白熱の体育祭です。★
体育祭はあいにくの曇り空の下で開幕した。翠ケ浜高校の体育祭は、各学年ごとに縦割りでクラスを三つに分けた三組での対抗戦だった。各学年の一、二組が赤団、三、四組が青団、五、六組が黄団という編成だ。俺たち三組は青団ということになる。
奏お嬢様は体育祭を相当楽しみにしていたようで、昨晩はベッドに入る前に散々参加種目の練習に付き合わされた。何だか、だんだんと幼くなってきてるんだよな、このお方。
「今日は敵同士だねー」
開会式の後、顔を合わせた華ちゃんが残念そうに言った。五組の華ちゃんは黄団に編成されている。俺は華ちゃんの短パンからのぞく肉付きのいい太股を眺めながら、心の底から同意した。
「運命の悪戯だよ、これ。神の無慈悲を感じるよ」
「こんなに愛し合ってるのにねぇ」
その流れで、俺と華ちゃんは戦場で引き裂かれた悲劇の恋人同士を即興で演じる。弓月が冷たい突っ込みを入れてくるまで、その寸劇は続いた。
プログラムは午前中に個人種目が多く、午後からは団体種目が集まっているという構成だった。
俺は百メートル走に出場し、一着になることができた。奏お嬢様がことのほか喜び、必要以上に褒めてくれるので少し恥ずかしい。「会沢がっ! ウチの会沢がやりましたわ!」とか触れ回るんじゃないかとヒヤヒヤしたのは内緒だ。
個人の身体能力だけが勝敗を左右する種目は弓月の独壇場だった。弓月は出場した全ての競技でトップになり、青団のポイントに貢献している。奏お嬢様は弓月の大活躍を、自分の事のように諏訪部さんに自慢していた。
昼食は俺と奏お嬢様と弓月の三人に諏訪部さんを交えてお弁当を囲んだ。ビニールシートの上にはサンドウィッチが入った大きなバスケットと、諏訪部さんのお弁当が並んでいる。サンドウィッチは俺と奏お嬢様の分まで弓月が用意してくれたものだった。
「奈緒はいいですよね。運動ができて」
奏お嬢様はタマゴサンドを両手で持って、はむはむとかじっている。なんとなく、齧歯類の小動物を連想させた。奏お嬢様は障害物競争でビリになってしまったことに落ち込んでいた。網をくぐるときに服が金具に引っかかってしまって、それを外すのに手間取ってしまったのだ。
「奏お嬢様が網を抜け出す要領で、体操服と短パンから抜け出していたら勝てたんですけどね」
「私、どんな姿でゴールするんですかぁっ!?」
昼食の間、諏訪部さんが午後からの団体競技について解説していた。あの大人しい諏訪部さんが熱弁している様が印象的だった。余程楽しみにしているのだろう。奏お嬢様が興味津々で耳を傾けている。
「騎馬戦の勝敗は、いかに数的優位を作れるかにかかってると思うんですよ」
「数的優位?」
「そう、敵の一騎をいかに多くの味方で攻撃できるかが鍵なんです。そのために囮役の騎馬を作って、敵陣に飛び込ませるんです。囮役の騎馬はできるだけ多くの敵を引きつけて、命ある限り逃げ続けます。その間に味方が囮役よりも多くの敵を討ち取れば、最終的にはこちらの勝ちです」
俺は思わず唾を飲み込んでしまう。虚栄心が強い思春期の男子から活躍できるかもしれないという淡い期待すら奪い、敵に追い回され、討ち取られるだけの役回りを与えようとは。体育祭というイベントには似つかわしくない非情な策だった。俺は恐る恐る諏訪部さんに聞いてみた。
「今日の体育祭は赤青黄の三組で争ってるわけだけど、ちなみに諏訪部さんは三国志で好きな武将いる?」
「呂布です」
暴君!! やはりこの子の心底には武の苛烈さがあるのかもしれない。
体育祭午後の部が始まった。お昼の休憩を挟んだためか、生徒用の応援席には少し緩んだ空気が流れていた。
競技に参加しない生徒は、基本的に与えられている自分用の応援席で観戦していた。午後の最初のプログラムは競技ではないので、多くの生徒がそこに集まっていた。俺も祈るような気持ちでその中にいた。
「ちょっと、落ち着きなさいよ」
俺の様子があまりに挙動不審だったのだろう、隣にいた弓月に注意されてしまった。だが、これが落ち着いていられるだろうか。俺は控えめに言ってド緊張していた。
グラウンドでは三チーム合同の応援合戦が始まろうとしていた。何を隠そう、奏お嬢様がその応援団の一員として参加しているのだ。心配するなと言われるのが無理な話だ。
太鼓の音とともに、各クラスから集められた応援団が一斉にグラウンドに散らばる。俺の眼球が高速で動き、半秒で奏お嬢様の姿を捉えた。今の俺は、熟練した戦闘機パイロットよりも目標捕捉能力が高いに違いない。
チアガール姿の奏お嬢様が登場すると、応援席がざわめいたような気がした。奏お嬢様は動きやすいように、長い髪を結い上げている。名称がよくわからない黄色のフサフサした丸い奴を振りながら、チアガールの隊列に加わって走り出す。
警報! 天使降臨、天使降臨!!
