波乱の学校生活です。
翠ケ浜高校は若宮家から徒歩十五分くらいの場所にある。小高い丘の上に立つ全校生徒数七百名くらいの私立高校だ。
奏お嬢様が通っている学校ということだったので、お金持ちの子女があつまるような学校なのだろうと予想していたのだが、そういう生徒はごく一部の普通の学校らしい。
俺は少し先を歩く奏お嬢様の後を追うようにして緩やかな坂道が続く通学路を歩いていた。
てっきり黒塗りの車で登校するのだと思っていたのだが、そういう目立ちすぎる行動を奏お嬢様は好まないのかもしれない。
初めて見る奏お嬢様の制服姿はとてもよく似合っていた。学校指定の女子の制服はキャメルのブレザーにえんじ色のリボン、グレーと紺色のチェック柄のスカートといったセットだった。俺があまりに感心して見つめていたので、奏お嬢様はプイと怒ったように先に行ってしまった。その流れで、俺は奏お嬢様に近づけないまま一人でとぼとぼと歩いているのだ。
通学路には大きな歩道があり、歩いて登校するにはもってこいの環境だった。
俺はあくびをかみ殺しながら街路樹の新緑の匂いを感じていた。昨晩もやはり満足に眠る事ができなかったのだ。あの状況に慣れようと思ってもなかなかそうはいかない。
翠ケ浜高校の校舎は建てられてからまだ日が浅いらしく、外観も内装もとても綺麗な建物だった。俺が以前通っていた高校とは大違いだな。あそこは靴入れが雑巾みたいな臭いがしてたしな。……決して俺の靴が臭かったわけじゃない、と思う。
俺は玄関の靴入れの前で上履きに履き替えている奏お嬢様に呼びかける。
「奏お嬢様、俺は職員室へ向かいます」
「ええ、わかりました」
教室へ向かう奏お嬢様を見送っていると、何かを思い出したようにてとてと引き返してきた。
「職員室、分かりますか?」
「ああ、はい。大丈夫です。入学の手続きで来たことがあるんで」
奏お嬢様と別れて職員室を目指す。ふざけ合いながら朝の挨拶を交わす生徒達を見て、奏お嬢様の後ろについて歩きながら感じていた違和感の原因が分かった。そういえば、彼女に近づき挨拶してくる人間が誰もいなかった。
担任教師との挨拶が済み、連れだって教室へと向かう。転校生のお披露目にも段取りというものがあるらしく、担任教師の口上が終わるまで廊下で待つことになった。転校生という言葉に反応して、教室内がざわめく。あまり期待値を上げて欲しくはないのだが。
担任教師に呼び込まれて教室に入ると、いきなり弓月と目が合った。あいつと同じクラスなのか。まあ、職場の同僚でもあるしちょうどいいかもな。まだまだ弓月は俺に対してはよそよそしい態度を崩さないし、スムーズに仕事ができるくらいの関係にはなっておきたい。
興味なさそうに窓の外を眺めている奏お嬢様の横顔も見える。本来なら新しい環境に見知った顔があるのは心強いはずなのだが、奏お嬢様との関係を考えるとやりにくいことの方が多そうだ。
俺の考え抜いた挨拶はややウケに終わり、弓月の隣の席に収まった。
休み時間に入るたびに俺は奏お嬢様の姿を目で追っていたのだが、さっさと教室から出て行ってしまい、授業が始まるまで戻ってくることはなかった。
奏お嬢様がクラスで浮いた存在なのはすぐに分かった。
転校生を珍しがって、新たなクラスメイト達はいろいろと俺に話しかけてきてくれる。質問に答えてるうちに、俺が若宮家に住み込みで働いていることは早い段階で知られることになった。
しかし、その後の会話で不自然なまでに奏お嬢様の話題が出ることがないのだ。
学校の同級生同士が同じ屋根の下で暮らしてるんだぞ? そんなオイシイ話題を思春期の若者が無視できるはずがないのだ。俺ならニヤニヤ笑いながら、チューは? チューはしたのか? ってしつこく聞きまくるだろう。そして女子に激しく引かれるのだ、うん。
