!」
四月一日。
着慣れないスカートタイプのスーツを着て、少女はとある学園の門の前で震えていた。これは寒さのせいではない、緊張のためだ。
大きな門の先には噴水が見え、城のような豪華な校舎が堂々と建っていた。まるで異世界のようで、ファンタジーを連想させる。
しかし今の彼女には、その世界に見とれる余裕はない。
「だめだめ、しゃきっとしなきゃだよ自分。この学園のお掃除スタッフはお給料が高いから、絶対に面接受からないと……! 正社員になって、ちゃんと自立しなきゃいけないんだから」
独り言を呟き、逃げ腰にならないように自分を奮い立たせる。
しかし他人から見たら、不審者でしかないだろう。
「あのー、そこの方。さっきからそこから動かないけど、この学園に何か用かい?」
どこからやってきたのか、突如男性が少女に話しかけた。彼はがっしりとした体格をしていて、服装からして学園の警備員だろう。
悪事をしていなくても、反射的に全身が緊張する。
「っふぁ、ふぁい!! あ、ごごごめんなさい! わ、私、明橋愛と申します。清掃スタッフの面接に参りまひた!」
「そうでしたか。驚かせて申し訳ありません。わたしはこの学園の警備員です。少し確認するので、身分証明書を背景してもよろしいですか?」
多くの子供達を守る責任がある学校は、部外者を入れることに対し、一層注意しなければならない。
愛は身分を証明できるものを渡し、黙って確認作業が終わるのを待つ。
「……まだ今年16歳、なんですか。いや、すみません、お待たせしました。どうぞ中へお入りください。あ、学園内は迷いやすいので、こちらをどうぞ」
見た目は怖いが、雰囲気は随分と優しい男だ。愛の年齢を見た彼は、一瞬声のトーンを落としたが、すぐに準備していた紙を手渡す。
愛は軽く会釈をして、差し出された紙を受け取って見ると、そこには面接場所である学長室への地図が印刷されていた。学園の土地はかなり広大なため、地図がなかったらきっと迷う羽目になっただろう。
「ありがとうございます、助かります」
「いえいえ、頑張ってくださいね」
愛は最後に深々とお辞儀をして、少しずつ足を進める。周りをよく見ると多数の監視カメラが備え付けられていて、先程の男性以外にも、複数の警備員が門を守っていた。セキュリティは万全だ。
受け取った地図を改めて眺め、愛は学園の広さに驚愕する。
「さすがお金持ちが通う中高学校だなぁ」
私立アンブレラ学園。通称傘学。それがこの学校の名だ。学長と理事長は夫婦で、協力して学校を管理している。
中等部と高等部があり、約800人の生徒が在籍。共学かつ全寮制で、1番の特徴は裕福な家の息子や娘が通っていることだろう。
大手企業の社長や医者、有名女優の子供がこの学園で学んでいる。
未来の日本を担う人物として相応しい大人に成長させるべく、一般教科の他にマナーや食事の作法の授業もある。
「なんだか、歩くことでさえ恐縮しちゃうな。……えーと、学長室はあの校舎の中か」
地図と立ち位置を比べながら、勇気を出して一歩一歩目的地へ足を進める。花の香りが鼻をくすぐり、少しだけ気分が落ち着いた。
校舎の前にある噴水の横を通りながら、意味もなくキョロキョロすると、制服姿の生徒達が談笑をしていた。まだ春休み中のはずだが、何らかの用があって校舎に来ていたのだろう。
胸がチクリと痛んだが、少女は蜜柑色の目をぎゅっと瞑って、前を向く。
———私の学校生活はもう終わったんだよ。
己に言い聞かせ、逃げるように進むスピードをやや上げる。
エレベーターは使わずに、階段を足早にリズムよくのぼった。途中、見ず知らずの礼儀正しい女子高生が「ごきげんよう」と挨拶をしてくれたが、一般市民には馴染みのない言葉だ。咄嗟に「ありがとうございます!」と返すと、女学生はきょとんと「こ、こちらこそ……」と首を傾げた。
「はあ、階段疲れちゃったなー……。あ、この部屋が学長室だ」
前には大きな扉があり、学長室と書かれたプレートがある。地図を見ても間違いない。
上がり症ですぐに緊張してしまう愛は、今にも心臓が口から出そうだった。
「うう帰りたい……。だ、だめだよそんなの! あぁでもやっぱ、お給料につられて来たけど、場違いだよなあ」