青と白を基調としたチアガールのコスチュームがとてもよく似合っていた。弓月は奇声を発している俺にドン引きしている。
奏お嬢様のダンスはたどたどしくて、お世辞にも上手とは言えなかった。余裕がなさすぎて周りとの連携も上手くいってない。何だかハラハラしてしまって、どっちが応援してるんだか分からなくなってくる。
ただ、顔を紅潮させて一生懸命に踊ってる姿が印象的だった。俺はあまり関心がないのだが、アイドルが好きな人ってこういう感じでハマるのかもしれない。
午後のプログラムは騎馬戦や棒倒し、綱引きなど各団が協力しての対戦が多くなり、一層白熱した戦いになった。俺は騎馬戦に騎手として参加したのだが、どういうわけかポイントが高い大将というわけでもないのに、常に複数の敵に追い回されることになった。中には俺の名前を絶叫しながら突進してくる騎馬もある。
「ど、どうしちゃったの、この子たち?」
「しかたないよ、会沢君だもん」
馬になって俺の右足を支えている柳原がショックなことを言った。
「ええ?俺ってまた誰かの恨みを買ってるの!?」
「いや、恨みってより、うらやまし?」
「……」
「若宮さんとか弓月さんのお風呂の残り湯とか手に入り放題なんだよね? あわよくば着替えしてる最中に、偶然を装って脱衣所に突入したり。でも僕は許すよ。だから妹ちゃんがこっちに来たら絶対に会わせてよね」
……こいつは何を言ってるんだ?
俺達の騎馬は敵を討ち取るのは諦めて、逃げることに徹した。その判断が良かったのか、結果的には囮役として機能していたようだ。
しかし、残念ながら終盤でバスケ部の田代が駆るエース騎馬に追い回され、最終的にはハチマキを奪われてしまった。田代は小宮山が恋焦がれる隣のクラスのイケメンである。黄色い歓声と注目を集める田代から逃げ惑う俺達の騎馬は、哀れな落ち武者のように見えただろう。
競技が終わると、田代が応援席に戻る俺を呼び止めて話しかけてきた。田代とは出場競技がかぶることもあり、予行演習などで顔を合わせる事が多かった。その合間に、そばにいた俺に気さくに話しかけてくれて、顔を合わせたら話をするくらいには仲良くなったのだ。
体育会系らしく朗らかで闊達な男で、周囲の人間を巻き込んで仲良くなれる人当たりのよさがあった。
「若宮さん良かったよな-。なんかこっちが応援してあげたくなっるっつうか……」
俺と田代は応援合戦のチアガールについて熱い意見を交わし合っていた。うっとりしたように奏お嬢様を褒め称える田代。まあ、それは言うまでもない。奏お嬢様は言うまでもなく素敵だったので、ここはあえて健康的なお色気を振りまいていた知り合いを推しておくことにする。
「華ちゃんも良かったぞ? 五組の柴田さんだよ。彼女ダンス上手いんだな」
あの娘の太股の魅力は何なんだろうな? 自然と目線が吸い寄せられてしまうのです。そりゃあ思春期の男子ですもの。こういう話題は大好きです。
「お? 悪ぃ、ちょっと待っててくれ」
田代が移動する生徒の中に見知った顔を見つけたようだ。俺との話を中断して声をかける。
「おーい、小宮山!」
小宮山は自分に声をかけたのが田代だと分かると、嬉しそうに駆け寄ってくる。しかし、その隣に俺がいるのに気付いてハッとしたように足を止めた。にこやかに手を振る田代の側に、小宮山は不安そうな表情でおずおずと近づいてきた。
「さっきの騎馬戦、見ててくれたか?」
「あ、うん。田代、凄かったねぇ。目立ってた」
「はは、もうちょっといけるかと思ったけど、こいつがなかなか手強くてさ」
田代が隣に立つ俺の脇を肘で小突いてくる。少年漫画の主人公みたいなノリがよく似合う男だった。
「そういえば、お前ら同じクラスなんだよな?」
田代は俺と小宮山を交互に見やりながら確認してきた。互いに対する俺達の態度があまりによそよそしかったため、違和感を持ったのかもしれない。
「……」
「おう、三組な」
黙り込んでしまった小宮山に代わって俺が答えた。
「いけね、そろそろ次の競技、始まるわ。じゃ、俺行くから」
田代は俺達に爽やかな笑顔を残して、棒倒しの待機列に混じっていった。その場には俺と小宮山が取り残された。
おお、これは気まずいぞ。流れとしては自然に声をかけて去るってのが無難だろうか?