下世話な質問まで想定しスマートにあしらえる回答を用意していたのだが、どうやら無駄になりそうだ。自意識過剰すぎた気がして何だか恥ずかしい。
それはともかく、クラスメイト達はおおむね友好的でうまくやっていけるような気がした。
転校生への歓待がようやく一段落してきたところで、それまでとは違った顔ぶれが俺の席に集まっていた。このクラスで一番目立つ女子グループだった。
主に話しかけてくるのはその中でも一番綺麗で派手な女の子だった。
小宮山茜と名乗ったその女の子は、綺麗に手入れされたネイルをいじりながら俺にとりとめもない質問をしてくる。
そのグループとの会話では一転して奏お嬢様の話題が中心となった。
「会沢くんはさ、若宮さんの家で働いてるんだよねぇ? 興味あるなー。いつもどんな仕事させられてるの?」
甘くまとわりつくような語尾もそうだが、小宮山の言い方がどうも引っかかる。
当然奏お嬢様と同じ布団で寝るのが主な仕事だと説明するわけにはいかない。どんなキメ顔で語ったとしてもクラス中をドン引きさせるに違いない。
雑用とサポート要因という当たり障りのない内容を伝えた。
「まだ慣れてない部分はあるけど、仕事自体はそれほどきつくはないかな」
「ふうん、でもさ、いろいろ大変だよねぇ。あんなのに使われてるとさぁ」
要領を得ない会話だったが、何となく彼女の意図が見えてきた。
小宮山は俺との話を中断して周囲のお友達に奏お嬢様の話題を振る。するとタクトに操られるオーケストラのように奏お嬢様の悪口が飛び交った。
お高くとまっている。自分たちを見下してる、金持ちだからっていい気になっている、話しかけてるのに無視された…要約するとこんな感じだ。
これは明らかに俺に聞かせるために話してるんだろうな。
納得できるものもあれば言いがかりじゃないだろうかと思うものまで、ずいぶん盛り上がるもんだ。
半分聞き流しつつ俺は奏お嬢様が教室にいないことを確認した。
彼女は俺に奏お嬢様の悪口を言わせたいのだ。いや、正確に言うと俺から彼女の悪口を聞きたいのだろう。雇っている使用人にすら疎まれている彼女の姿を知りたいのだ。
「でぇ? どうなの、実際のところ」
目を輝かせて俺に顔を近づけてくる。いい笑顔だな。歯並びがとても綺麗だ。違う状況だったら小宮山のイメージも違っただろうに。彼女はにこやかに俺に踏み絵を突きつけている。どうせなら踏まれてみたいかな、すんごいミニスカだからとても眺めがいいだろう。
「俺に何て言ってほしいのかは分からないけど、仕事には特に不満はないな。あと、俺の前で若宮さんの悪口を言うのは止めてくれないか? 俺にとっては雇い主で恩人だし、さすがに気分が良くない」
その場の空気ごと小宮山の笑顔が凍り付いたようだった。周りの連中はバツがわるそうに顔を見合わせている。
小宮山がその凍り付いた笑顔のまま声を絞り出した。
「ふうん、そりゃそうだよねー。あの女に飼われてるんだからさ。逆らったら餌もらえないもんねぇ」
小宮山はスイッチを切るようにふっと真顔に戻ると、そのまま教室を出て行ってしまった。小宮山についていたとりまき達も慌ててその後に続く。
教室内のクラスメイトたちはことさら俺たちの方を気にしないようにしながらお互いの会話を続けていた。多分その会話に集中できている人間はいないだろう。全神経がこちらに向いているのが感じられる。お騒がせしてすみません。
「適当に話を合わせておけばいいのに」
隣の席で読書中だった弓月がぼそりとつぶやく。おお、こいつから話しかけてくるなんて初めてのことじゃないか?