小さく自問自答を繰り返す。
気づくと既に数分経っていた。
深く深く息を吐いてから、少女は意を決して手を動かす。汗の滲んだ手でノックをすると、「どうぞ」と言う女性の声が聞こえた。
「は、初めまして。学園清掃スタッフの面接に参りました、明橋と申します」
本で面接の仕方を熟読したにも関わらず、少女は何も思い出せず、自己流を貫くことにした。
もともと少女は、無意識に敬語になる癖がある。意識しなければタメ口ならないという、珍しい性格をしていた。
同世代からしたら距離を感じるかもしれないが、目上の者と話す分にはその癖は好都合だろう。
「お待ちしてました、明橋さん。どうぞお掛けください」
「ありがとうございます、失礼します」
学長室には男女が2人いた。どちらも愛の亡き両親くらいの世代だろう。面接を行うために用意したのであろう洒落た椅子に座り、向かい合う。
学長である男は銀縁眼鏡がよく似合い、柔らかい雰囲気を纏っている。一方、理事長は深緑のロングヘアーを1つにまとめ、若葉色の瞳が美しい女性だ。
彼等は夫婦であると共に、立場的には学園のナンバーワンとツーである。
「よろしくお願い致します」
噛まずに言い切り、愛はこの調子を保とうと心で意気込む。
学長は事前に送っていた履歴書と少女を見比べ、ゆるやかな口調で質問を始めた。
「では、早速始めさせていただきます。……君はまだ中学を卒業したばかりのようですが、何故働こうと思ったのですか? しかもアルバイトではなく、正社員希望だなんて」
「はい。それは、生活費を稼ぐためです。アルバイトではなく、正社員として安定した暮らしをしたいと考えております」
「親御さんは援助してくれないのでしょうか?」
「両親は……1年前、中学二年生の冬に事故で亡くなりました。その日から今までの1年間は、両親が貯めていた貯金を切り崩して生活しています。親戚は一切頼れず、わたしが働かなければ今後生活することはできません」
自分で言いながら、愛は虚しい感情に負けそうになった。決して彼等に、同情をして欲しいわけではない。
学長と理事長は目を見開き、しんと室内が静寂に包まれる。
そんな沈黙を最初に破ったのは、この空気をつくってしまった少女だ。
「ごっ、ごめんなさい。でも私は家事も一通り出来るようになりましたし、あとは経済さえ自分で支えられれば……」
「1人で生きていける、のですか?」
愛の言葉に重ねるように、学長は言った。
あくまで柔和なトーンだが、少女の肩がビクリとしたのを見逃さない。
理事長も気づいたようで、キリリとしていて眼力の強い目を、一層光らせた。
———私は本当に、1人で生きていけるのかな。
理屈上では、資金を稼いで身の回りのことも出来るなら、できるはずだ。
———では、その人生に意味はある?
このまま孤独に生き続け、幕を閉じたとする。それには何のタイトルもない、ただの時間の流れに過ぎないのではないか。
清掃スタッフの面接に来たはずだが、愛はすっかり自分の未来が暗闇に見えた。
「明橋さん」
「……私、本当は1人が嫌いなんです」
ぽつりと、か細い声が響く。
ずっと胸に押し込んできた感情は、外に出すともう止まらずに、溢れ出した。
「本当は、怖くて、だけどどう足掻いても1人で……。中学では私の引っ込み思案な性格が原因で、ろくに友達もいなくて。高校に行ったら友達が出来るなんて保障ないのに、行きたかったんです。友達が……家族が……本当はずっと欲しかったんです……!」
はっと我を戻した時にはもう手遅れで、しまっていた気持ちは音となって吐き出された。
面接は自らをアピールしなければならない場。だが、まったく誇れない話をしてしまったと思い、愛は唇を噛んだ。
「なんて……強くならないといけませんよね……。あの、えっと」
「―――高校に、行きたいのだね」
「す、すみません! ちょっとした夢だったんです」
ぐるぐるに混乱しながら、学長に謝る。
そんな少女に返ってきたのは、あまりに予想外なものだった。
「そうか、それならよかったよ。もう安心して欲しい。この1年間、君はよく頑張ったんだね。これ以上我慢しなくていいんだよ」
「……え?」
どういう意味なのか分からず、愛から気の抜けた声が出る。