「あんたさぁ、何も言わないんだね?」
意外にも小宮山の方から声をかけてきた。その声には、いつもの自信に裏付けされた華やかさがない。
「え……と、何が?」
「あたしがあんたに、その……やってること。田代にだけじゃない。あんたが誰かに喋ってるって、聞いた事ない」
「いやあ、女の子に苛められてるなんて恥ずかしいじゃん」
俺は冗談めかしてそう言った。
「苛め……そう、だよね。でも、あんた堪えないからさぁ……、あたしさ……」
小宮山は言葉を探しながら俺に何かを伝えようとしているように見える。しかし、適当な言葉が見つからないのか、黙って自分の足下にふと視線を落とした。
少し離れた場所で何やらそわそわしながら、こちらの様子を窺っている弓月と目が合った。弓月は迷うような素振りを見せたが、結局俺たちの方に近づいてきた。俺の隣に立った弓月は黙り込んだまま向かい合う俺と小宮山を不審そうに交互に見ている。
俺は弓月が何かを口にする前に小宮山に声をかけた。
「ずいぶん接戦になったな」
「……え?」
「このままだと、リレーで勝ったところが総合でも勝つだろうな」
「……」
「リレーは田代じゃなくて、ウチのクラスを応援しろよ?」
「あ……」
ぼんやりとした表情で俺を見つめる小宮山を残し、俺は弓月の背中を押すようにしてその場から離れた。
「小宮山と何を話していたの?」
「ん? 聞いてただろ? 青団勝てるかなって」
弓月は何かを読み取ろうとするかのように、俺の目をじっと見つめてきた。
「私ね、奏お嬢様がクラスで孤立していても、その状況を何とかしようなんて思いもしなかった」
急な話題の飛躍に戸惑ったが、弓月の真面目な表情を見て、俺は黙って弓月の話を聞くことにした。何か話しておきたいことがあるのだろうか?
「奏お嬢様が無事ならそれでいいやって。私だって、人付き合いが得意なほうじゃないから」
「それは……まあ、仕方ないだろ」
人間関係というものは、なかなか思い通りにはできないものだ。それが他人同士の関係ならなおさらのことだろう。
「あなたには感謝しているのよ。まさか、奏お嬢様自身を変えることで問題を解決するなんてね」
「いやいや、俺がそうしろって言ったわけじゃないって。奏お嬢様が自分で行動した結果だよ」
「そう? でも、そうするには何かきっかけがあったんだと思うけど」
「……」
「だから借りを返してあげるわ」
「うーん、貸したつもりなんてないんだけどな」
「リレーで勝ちたいんでしょう?」
「え? そりゃあな」
「じゃあ、勝たせてあげる」
万能感すら感じさせる弓月の強気な微笑み。アメジストのような瞳から光を放っているかのように生気に溢れて見える。え、やだ……格好いい。何、この人? 頼りになり過ぎでしょ。
最終種目のクラス対抗リレーが始まる。各陣営の戦いは予想通り接戦となり、勝負の行方はリレーの結果に委ねられたのだ。一年生の部ではバトンを落としてしまった女子が泣いてしまったり、ドラマチックな盛り上がりを見せていた。
俺にはアンカーの大役が与えられていた。何度かの予行演習でそこそこ足が速いことが判明したからだ。俺はどちらかというと、頭を使う事よりも体を使う事の方が得意なのだ。
俺の前の走者である弓月は気負った様子もなく念入りにストレッチをしている。
スタート前の静寂はスターターピストルの軽い発砲音で破られた。第一走者の選手達が応援席からの歓声に後押しされるかのように勇躍する。さすがに花形競技だけあって、各クラスの声援も力がはいっていた。
我がクラスの応援席を確認すると、奏お嬢様が拳を胸の前でギュッと固めながら、不安そうに俺の方を見ている。その隣では諏訪部さんが奏お嬢様を励ましているようだ。誰が競技に出ているのか分からない状態になっていた。