平穏に学校生活を送ることを第一に考えると、それが正解なんだろう。
だが、俺の方にも矜持というものがある。いろいろと欠点がある人であるのは確かなのだろうが、俺が奏お嬢様に感謝しているのは本当だ。青臭い考えかもしれないけど、恩がある相手に不誠実なことはしたくなかった。
「いや、まあな……やっぱりまずかったか?」
「あの子たち、奏お嬢様と直接事を構えるつもりはないのよ。いちいち構うのも馬鹿馬鹿しいわ」
「そう言われてもなあ……」
弓月は無言で文庫本のページをめくった。これ以上話にのってくる気はないようだ。
俺としてもこれ以上ちょっかいを出す気はなかった。クラス内での弓月の立ち位置が分からないうちは馴れ馴れしい態度を取るべきではないと判断したからだ。
妙ななれ合いは彼女が快適に学校生活を送る障りになってしまうかもしれない。
正直なところ、小宮山達の言う事もある程度理解できるのだ。奏お嬢様は決して自分から他者と関わろうとはしないのだと思う。ほんの数日だが彼女のそばにいてそれが分かった。それは小宮山達に対してに限ってのことではないのだろうが、彼女達にとっては好意的に受け容れようがない事実なのだ。
そのうえ奏お嬢様はこの学校内でもとても特殊で目立つ存在だ。小宮山達は奏お嬢様に無関心でいられないのに奏お嬢様の方は全く彼女達に関心がない。奏お嬢様の社会的な立場とも合わさって、自分達の事を見下してると思ってしまうのも無理はないのかもしれない。
「片想いみたいなものなのかもしれないな」
俺の独り言に反応して弓月が不審者を見るような目でこちらを見た。
翌日、教室の空気が一変していた。俺が朝の挨拶をしてもそれに応えるクラスメイトがいなかったのだ。昨日はあれだけ友好的に迎えてくれた連中がまるで俺を空気のように扱った。ある程度予想はしてたことだが、どうもベタな展開だ。
事態を察した俺は急いで席に着く。ここで俺が戸惑った態度をとっていたら、奏お嬢様が異変に気づいてしまうだろう。そうなると何があったのか問いつめられてしまうかもしれない。
「面倒なことになったわね」
弓月のつぶやきに俺は応えなかった。小宮山たちは例のグループで集まって談笑しているが、俺がどんな反応をするか窺っているだろう。下手をすると弓月にとばっちりがいく可能性がある。
「……ちょっと、どうして無視するのよ?」
弓月は何故かムキになっていつもより険しい声で俺に問いただした。いやー、いつもは俺が無視されてるじゃないですか? 俺は仕方なく小声で答える。
「話があるなら後だ。もうすぐ授業が始まる」
俺の転校生デビューは大失敗となってしまったようだ。それから二週間経ったが、クラス内の状況は変わらず、小宮山達の嫌がらせはエスカレートしていった。いや、くだらないものになっていったと言うべきだろうか。
日課としては、毎朝俺の靴入れから上履きが無くなっていた。休み時間に教員用のスリッパを履いて宝探しをすることになった。一番多い隠し場所は中庭の噴水の中だったりする。むやみに靴を濡らすと、この時期は臭ってしまいそうだから、水没は勘弁してもらいたい。……いや、俺の足が臭いわけじゃないんだよ? 本当だよ?
