MEII 名医
あの日が人生を変えた。いわゆる人生の分岐点というやつだったのだろう。それは、今になってわかったことなのだが。未来の自分の姿を、靄の中にかすかに見たような気がした。
未来の自分はなぜか、謎の光に照らされていて、笑顔を浮かべていたように思う。
靄の中の自分は、おそらくぼんやりとしたヒトガタのようなものにすぎなかった――――けれど、そんなほんのかすかに見えただけの自分を、なぜか、私はそんな風に思った。
十六の夏のことだ。
人生を諦めるには若すぎて、無謀な夢を持つには年をとりすぎた。
未来への希望を、期待を、まだ信じていたいと願った――――そんな歳だ。
***
第一声。
「おい、さんちゃん、僕はな――さんちゃんを助けるぞ」
あぁ、ただのおじさんだ。
でも、なんだろう。この、自信は。この人の自信は、いったいどこから来るんだろう。
サンはおじさんの瞳の中を探りながらそう思った。
――――*
本当だろうか。強がりじゃないだろうか。また、優しさゆえの嘘じゃないのか。
サンの頼りなげな視線は、くたびれた白衣に注がれ、次におじさんの手に向かった。それはそれは無骨な手だった。太い指に、ほどよく肉のついた手のひら。何かを包めそうなほど、大きな手。
この手が、本当に―――?
信じられなかった。サンにはとても信じられなかった。
普通じゃないか。――普通じゃないか。そのへんのサラリーマンと何が違う。私の父と何が違う。
サンの泣きはらした心と、体が悲鳴をあげた。
セカンド・オピニオンで世界的な名医と呼ばれる人物を紹介してもらって、サンはこの日を迎えるまで、どんなに怖い人だろうと想像していた。もっと言うと、どれほどの変人か、と息も止まる思いで、サンはこの日を待ったのだ。
最初、サンは拍子抜けしたようにおじさんを見つめて、にこやかに笑うその人の中に、変人を探した。宇宙人のような特異なものを探した。
「ここの茎をだな―――MRIとCTを見ると……悪いやつらをごそっと取ってだな――――視神経がぐわっと集まってるから……避けながら……リスクは……」
おじさんはサンの父と母の顔を時々見ながら、主にサンの目を見て話した。おじさんの目は不思議だった。サンは説明を聞いているだけなのに、自分の心が治癒されてゆくのを感じた。
――――こんな治療は初めてだ。
説明は、学校の数学の授業より、現代文の授業より、生物の授業より、わかりやすいものだった。擬態語を多用しながら、世間話のような軽さで、それは行われた。
宇宙人を探していたサンは、説明を聞くうちに笑顔になっていた。時にはおじさんの言葉に力強く頷く。それは、サンの父母も同様だった。
冷えていた心臓が、左心房あたりから温まっていくような気がした。
あぁ、このおじさんはすごいんだ。本当にすごい人こそ、なんにも見えないんだ。――見せないんだ。きっとこの人は虚勢なんて言葉を知りもしないのだ。そして、普通のおじさんのままで、こんなにも勇気をくれるんだ。
第一声を思い出す。
「おい、さんちゃん、僕はな――さんちゃんを助けるぞ」
事実をただ述べただけだという風だった。
この自信は、このおじさんの底知れぬ自信のようなものは――――一体どこから。
サンは熱くなった心臓をぎゅっと掴むように服を握り締めながら、再びおじさんの瞳を覗き込んだ。
――――*
底知れぬ、この人の見えない努力を思うと、サンは涙が出そうになった。
初めて人をカッコイイと思った。
――――**
「何か質問ある? なんでもいいからな」
神様のような笑みとともに、最後におじさんはそう告げた。
サンは元気よく大丈夫です、と答えた。おじさんは次に、サンの父母を見る。サンの父母も同じように答えた。
「じゃあ一週間後、手術だな。頑張ろうな!」
サンは力強く頷いた。
おじさんが立ち上がった。サンは深く深く頭を下げた。
ありがとうございます。
そう告げたかったが、何かが喉に詰まって、言葉が出なかった。結局なにも言えないまま顔を上げる。
――刹那。
サンは肩に何やら重みを感じた。
見ると、サンの肩に先生の手が乗っていた。先生が軽く、ポンポンと叩いた。あの無骨な手が、あの手が、手が、―――――あの手が!!!!
ぶわっ。
サンはぎゅっと目をつむった。目が、熱くて、痛い。こぼさないように必死に力を込めた。
すごく、すごく優しい手だ。温かい手だ。
―――――すごいなぁ。すごいなぁ。
こんなにも自分は、不安だったのだということを思った。必死に自分を騙して、怖くないのだと、自分は可哀想なのではないのだとごまかして、ここまで来た。その偽りが、一気に壊れた。たったこれだけのことで、私は、生きる希望を得たのだ。
おじさんは、紛れもなく名医だった。
――――少し続く。
いつか書きます。まだ続くはずです(連載にするほど長くはないので一応短編に)