可愛い妹です。★
見慣れた場所を普段立つことのないような場所から眺めるのは面白いものだ。
映画のセットのような豪奢な絨毯。威圧感すら感じさせる重厚な扉。壁に掛けられた高価そうな絵画。
俺は見慣れていたはずのその空間を眼下にしていた。
吹き抜けの天井の高さもこの場所だと、床の上に立って見上げるよりも実感できる。
俺は若宮邸の玄関ホールで、大きな脚立に乗ってシャンデリアを掃除していた。
今日は年に数回ある大掃除の日なのだ。
そのため、今日は使用人全員が出勤して、朝から清掃作業を行っている。
玄関ホールでは俺の他に三人のおばちゃんメイドさん達が、おしゃべりをしながら掃除にとりかかっていた。
三人のおばちゃんメイドさん達はそれぞれ島ヶ谷さん、島松さん、島尾さんという名前だった。
三人集まると、とても紛らわしい集団になってしまう。
ここにやって来て日が浅い頃は、この似たような名前のせいで誰が誰だか認識することができなかった。
困った俺は彼女達に分かりやすいあだ名をつけて区別することにした。
それぞれガイアさん、マッシュさん、オルテガさんというあだ名だった。
あんこ型の体型をダークブラウンのメイド服で包み、三人が連なって歩いているところが、あの部隊にしか見えなかったのだ。
もちろん本人達の前でその名を口にすることはない。
しかし、ここでの生活に馴染んだ今でも、その習慣は俺の中だけに残っていた。
「まったく、男の子なんて薄情なもんよ。夏休みに入っても実家にも戻らずに遊び回ってねぇ」
三人の中で一番年長の島ヶ谷さんが嘆くように言った。
島松さんも島尾さんも相づちを入れながら大きく頷いている。
「本当にねぇ、産むんなら女の子が良かったわよ」
島松さんがジャイアントバズーカ……ではなく、掃除機をカーペットにかけながら同意した。
「男の子って何であんなに可愛くないのかしらねぇ。この間もね、息子の部屋でエッチな本を見つけてね」
島尾さんが不穏な事を言い出した。
「それが女の子が小学生にしか見えないようなエッチな漫画なのよー。懲らしめるために、全ページの女の子の顔に、マジックでほうれい線を描いて勉強机の上に戻しておいたわよ」
大声で笑い合う三連星。
俺は脚立の上でガタガタと震えていた。
何という恐ろしいことを……。どうか、彼女達の息子さんがグレることがありませんように。
脚立の上から、弓月が玄関ホールに入ってくるのが見えた。
「彰人!?あなた、まだ出かけていなかったの?」
俺の姿を見つけた弓月が、叱るように呼びかけてくる。
今日の弓月は掃除をするために、くたびれたTシャツを着ていた。それでも元がいいからか、ラフな感じが様になって見える。
「いや、今ちょうど終わったところだから。これから出るよ」
俺は脚立を降りながら答える。ずっと高い場所にいたからか、足下がふわふわと不安定だ。
しかし、これで仕事にも一区切りつけることができた。男手が必要な場所はあらかた掃除を済ませたはずなので、後は他の皆さんに任せても問題ないだろう。
床の上に降り立ち脚立をたたみ始めると、弓月が近づいてきて脚立を運ぶのを手伝ってくれた。
「妹さん、久しぶりに会うんでしょう?早く行ってあげなさいよ。待たせたら可愛そうよ」
「俺にとっては仕事も大事なんだよ。大丈夫、しばらくは一緒にいられるんだから」
「なあに、彰人くん。もしかして妹さんが来るの?」
脚立をホールの隅に横たえると、島ヶ谷さんが興味津々な様子で俺たちに近づいてきた。
島松さん、島尾さんも仕事の手を休めて話を聞きにくる。
「ええ、夏休みですからね。しばらくお屋敷に泊めさせてもらうんです。皆さんとも顔を合わせることになると思いますけど、よろしくお願いします」
「あらあら……もう、それなら早く言ってくれないと」
「本当よねぇ、何か好きなものとかある?」
「楽しみねー、早く会いたいわぁ」
三連星は口々に歓待の意を示してくれている。息子さんにもそのくらい優しくしてあげてください、お願いします。
「それで、何時の電車でこっちに着くの?」
「ええと、十五時二十分到着の電車ですから、あと十分ですね。」
「ええ?もうギリギリじゃない。何してるの?早く行ってあげなさいっ!」
俺は肉厚掌三連撃をくらって、よろめきながら屋敷の外に出た。
「彰人っ」
そのまま出かけようとする俺を弓月が呼び止めた。
俺の服や頭についた埃を手で払い、髪型をさっと整えてくれる。
「しばらくゆっくりしてきたらいいわ。奏お嬢様も夕飯までは戻らないから」
弓月は妹に関することになると無条件で俺に優しくなる。思いがけないほど穏やかな声色と眼差しに不意を突かれて、俺は少し胸がうずいた。亡くなった母親を思い出してしまった。
弓月は俺の反応を訝しんだのか、小首を傾げながら俺を見る。
「ほら、急いで、妹さん待ってるから」
「ああ、うん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、車に気をつけてね」
八月に入ってから暑さはますます厳しさを増していた。
ベビーカーに乗せた赤ちゃんを気遣いながら汗を拭く若いお母さん。友達とふざけ合いながら走る色黒の小学生。脱いだスーツを脇に抱えて、参ったように歩くサラリーマン。
街のすべての情景が本格的な夏の到来を告げていた。
若宮邸の最寄り駅は私鉄、海帝鉄道の東翠ケ浜駅だ。
歩いて十分ほどの距離だったが、日差しを浴びたアスファルトからの熱気が俺の足取りを重くした。
繁華街を抜けて駅の構内に入ると、海帝鉄道のイメージキャラクター『ポセイどん』の立て看板が俺を出迎えてくれる。
いつも思うんだが、『ポセイどん』が水着の女の子に囲まれてるイラストはどうなんだろうか?