俺はほとんど毎日、奏お嬢様と一緒に登校しているのだが、玄関から教室までは別行動をとらなくてはいけなかった。俺の上履きが隠されている事を知られたくなかったからだ。そのために俺はいろんな言い訳を作らなくてはならなかった。
その他に俺のありえない噂が流れていた。代表的なのが、前の学校で相当問題のある生徒だったというものだ。暴力やドラッグは序の口で、七股の修羅場で女子に刺されたことがあるそうだ。その七股の中には小学生の女の子もいたことになっている。悪いやつだなー、俺。これに関しては、俺が中途半端な時期に転校してきたという事実もあり、馬鹿みたいな話にも妙な信憑性が加わっているのかもしれない。
その噂のひとつにこんなものがある。華ちゃんが爆笑しながら教えてくれたのだが、俺って短小で早漏らしい。
……俺以外の誰が知ってんの、そんなこと。いや、実際は違うよ? ……ホントだよ? 弓月が言いにくそうにしてたのはこれなんだろうなあ。全く失礼な、まだ清い体なんだぞ。
クラスの違う華ちゃんとは時々交流があったが、それも目立たないようにしていた。華ちゃんの方は全く気にする様子はなかったが、何かしらの影響があると華ちゃんだけでなく弓月にも悪い。
不幸中の幸いと言えたのが、弓月が言っていたように、小宮山達が奏お嬢様に直接嫌がらせをすることがなかったことだ。この件がある前からそうなんだろうが、若宮家の特殊な家柄が奏お嬢様を守ってくれているのだろう。そのような今までの鬱憤もあり、俺への嫌がらせが多少粘着質になっているのかもしれない。
ぼっちの俺にとって屋上は安らげる空間になっていた。華ちゃんが個人的に所有していた屋上の扉のスペアキーを俺に譲渡してくれたのだ。なお、入手ルートは口外できないとのこと。
昼休みは大抵ここで購買部で買ったサンドウィッチを食べている。今日は少し奮発してカツサンドにした。初夏が近いこの時期、だんだんと蒸し暑く感じる日が多くなっていた。
屋上のドアを荒々しく開ける音。俺はびっくりして飲んでいた紙パックのお茶を落としそうになった。
現れたのは弓月で、何かを探すように辺りを見回していたが、ドアのすぐ脇に座ってる俺を見つけて怖い顔で詰問した。
「どうして好き勝手やらせておくの?」
「は?」
「あなた、嫌がらせなんて黙って受けてるような人じゃないでしょう?」
「どうしたんだよ、急に?」
どういうわけか、最近弓月が俺に話しかけてくることが多くなった。本来は喜ばしいことのはずなのだが、俺が置かれているこの状況下では歓迎できることではない。嫌がらせのターゲットが弓月に変わってしまう可能性もあるからだ。それを分かっているのかいないのか、弓月は俺に構おうとしてくるのだ。
「また、変な噂が流れてる」
「へぇ、どんな?」
「奏お嬢様に迷惑がかかるといけないとか思ってるんでしょ?」
「いや、本当に気にならないんだよ。実際大した事じゃないだろ? 呆れる事はあるけどな」
「前にも言ったけど、奏お嬢様のことなら大丈夫よ。少しは自分の事を考えなさい!」
弓月が悔しそうに吐き捨てた。いつもの冷たい怒りではなかった。俺のために怒ってくれているのかな? きつい所もあるけれど、基本的にいい奴なんだよな、こいつ。
「俺の家の事情、お前もある程度知ってるんだろ? 本来なら俺は学校に通うこともできないはずだったんだ。女の子からの嫌がらせで悩むことができるなんて、贅沢すぎるだろ」
「……」
「いいんだよ、ほっといたら飽きるんだから。限りある学園生活。もっと面白い事が他にあるって、すぐに気づくよ」
「私はそうは思わない。女って陰湿だし、あなたが黙ってやられてたら、この先もっと調子に……」
「あのー、ちょっといいかな?」
突然頭上から声がして、俺と弓月は驚いて声のする方を見上げた。校舎への出入り口の上、給水タンクが設置してあるスペースから眼鏡をかけた童顔の男子生徒が身を乗り出してこちらを見ている。クラスで見た事のある顔だった。
「柳原、どうして?」
弓月に名前を呼ばれた男子生徒は申し訳なさそうに弁解する。
「ごめん、僕もたまに昼休みにここを使ってるんだ。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、なかなか話に入れなくて」
「……で、何か用?」
弓月は話を聞かれていたばつの悪さで不機嫌そうだ。
「会沢君が言ってる事、正しいと思うよ。クラスのみんなは一応小宮山の顔を立てて協力してるけど、高校生にもなってくだらないことやってると思ってるんじゃないかな。これ以上エスカレートしたら協力する人間はいなくなると思うよ」
「助言はありがたいんだけど、柳原君だっけ? 俺に肩入れすると君も困った事になるんじゃないかな?」
「ああ、僕は大丈夫だと思う。若宮さんと同じような理由でね」
柳原は少し恥ずかしそうに言った。ということは、彼にも特殊な家庭の事情があるのだろうか?
