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夏が始まります。

 夏は嫌いではない。暑さに強いという自負があるし、学生にしてみると長い休みがあるのもポイントが高い。何より女の子の服装が薄着になるのがいい。

 そんな夏好きの俺をもってしても、この暑さにはうんざりさせられる。まだ七月の初めだというのに、気温は三十度を超えている。


 夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、外にいるのは少々忍耐力がいる。梅雨明けを受けて、湿度が低く空気がからっとしているのが救いだ。

 俺とベテラン執事の三好さんは、若宮邸の中庭で庭仕事をしていた。三好さんが植木に水を撒き、俺が雑草をむしるという役割分担だった。三好さんは家庭に対する不満が溜まっているらしく、俺は草むしりをしながら彼の奥さんについての愚痴を聞くという仕事もしなければならなかった。

 

「いい歳してアイドルにはまるのはいいんだよ。問題なのはこれだよ、これ」


 三好さんが自分の頭を指さして言う。その髪は彼のキャラクターに合わない、見事な金髪になっていた。髪型もシャギーの入った若者っぽいスタイルになっている。そんな状態でいつもと変わらない、お堅い銀縁眼鏡をかけているものだから、違和感が凄い。


「私にも同じ髪型にしろって言うんだ。会沢君はどう思う?」


「いや、断ればいいんじゃないですかね?」


「そんな選択肢はないよ。私は妻の言うことには『はい』か『イエス』か『御意』しか使ったことがないからね。もう否定の仕方なんて忘れてしまったよ」


「……」


「それで、言うとおりにこの髪型にしたら、似合わないって不機嫌になるんだよ。酷いだろ?」


 なかなか過酷な家庭であるようだ。結婚って厳しいものなんだなあ。若者に妙な先入観を与えるのは控えてもらいたい。さらに少子化が進む原因にも繋がりかねない。


「三好さん? その髪、何の冗談ですか?」


 中庭に顔を出した弓月が驚いたように声をかけた。


「いや、冗談だったら良かったんだけどね……」


彰人あきと、そろそろ」


「ああ、じゃあ三好さん、あとお願いしていいですか?」


「ああ、ありがとう。それじゃ勉強頑張ってね」


 俺と弓月は中庭を後にした。



 体育祭の後あたりから、弓月は俺のことを彰人と呼ぶようになっていた。それまでは『あなた』とか『ねえ』とか、そういう個性を廃した呼び方しかされていなかった気がする。ようやく仕事仲間として認めてもらえたのかもしれない。


 俺と弓月は一週間後に迫った期末試験の勉強を一緒にすることになっていた。中間試験のテスト結果をうっかり弓月の前で洩らしてしまったことが原因だった。


 俺たち使用人の評判は若宮家の評判に繋がると言われてしまえば、勉強会の誘いを断るわけにはいかなかった。まぁ、弓月も自分の勉強で忙しい中、わざわざ俺に付き合ってくれると言うのだ。ここはありがたく厚意を受けておくべきだろう。


 弓月の私室には初めて入る。いくら同じ家に住んでいるとはいえ、クラスメイトの女子の部屋に入るのはさすがに妙な緊張があった。


「お邪魔しまーす」


 弓月の後に続き、秘密の花園に足を踏み入れる。部屋の広さは俺の部屋と同じくらい、間取りで言うと八畳といったところだろうか。シンプルな勉強机とベッド、それに本棚。部屋の真ん中には二人が向かい合って座れるテーブルセット。弓月らしい飾り気の少ない機能的な部屋だった。


 俺の部屋と決定的に違うのは香りだった。奏お嬢様の寝室もそうだけど、何で女の子の部屋ってこんなにいい匂いがするんだろう? とりあえず、俺は胸一杯にその空気を吸い込んでみた。


「……あまりじろじろ見ないでよ?」


 弓月はそう言うが、従うつもりはない。当然、隠されているプライベートなスペースを覗き込むような無礼な真似をするつもりはない。だが、目に付く部分に関しては、すべてを脳裏に焼き付けておくつもりだ。そう、全てをだ。俺の決意は固かった。

 勉強机の上に、この前の体育祭の写真が飾られている。リレーの後にクラス全員で撮ったものだ。みんないい笑顔でフレームに収まっていた。


 俺たちはテーブルに向かい合って勉強を始めた。弓月が用意していた冷たい麦茶を注いで、俺の傍らに置いてくれる。

 最初こそ弓月の部屋に気を取られていたのだが、いったん勉強を始めると集中することができた。


 俺の苦手教科は数学と物理で、今日は集中してその二科目をおさらいすることになっている。数学は弓月の得意教科だった。しばらくは筆記具がノートに走る音と、ページをめくる音だけが部屋を支配していた。


「弓月、ここがよくわからないんだけど」


「ん? どこ?」


 弓月がテーブルから身を乗り出し俺のノートをのぞき込む。躓いている箇所を説明しようと顔を上げた俺は、出かけた叫び声を危うく飲み込んだ。

 弓月は襟ぐりの広いノースリーブを着ていたため、胸元が完全に露わになってしまっていたのだ。白い肌と黒い下着のコントラストが鮮やかだった。思いがけない光景を前に思考が停止し、凝視するかたちになってしまう。