変なところで神話の設定を取り入れすぎだろう。
四台連なる自動改札機の脇、駅員の窓口とは反対側の壁際に懐かしい姿があった。
懐かしいとは言っても、まだ三ヶ月だ。
しかし、これほど長く離ればなれでいたことはなかった。
中学三年生にしては小柄な、妹の宮子だった。
宮子はデニム生地のスカートとシンプルなポロシャツという服装で、大きめのリュックを背負っている。
髪は俺がいたときよりも少し伸びていて、肩に届くか届かないかくらいの中途半端な長さになっていた。
足下にはスポーツバッグと紙袋が置いてある。ずいぶんと荷物が多いんだな。
俺がゆっくりと近づくと、宮子もこちらに気づいたようだった。
宮子はこちらに歩み寄ろうと動きかけたように見えたが、結局その場所で俺が来るのを待っていた。
「久しぶりだな、少し背が伸びたか?」
「……全然変わらない」
表情は変わらない。あまり感情を顔に出すタイプではないのだ。
「兄さんは少し逞しくなったかも」
「そうか?」
「……うん」
静かな再会だった。相変わらず口数が少ない奴だ。
通路から改札に向かって人が押し寄せてくるのが見えた。次の電車がホームに到着したのだろう。
俺は床に置いてあったスポーツバッグと紙袋を持つと、宮子を促し駅の出口へと向かった。
「浮気はいけないな、アッキー。その可愛らしい子は誰だい?」
エプロン姿の華ちゃんが頬を膨らませながら俺を詰問する。
やめてくれ、兄貴の威厳というものがあるんだ。いきなりいつものノリは勘弁してくれ。
『喫茶店いるか』ではママさんグループや商店街の店主などの常連客グループが話に華を咲かせていた。
俺は華ちゃんに断って妹を四人がけのテーブル席に座らせる。
冷房が効いた店内は、外の熱気をくぐり抜けて来た身には天国に感じられた。
若宮邸に向かう前に少し宮子と話をすることにしたのだ。
向こうに着いてからでは挨拶などに時間を取られて、ゆっくりと話をする時間は後回しになってしまうかもしれない。
弓月に言われたとおり、ここは私事を優先させてもらうことにした。
事情を知った華ちゃんはオーダーを取る時と飲み物を運ぶ時以外は、俺たちのテーブルに近づく事はなかった。
普段はああだが、とても気配りができる子なのだ。
「兄さんは脱非モテ?」
「……気にするな、あの子はいつもああいうノリだから」
俺って妹に『非モテ』カテゴリに入れられていたのか……ふむふむ、そうか。
ストローでアイスコーヒーが入ったグラス内をかき回すと、氷がぶつかる涼しそうな音がした。
「元気にしてたか?」
「うん」
「親父はどうしてる?」
「工事現場で頑張ってる」
「……そうか」
あの世間知らずで重いものなど持った事もないようなお坊ちゃまが肉体労働を。
親父も頑張ろうとしている、その事実が嬉しかった。
子供の頃、若宮家には及びもつかないが俺達の家庭は裕福だった。
祖父がオフィス機器を中心に取り扱う総合商社の社長だったのだ。
祖父が亡くなり社長が親父に代替わりしたあたりから、会社の業績が怪しくなってきた。
親父はおおらかで気持ちの優しい男だったが、経営の才能は全くないようだった。
競争原理に基づくビジネスの世界には性格的に向いていなかったのだろう。
会社の経営はじりじりと困難なものになっていった。
それでも、しばらくの間は事業を縮小しながらではあるが会社を存続させることができていた。
俺たちは小さなアパートに引っ越した。住み慣れた家を離れることは寂しいことではあったが、それほど難儀なこととは思わなかった。
ただ、俺たちの前では愚痴ひとつこぼさない親父が、時々酷く疲れて帰ってくるのが心配だった。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。
大不況の煽りを受けて親父の会社はあっさりと倒産してしまったのだ。
残ったのは莫大な借金。不幸ではあるが、わりとよくある話だった。
お金のことも大きな悩みではあったが、親父の性分では何よりも社員達に迷惑をかけてしまったことに対しての罪の意識が強いようだった。