「本当はさ、みんな会沢君と仲良くしたいんだよ」
「小宮山に乗っておいて……言ってること都合が良すぎない?」
弓月が不快感をあらわにしてつぶやく。この件に関しては当事者の俺よりも、弓月の方がエキサイトしてしまっている。後で釘を刺しておかないと直接小宮山に話をつけに行きかねない。穏便にいこうよ、ね?
「まあ、そう言われても仕方ないんだけどさ。本当はすぐに収まるだろうと思ってたんだよ」
「どういうこと?」
「ほら、会沢君って変でしょ?」
「……ちょっとちょっと、柳原君?」
「ああ、ごめんごめん。変って言うか頭がおかしい?」
それフォローしてんの? 酷くなってるよね。柳原君って可愛い顔してるのに、結構言うよね? ちょっと、弓月さんも分かるっ! って顔で頷いてないで。ここは怒っていいところでしょ?
「いい意味でだよ。なんて言ったらいいか、得体が知れないっていうかさ。こんなことになってるのに、怒るでもなく萎縮するでもなく、僕たちへの態度が全然変わらないんだもの。あんなに元気よく挨拶されたら、無視しにくくて仕方がないよ」
「挨拶は人間関係を円滑にするための基礎動作だからな」
「だから弓月さんが言ってるように、会沢君が小宮山達をやり込めて、すぐに一件落着になるだろうって思ってたんだ。そうしたら会沢君とも小宮山達ともうまくやっていけるだろ?」
「……」
「これは僕の個人的な考えだけど、みんなも似たような考えだと思うよ。早く終わってくれないかなって」
弓月は少し落ち着いたようで、柳原の言うことを吟味しているように見える。
「それにしても弓月さん、意外と熱いところがあるんだね。もっと冷たい人なんだと思ってたよ。あんなに怒ってるの初めて見たよ」
「わ、私は自分の周りでくだらないことがあるのが嫌なだけ」
「弓月はいつも怒ってるだろ?」
柳原の弓月評には納得できない。俺は毎日のように怒られているんだぞ。
「ええ? いつもはクールで感情を表に出すような人じゃないけどね」
「あなたが人を怒らせるのが上手なだけでしょう? それで、どうするの?」
「言っただろ? 放っておく。ただし、奏お嬢様に何か迷惑がかかるなら、その限りじゃない」
「また、お嬢様お嬢様って」
弓月は最後まで不満そうだったが、この場はそれで矛を収めてくれた。
その日の放課後、帰宅しようと靴入れを明けた俺は思わず中を二度見してしまった。俺の革靴が水色のペンキで塗られていたのだ。俺は怒るよりも呆れるよりも、思わず吹き出してしまった。
水色の革靴を履いて帰宅しても良かったのだが、あいにくペンキは塗りたてで、そうするわけにもいかなかった。
とりあえず、これをどう処分しようか?靴を持ったままうろうろしていると、同じく下校中の奏お嬢様と鉢合わせしてしまった。
奏お嬢様は不思議そうに俺が持つ水色のオブジェを見つめていたが、その正体に気づくと問いただすように俺を見た。
「ああ、あの、ペンキの缶に躓いてしまいまして……テニス部の女子に見とれていた罰ですかね?」
我ながら苦しい言い訳だった。
「……そう」
奏お嬢様はふわふわした足取りで俺の横をすり抜けていった。何とかごまかせたのだろうか? 俺はとりあえず大きくため息をついた。このまま奏お嬢様に事態を内緒にしておくのは無理があるのかもしれない。話をするにしても何かいい切り出し方を考えておかなければ。
その夜、奏お嬢様の寝室を訪れた俺は今後の方針について本気で悩んでいた。このままでは良くないんじゃないだろうか?