 弓月は俺が黙り込んでしまったことを訝しんで、顔をのぞき込んでくる。そして、俺の目線を追って事態を察したのか、胸元を押さえながら飛び退った。


「す、すまん……」


「いえ、私も無防備だったわ……」


 気まずい沈黙。弓月はこういう状況に慣れてないせいか、顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。

 一方的に怒ってくれた方が気が楽なのだが、弓月は妙に理知的なところがある。これでは茶化した反応で場を取り繕うこともできない。


「その、わかんないところがまとまったら教えてくれよ」


「そ、そうね、その方が効率的よね?」


 俺たちは何かに急かされるように、慌ただしく話をまとめた。わざとらしく咳払いなどをしながら再び教科書と向かい合ったが、今度はなかなか集中できない。チラチラと弓月の方を見てしまう。気がつくと弓月が手を止めて、じっと部屋の扉を見つめていた。


「弓月?」


 弓月がおもむろに立ち上がり、部屋のドアを開け放った。


「たっ!?」


 扉が何かにぶつかる鈍い音とともに、小さな叫び声が聞こえた。


「……何をしているんですか? 奏お嬢様」


「何って、偶然です、偶然。たまたまここにいただけですっ!」


 お嬢様はそう言い張るが、この東側の廊下には使用人の私室と控え室など、俺達に必要な設備があるだけで、奏お嬢様が普段出入りするような部屋はないのだ。食堂や客間は玄関ホールを挟んで反対側の廊下にある。明らかに苦しい言い訳だった。


「そうだっ! 柳原君に頼まれていたんです。奈緒のお風呂の残り湯が手に入らないかって。ほらほらほらー、私がここにいても不思議じゃないですよねっ!」


「……」


 返答に窮した奏お嬢様が、大変な密約を洩らしてしまった。勝ち誇ったような様子だったが、どちらかと言えば他人を巻き込んでの大敗北だった。

 柳原よ、短い人生だったな。お前のことは一週間は忘れない。いや、せいぜい二、三日かな?


 奏お嬢様は床に正座させられて、弓月にひとしきり怒られてしまった。しゅんとする奏お嬢様を前にして、弓月がふと肩の力を抜き、優しい声をかける。


「奏お嬢様も一緒にテスト勉強しますか?」


 弓月の提案に首がもげるくらいに何度も何度も頷く奏お嬢様。何とか丸く収まったようだ。もっとも、奏お嬢様は学年でトップクラスの成績なので、俺たちと一緒に勉強する必要もないのだが。

 俺がそう指摘すると奏お嬢様は機嫌が悪くなって、しばらく口をきいてくれなくなってしまった。弓月からも非難がましい目で見られてしまう。俺は居心地の悪さをごまかすために、無理矢理にでも勉強に集中するしかなかった。


 奏お嬢様と弓月。この二人の関係もよくわからない部分が多い。外ではいかにも仕事として、主人と使用人の立場を踏まえたドライな関係に見受けられる。だが、このお屋敷の中での二人は、その垣根を越えた親密な関係にも見えるのだ。公私の区別をつけている、ということなのだろうか?



 期末試験が終わり、開放感に包まれた教室内。クラスメイト達は各々この週末の過ごし方や、気の早い連中は夏休みの予定について語り合っている。勉強会の甲斐があったのか、中間試験に比べて今回の期末試験の手応えは十分だった。とはいえ基礎スペックがあまり高くはないので、高らかに自慢できるほどではないのだが。


 弓月が指でトントンと俺の肩をたたき、教室の出入り口を指し示す。華ちゃんが俺達の教室をのぞき込んで、こちらに向かって手を振っていた。


「いやあ、やっと終わったねー。地獄が」


 華ちゃんも俺と同じく勉強はそれほど得意ではない。


「そのぶん、これから楽しめばいいさ。んで、どうしたの?」


「これから、ウチの店で夏休みの予定を立てない?」


「ちょっと気が早すぎるんじゃないかしら?」


 弓月がもっともな意見を述べたが、華ちゃんは気にする様子もない。終業式までまだ十日以上あるので、生真面目な弓月は浮かれるのは早すぎるように思えたのだろう。


「チチチ、わかってないなぁ。勝負はすでにはじまってるんだよ? 人は石垣、人は城ってね。友達の予定を抑えてこそ楽しい夏休みが待っているのだよ」


「……まあ、かまわないけど、石垣とか城とか何をさせるつもり?」


「じゃ、若宮ちゃんと諏訪部ちゃんも誘っておいてよ。私、先に店で席空けておくから」


 華ちゃんは風のように去って行った。呼び止める暇もない。俺達はその後ろ姿を呆然と見送り、困惑した顔を見合わせるのだった。



 『喫茶店いるか』の店内では華ちゃんがテーブルに手をつき、深々と頭を下げていた。俺達が座るテーブル席には俺と弓月の他に奏お嬢様と諏訪部さん、さらには何故か柳原がいて、それぞれの表情でその様子を見守っている。