親父は酷く気落ちしていた。
祖父のすぐ後に俺たちの母親もまた病気で亡くなっていたのだが、親父は喪失感を振り払うかのように仕事に専念して来た。
その反動が出たのかもしれない。親父はだんだんと口数が少なくなっていった。
俺は迷った末に学校を辞めて働くことにした。
その際、気がかりだったのは親父の事だ。
気持ちの優しい親父に、これ以上の罪悪感を背負わせてしまうのではないだろうかと不安だった。
そうなれば、親父の心は完全に折れてしまうかもしれない。俺はどうやって親父に話を切り出そうかと頭を悩ませていた。
しかし、妹の将来のことを考えると、じっとしてはいられなかった。
そんな時だった。
若宮家の顧問弁護士を名乗る人物が、俺達が住む安アパートの部屋を訪ねて来たのだ。
俺は親父の横でその弁護士の話を聞いた。
にわかには信じられないような、俺にとっては願ってもない申し出だった。
若宮奏という人物が会沢家に援助を申し出ているとのことだった。
若宮家の先々代の当主、つまり若宮奏のお爺さんが、ウチの爺さんと親友だったそうなのだ。
その縁で援助を申し出てくれたらしい。
援助の内容は以下の通り。
会沢家の借金は全て若宮家が肩代わりする。
借金の返済は無期限で無利息。余裕があるときに、こちらに都合がいいペースで返済すればよい。
そして、できれば会沢彰人、つまり俺に若宮家で使用人として働いてもらいたい。
もちろん、使用人としての給料は支払われるし、学校の授業料などは若宮家が負担する。
はっきり言って、怖いくらいに会沢家にとって都合の良い条件だった。
祖父が親友同士だとはいえ、両者が亡くなった今は全く交流のない両家だった。
若宮家がウチを援助しても得などほとんどないはずなのだ。
藁にもすがる思いで、俺はその話を受ける事にした。
お金を稼ぎながら学校に通うことができるのだ。若宮奏というその人物が神様のように思えた。
親父は俺に仕事をさせることに難色を示したが、俺の決意が固いことを知って、最後にはそれを尊重してくれた。
こうして俺は若宮家にやってくる事になったのだ。
『喫茶店いるか』の店内は商店街が忙しくなってきたこともあり、客の姿はなくなっていた。ママさんグループも夕飯の支度のために家に帰ったのだろう。
宮子とお互いの近況報告を終えると、俺は華ちゃんを自分たちの席に呼んだ。
華ちゃんは待ってましたとばかりに、俺に体をぶつけるようにして勢いよく隣の席に座ってきた。
「やあやあ、待ちかねたよー。よろしくね、妹ちゃん」
やはり、華ちゃんは華ちゃんだった。
店を出るころには、すっかり宮子と打ち解けてしまっていた。
若宮家に到着するとメイド服を来た弓月が俺たちを出迎えてくれた。
俺は少し戸惑った。
普段はお客様をお迎えする予定がない限り、このメイド服を着ることはないはずなのだ。掃除の後にわざわざ着替えたのだろうか?
その疑念が俺の顔に出ていたのか、弓月は宮子を優しい目で見ながら説明する。
「今日は大事なお客様をお迎えするから」
宮子は目を輝かせ、頬を上気させながらメイド姿の弓月を見ていた。
その時、玄関先で車の音がした。奏お嬢様が仕事から帰って来たようだ。
「ちょうどよかった。宮子、奏お嬢様を紹介するよ。ちゃんとご挨拶するんだぞ」
「……奏、お嬢様?」
俺は宮子の背中を押すようにして車止めまで移動した。
宮子は気がかりなことがあるのか、何かを言いたげに俺を見ている。
俺はそんな宮子の様子を不審に思いながら、奏お嬢様が車から降りるのを待った。
「お帰りなさいませ、奏お嬢様」
「カナちゃんっ!」
宮子が俺の脇をすり抜け、奏お嬢様の前に駆け寄り、その手を取った。
スーツ姿の奏お嬢様は、愛おしそうに宮子の小柄な体をそっと抱きしめた。
「お久しぶりですね、みやちゃん……」
俺は状況が理解できずに、唖然としてその様子を見ているだけだった。
「……どういうことなの?」
俺達の後について表に出て来た弓月が俺に問いただした。
俺はその質問に答える事ができなかった。