俺の懸念は学校での嫌がらせなどではなく奏お嬢様との関係だった。何だかすれ違いのような状態が多くて、俺いまだに奏お嬢様と満足なコミュニケーションがとれていないのだ。
ここまで偶然が続くと避けられているのではないかと思ってしまう。この二週間、奏お嬢様の寝室を訪れる際、俺なりに場を和ませるためのジョークなどを持参していたのだが、ことごとく不発に終わった。一番失敗だったのはベッドの上で三つ指をついてふつつか者ですが……とやったことだった。ただでさえ口数が少ないお嬢様が何日か口をきいてくれなくなった。
何の打開策も思いつかないまま、いつものように奏お嬢様と並んでベッドに横になる。今夜の奏お嬢様はいつもと違って寝付きが良くなかった。ベッドに入った後も、もぞもぞと身動きして、ため息をついたりしている。声をかけようか迷っていると、奏お嬢様の方から遠慮がちに話しかけてきた。
「…………ごめんなさい」
「へっ?」
「私のせいなんでしょう? あなたが……」
例のカラフルになった靴のことを言っているのだろう。残念ながら焼却処分にすることになった。やはり奏お嬢様にああいう場面を見せるのは良くないな。今度からは気をつけよう。
「何だか気になってはいたんです。あなたがクラスメイト達と話をしている様子がなかったから」
「あぁ、いえ、そういうわけでは」
「誰に何を言われても私は気にならなかった。だからどんなに嫌われても疎まれても無頓着でいられた。どうせ誰も私を普通の友達として扱ってはくれないんだから、それでいいんだって」
「………………」
「でも自分の振るまいがこんな形で返ってくるなんてね。私が嫌われ者じゃなかったら、あなたに迷惑をかけることもなかったのに」
今日の奏お嬢様は饒舌だった。どうせならこんな内容じゃなかったら、こんなに辛そうな声じゃなかったらよかったのに。
「別に奏お嬢様のせいではないです」
「ううん、転校してきたばかりのあなたが誰かに悪意を持たれるなんてことないと思う。あなたはそんな人じゃないもの」
「奏お嬢様、俺は今、毎日の生活が楽しくて仕方ないんです」
「え?」
「ここに来る前の俺はもっとクヨクヨした考えで生きている奴だったのかもしれません。それに、いろんな事にイライラとしていました。でも、お嬢様に救われることで、同時に生まれ変わることができたんです」
奏お嬢様はいつの間にか俺の方を向いていた。水分をたたえた大きな瞳がゆらりと揺れている。
「もっと酷いことだってあり得たんだって。それこそ一家離散して親父が行方不明になったり、妹が進学できなくなったりとか。今の俺は何か嫌なことが起きても一度自分に問いかけることができるんです。これは本当に酷いことなんだろうか?って。だから少しくらいの嫌がらせなんて本当に気にならないんです。弓月の怒った顔の方が恐ろしいくらいです」
「あなたは……」
奏お嬢様が忍び笑いをもらす。肩の震えが伝わり、俺は胸が熱くなった。奏お嬢様が俺の話で笑ってくれたことが嬉しかった。
「お願いがあります」
「はい、なんでしょう?」
「奈緒と随分仲が良いみたいですね?」
「え、と……急に何です?」
「私も同じクラスメイトなのになぜ態度が違うんですか?」
「と言われましても、奏お嬢様はお嬢様ですから」
「不公平です、ふこうへい。待遇の改善を求めます」