「お願いします。一週間だけでいいんです。助けると思って協力をっ!」


 弓月はこめかみに手を当てながら苦い顔をしていた。その向かいの席では奏お嬢さまが立ち上がり、隣の華ちゃんの背中に手を添えるようにして熱弁をふるう。


「ほらほらっ、お友達がこんなに困っているんですよ!? 奈緒はお友達を見捨てるような子じゃないって、私信じてます」


「若宮ちゃんっ! 若宮ちゃんだけだよー、こんなに優しくしてくれるのっ」


 奏お嬢様の手をかき抱き、華ちゃんが芝居がかった調子で感極まった声を上げる。このような小芝居に巻き込まれることになった経緯は次のようなものだった。


 華ちゃんの家と同じように、彼女の伯父さんも飲食店を経営していて、毎年夏の間は海の家を開いている。その間はバイト学生を雇って、店を切り盛りしているのだが、今年に限ってバイトの集まりがよくない。特にお盆休みに当たる一週間ほどの期間、人員の目処が立たなくて困っているというのだ。

 そこで伯父さんの窮地を見かねた華ちゃんの出番だ。莫大な斡旋料と引き替えにバイト学生を集めることを約束したのだ。そして、バイト要員として白羽の矢が立ったのが俺たちだったというわけだ。


「あのね、華子。私たち、夏休みの間も仕事があるのよ?」


 華ちゃんは弓月の苦言には答えず、奏お嬢様に切々と訴えかける。


「若宮ちゃん。若宮ちゃんは協力してくれる……よね?」


 弱々しい声で、目に涙をたたえながら奏お嬢様を見つめる。俺には奏お嬢様の胸の辺りに矢が突き刺さったイメージがハッキリと見えた。奏お嬢様の顔がみるみる紅潮していく。


「もちろんですっ! 私にお任せくださいっ!」


 頼りにされたお嬢様は力強く依頼を引き受け、熱に浮かされたように自分の世界に入ってしまった。今まで友達から頼られた事なんてなかったんだろう。すっかり舞い上がっている様子だった。


「さあ、どうするのかなあ? あなた方はご主人様だけに労働をさせようというのかな?」


「……」


 奏お嬢様は華ちゃんの変わり身に全く気付いていない。場は完全に華ちゃんに支配されていた。馬は難攻不落なのに、将が真っ先に討たれてしまっている。


「若宮さんがやるとおっしゃるなら、私も協力します。バイト、やってみたかったですし」


「僕も予定はないから構わないよ。女の子の水着も見放題だしね」


 同じテーブルに着いている諏訪部さんと柳原もあっさりと承諾した。ううむ、どんどんと話がまとまってしまう。本来なら、俺個人としては喜んで引き受けたい提案だった。奏お嬢様や弓月をはじめ、目の前の女性陣の水着姿を拝めるかもしれないという期待もある。


「なぁ、弓月。一応キャサリンさんに何とかならないか確認してみてもいいんじゃないか?」


「……あなたね、露骨に顔つきが卑猥になっているわよ」


「それはいいんだよ。生まれつきなんだから」


「どこがいけないのかしら? 顔のパーツ……というより全体のバランスかしら?」


「自虐ネタを当たり前のように広げるなよ」


 気がつくと俺達のやり取りを座の面々が驚いたように見ていた。それに気付いた弓月が戸惑ったような素振りを見せる。


「何?」


「いやあ、ねえ?」


「ええ。弓月さんと会沢君、随分仲良くなったんですね」


 ニヤニヤと笑う華ちゃんからの振りを受けて、諏訪部さんが控えめに感想を述べる。弓月は慌てたように何かを言いかけたが、結局真っ赤になった顔を伏せて黙り込んでしまった。軽くからかわれただけでこの反応。初心というか、本当にこういう話題に弱いようだ。

 その様子を見ていた奏お嬢様がぷっくりと頬を膨らませて、鼻から低いうなり声をもらしている。最近奏お嬢様が見せるようになった拗ねている時の仕草だった。表情豊かになったのは良いことなのだが、良家のお嬢様というイメージも大事にしてもらいたい。

 俺は強引に逸れた話を元に戻した。


「真面目な話、奏お嬢様だけで行かせるわけにはいかないぞ?」


「分かっているわよ。まったく何て手を使うのかしら?」


 弓月が悔しそうに華ちゃんを睨みつけた。さすがに弓月の眼光に怯んだのか、華ちゃんはあらぬ方を向きながら下手くそな口笛を吹いている。

 とりあえずキャサリンさんに連絡を入れて状況を伝えてみたところ、あっさりと仕事の休みと外泊の許可が下りてしまった。これで障害は何も無くなったことになる。


「チェックメイトだぁね」


 華ちゃんがニシシと笑った。もうすぐ夏休みが始まる。翠ケ浜(みどりがはま)にやって来て最初の夏休み。今年はどんな夏休みになるんだろうか?

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