レースは終盤に差し掛かり、三組は六チーム中四位。しかし上位は接戦で、まだ勝負の行方は見えない。ちょうど出番が近い弓月が軽く身体を伸ばしながらスタート地点に入るところだった。何となくその姿を目で追っていると、弓月が俺の視線に気付いた。不敵に微笑み、ひとつ頷く弓月。全部任せておいて――そう言われたような気がした。
混戦の中、バトンが弓月に渡るとワッと場内が沸いた。バトンを受け渡すエリアの付近に二位から四位のチームが団子状態で固まっていたのだが、弓月が一瞬で他の選手を置き去りにして集団から抜け出してきたのだ。そして、トップを走る二組の選手を猛追する。長い手足が伸びやかで、フォームが美しい。ため息が出るほど華のある快走だった。
「弓月、凄えなあいつ。あんなに速かったか?」
隣にいた二組のアンカーの田代が感心したようにつぶやいた。楽しげな表情の下に闘志を漲らせているように見える。弓月の走りに触発されたのかも知れない。ただでさえ厄介な相手がやる気を見せているのだ。気合いを入れ直す必要があった。
弓月はついに最後のコーナーで先頭に立ち、さらに加速してその差をグイグイと広げる。
マジかよ? こいつ何本気出しちゃってんの? ここまでのお膳立ては荷が重すぎるでしょっ!?
重責に怯んでしまいそうになるが、俺に向かって駆け込んでくる弓月の姿が俺の弱気を奮い立たせてくれた。俺はバトンを受け取るために、半身になって弓月を迎え入れるように走り出した。
弓月の真っ直ぐな眼差しが俺の目を捉えて放さない。そして―――
「行って!」
差し出した俺の手のひらに力強くバトンが叩き付けられた。手のひらがジンジンと痛む。流れてくる風が弓月の汗の匂いを運んできた。バトンを持ちかえて走り出す俺の隣では、田代がバトンを受け取る体勢に入っていた。
俺が最初のコーナーに差し掛かると、場内に黄色い大歓声が上がる。バトンを受け取った田代が弾丸のように飛び出してくるのが、目の端で確認できた。さすがは運動部のスターだけあって、女子の注目度が桁違いだ。
俺の闘争心に火がついた! 全然ひがんでないんだからね。……いや、本当に。
走りには自信があったのだが、さすがにバスケ部のエースとは基礎体力が違いすぎる。イメージではもっと速く足が出ているはずなのに、それに体がついてこない。背後に田代の気配がするようで、俺は振り向きたい衝動を必死に抑えた。
息苦しさで頭がぼおっとなり、地面を蹴る音が耳鳴りのように頭の中で大きく響く。全力で走っているつもりなのだが、本当に前に進んでいるのか、よくわからなくなってくる。
ホームストレートに面した応援席には奏お嬢様の姿。何かを絶叫しているようだが、他の声援にかき消されてその声は俺まで届かない。
歓声をすり抜けるように聞こえてきたのは、俺の名を叫ぶ小宮山の声。
ゴール前で足がもつれ、俺は転がり込むようにしてゴールラインを越えた。わずかに遅れて田代が俺の横を駆け抜ける。
ひときわ大きな歓声が聞こえてくる。……勝った、んだよな? 目に映るのはいつの間にか雲が晴れた真っ青な空。
田代が颯爽と引き返してきて、妙な体勢で地面に転がってる俺に向かって手を差し伸べた。
「くそっ、もうちょっとだったのにな。やられたよ」
爽やか!! ええ、何コレ? 君、負けたはずなのに余裕ありすぎでしょ。息も絶え絶えに地面に這いつくばる砂だらけの俺。その無様な男に手を貸し健闘をたたえるイケメン。試合に勝って勝負に負けたってやつですよね、コレ。
田代の手を借りて立ち上がると、弓月が悪戯っぽい笑みを浮かべながら駆け寄ってくるところだった。
「ずいぶん格好のいいゴールだったわね」
「一応勝ったんだぞ? 少しは褒めろよ」
「褒めているでしょう?」
何ていい笑顔だ。くそ、こんな時だけ嬉しそうに話しかけてきやがる。俺は弓月が掲げた手に自分の手を叩き付けて応えた。
その様子を見ていた田代が我慢できなくなったように、ハイタッチに加わってきた。俺たち三人は顔を見合わせて笑った。