奏お嬢様は不服げに頬を膨らませる。何だろう、この可愛い生き物は? ちょっと密着してるのヤバイんですけど。
「あの、具体的にはどうしたら?」
「タメ口?」
「駄目です、キャサリンさんに殺されます」
「呼び捨て?」
「うーん、どうなんでしょうね? 俺が慣れないんじゃないかと」
「じゃあ、何ならいいんですかっ!?」
駄々をこねる奏お嬢様はいつもよりずっと子供っぽい。いや、こちらの方が素に近いのかも知れない。
結局俺は奏お嬢様の言いつけで、添い寝の際にその日一日あったことを報告するよう約束させられた。奏お嬢様はそれで納得してくれたのか、今は俺の隣で穏やかな寝息を立てている。
俺は訳の分からない高揚感に包まれていた。ご近所の迷惑にならないのなら、外に駆けだして大声を出したい気分だった。
「いやー、本当にいい一日だったな」
小さくそうつぶやいた後の意識はなかった。本当に久しぶりに熟睡してしまったようだ。翌朝、俺は奏お嬢様のおずおずとした呼び声で目を覚ました。
翌日の奏お嬢様は、昨晩の俺とのやりとりが嘘だったように何かを考え込んでいる様子だった。
今日こそは楽しく話をしながら登校できるんじゃないかと思っていたのだが、その期待は裏切られることになった。昨日のあれは俺の夢だったのだろうか? と少し不安になる。
曇天の空気は蒸し暑く、俺は少々気分が重くなった。通学路の坂道を歩いていると汗ばんだシャツが体に張り付き、不快感を増幅した。
俺は奏お嬢様のふさぎ込んだ様子が気がかりで、教員用スリッパを取りに行くこともなく、靴下のまま教室まで彼女について行くことにした。
俺は初めて上履きを隠されることに苛立ちをおぼえた。奏お嬢様にその様子を悟られないように少し離れて歩かなければならなかった。
教室の前で立ち止まり、小さな深呼吸をする奏お嬢様。自らを鼓舞するかのように小さな拳をキュッと握りしめ、教室内に入った。
「おっ、おはようございますっ!!」
声が裏返っている上に、音量の調節を間違えた不自然な挨拶だった。教室内の喧噪がピタリと止んでしまう。
俺は慌てて奏お嬢様の背後に駆け寄った。奏お嬢様の肩越しに驚いたように彼女を見ているクラスメイトたちを認めることができる。
それは弓月も例外ではなく、大きく目を見開いてこちらを見ていた。無理もない、昨日までは人目を避けるように行動していた奏お嬢様の突然の変化だった。
応える声はない。弓月がハッとして何かを言いかけたが、思い直したようにうつむいた。
そう、弓月も奏お嬢様からすると身内の人間なのだ。こういう場面に馴れ合いは相応しくない。
奏お嬢様は耳まで真っ赤になりながら、それでも俯くことなく自分の席に向かった。
教室内にいた柳原と目が合った。柳原は何かを決意するような表情を見せると、教室内の静寂を破った。
「おはよう、若宮さん」
ビクリと立ち止まる奏お嬢様。恐る恐るといった様子で柳原の方に向き直る。
「若宮さん、おはようございます」
それに続く声。クラス委員長の女の子のものだった。それらの声が呼び水となったかのように、パラパラと奏お嬢様に挨拶の声がかけられた。その数は多くはない。しかし、何かが変わったのは確かだった。
教室内の弓月と目が合った。弓月は俺に向かって呆れたように微笑んで、そんな自分に驚いたように顔を背けた。