周りに花が舞っている幻影が見える程、学長はこの上なくニコニコとしていた。理事長も微笑みながら立ち上がると、どこからか赤い紙袋を持ってくる。
「愛さん。春から貴方も、この”アンブレラ学園の生徒”よ」
紙袋を愛に差し出して、理事長は優しくそう言った。
少女の脳は現在の状況を必死で解析するが、最終的にフリーズした。理事長が彼女の名前を呼ぶと、数秒後再び思考は働き出す。
やっと言葉を理解した刹那、少女は金魚のように口をパクパクし始めた。
「えっ、あの……のああああ!?」
「うふふ、驚いた?」
「ちょ、ちょよよ待ってくださ……ええええ!?」
突然の、春から高校生宣言。こんな事態になるなど、誰が予想できただろうか。
少女は頬を抓る。
「……いひゃい」
力加減すら忘れた指は、陶器のようにつるりとした頬をじんじんと熱くさせた。痛い。
これ見てみて、と嬉しそうな理事長の指示通りに紙袋を覗くと、スカートとワイシャツ、靴下、そしてブレザーが畳まれて入っていた。
「これは……高等部の制服、ですよね」
「ええ。うちの学園の女子の制服はフリルたっぷりで、可愛いって評判なのよ。まぁフリフリしすぎて嫌よ、って言ってパーカー着てる子もいるけどね。あ、ちなみにそれは校則違反だから真似しちゃだめよ」
展開する話に追いつこうと、なんとか愛は平常心を取り戻す。
冷静になればなるほど、この夢のような話に対する、現実的な問題が浮かび出した。
仕事を探していたくらいだ、経済的な不安が次から次へと湧き上がる。
「で、でも、わたしに学費を払える能力はありません。なの、で、とても有り難いお話ですが……」
愛の言い分はまったくその通りで、この学園は私立だ。それどころか、アンブレラ学園は一般の私立学校よりも学費が高い。代わりに設備も整っているが、十代の少女が背負っていける額ではない。
しゅんと下を向く彼女の頭に、女性のふんわりとした掌が置かれた。
「お金のことは気にしなくていいのよ。誰も女の子から分捕ろうなんて、考えちゃいないわ。ご両親の遺してくれたお金は、使うべき時が来るまで大事にしておきなさい」
「そんな……そんなこと、だめです」
人一倍、何に対しても神経質で気にしてしまう愛。容易く言葉に甘えることなどできず、夜眠ることすら出来なくなるだろう。
学長と理事長は顔を合わせ頷く。
「―――実はね、履歴書を送ってきたときから、ずっと気になっていたの。どうしてこんな若い子が? って。面接に応募してくれた他の希望者は、ほとんど子供のいる主婦の方達だったから尚更ね」
「確かに年齢的に目立つとは思いますが、それにしたって、どうして私の事をそんなに……気にしてくださるのですか?」
「うーん。息子と同じ歳ってところが大きいわね。息子は自立性ゼロで、勉強しかできないのよ。親の私達が過保護すぎたのでしょうね……。そんな子供と同い年の貴方を、放っておけなかった。もし学校に行きたがっていたら行かせてあげたいって、お節介だとも感じたけれど夫と話していたのよ」
この女性の瞳に偽りはない。
こんなに自分の事を思ってくれたのは、何時ぶりだろうか。ふと母親の面影を見つけ、うっすらと涙の膜ができた。
理事長は愛の弱々しい小さな身体を、抱き締める。
「何より貴方はとっても良い子。でもだからこそ、学費を無償するときっと気にしてしまうわね。だからこうしましょ? お金の代わりに、馬鹿息子にたまに料理を教えてあげて欲しいの。あの子ったら、卵焼きすらできないのよ。……だめ、かしら?」
ついにポタポタと雫が落ちる。雨のように、数え切らないほどの粒。
久しぶりのぬくもりは、愛の凍っていた気持ちを溶かした。
学長は妻と少女を見守り、漆黒の目を満足そうに細める。
「……いつだって、何時間だって教えさせてください……!」
「うん、ありがとう。……三年間、沢山思い出つくりましょうね」
春。それは出会いの季節。
最愛の家族との別れを経験した少女の前に、再び現れた陽だまり。
『愛されるために産まれた子』
そんな両親の声が、どこかで聞こえた気がした。
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