母親達の願いです。(四)
時刻は午後九時を回っていた。仕事から帰ってきた奏お嬢様は、車を降りた早々、奈緒の様子を俺に尋ねてきた。今日の昼休みの小宮山と奈緒の諍い――実際は奈緒が小宮山に一方的に言われていただけだったが、それが気になっていたのだろう。
「夕飯は一緒にとりましたが、その後は部屋に籠もっています」
「そうですか……」
自室へと続く階段へは向かわず、玄関ホールを左手に進む奏お嬢様。どうやら奈緒の部屋へ様子を見に行くつもりらしい。俺もその後に続いた。
奏お嬢様が刻むノックの音。それに応える部屋の中からの反応はなかった。再三の呼びかけにも応じる気配はなかった。奏お嬢様はいぶかしみながら、ドアノブに手をかけた。鍵は掛かっていなかった。
主不在の部屋は静寂に満ちていた。濃厚な闇が全ての音を飲み込んでいるような印象があった。普段から物が少なく、整頓された部屋ではあったが、いつになく寂寥とした雰囲気に感じられた。少し部屋を観察すると、そのように感じた理由が判明した。
アンティーク調のチェストの上に写真が所狭しと飾ってあったはずだ。奈緒の部屋の中で唯一とも言える、年頃の女の子らしい彩りのある空間。フォトフレームに納められた写真やコルクボードに貼られた写真には、奈緒と俺達との思い出が詰まっていた。それらが全て消えていたのだ。
何となく嫌な予感がしたのだろう。奏お嬢様が部屋へと足を踏み入れ、クローゼットの中を物色し始めた。
「鞄――奈緒が旅行用に使っていた鞄がありません。それにお気に入りのコートも……」
奏お嬢様と手分けをして屋敷中を見て回ったが、奈緒の姿は見当たらなかった。再び玄関ホールで落ち合った俺達だったが、お互いの表情を見て不安を募らせることになった。
遅蒔きながら電話をかけることに思い至り、携帯端末をポケットから取り出した。電話はつながらなかった。通信不通のアナウンスを聞きながら、奏お嬢様に首を振る。奏お嬢様の血の気が引く音が聞こえたような気がした。
コートも持たずに屋敷を飛び出す奏お嬢様。俺は慌ててその後を追い、お屋敷のアプローチで彼女を捕まえることに成功した。奏お嬢様はスーツとヒールという出で立ちだったため、追いつくこと自体は容易だった。しかし、俺の手から逃れようと抗う奏お嬢様の力は思いの外強く、引きとどめておくには、のしかかるように両腕で抱きすくめる必要があった。
「離してっ!!」
「どこへ行こうって言うんです!? 当てでもあるんですかっ?」
冷静でいられないのは俺も同じだったが、奏お嬢様の動揺は俺を多少落ち着かせる効果があった。俺が守るべきは奈緒だけではないという自覚。それが今の俺を支えていた。こんな時は俺がしっかりしないと。
「当てなんてなくったって行くんですっ! だって、あの子は――」
なおも俺の腕の中でもがいていた奏お嬢様だったが、不意に全身から力を抜くと、うつろな表情を俺に向けてきた。
「本当に、どこへ行こうって言うんですか? あの子の全てはここにあるはずなのに……このままじゃ、奈緒が独りぼっちになっちゃう……」
奈緒がどこへ向かったのかは分からないが、移動手段として一番可能性が高いのは電車だろう。俺は柳原と田代に電話をかけ、二人に翠ケ浜駅に向かってもらった。彼らの家が、駅から比較的近い場所にあったからだ。
一から詳しい事情を説明している暇はない。こんな夜中に、この寒さの中、無茶なお願いをしていることは十分に承知していた。だが、二人は駅に向かって奈緒を捜してくれという唐突な依頼を快諾してくれた。
俺達と同じクラスの柳原はもちろん、田代も部活で忙しい中、電話やメールで俺達のことを気にかけてくれていた。奈緒の最近の様子を見て、深刻な出来事があったことを察していたのだろう。
「じゃあ、向こうで柳原と落ち合って手分けして捜してみる。構内だけじゃなく、バス乗り場とかも見た方がいいんだよな?」
「悪いな、部活で疲れてるのに」
「つまんねえ事言ってんじゃねーよ。全国目指してるバスケ部のエースがこんな事でヘバる訳ねーだろ」
田代は闊達に笑いながらそう答えた。
「……柳原もそうだったけど、何も聞かないんだな」
「話したいなら話せよ。そのうち聞いてやるから。今は忙しいから切るぞ」
それだけ言うと、本当に電話は切れてしまった。白い歯が輝く田代の笑顔が見えたような気がした。爽やかイケメンにも程があるだろう。
奈緒の性格を考えると他人を巻き込むとは思えなかったが、仲の良い友達に行き先を告げていないか確認する必要があった。華ちゃんと諏訪部さんに電話を入れて奈緒がいなくなったことを説明する。共に行き先は聞いていないが、心当たりを捜してみるという返答が返ってきた。
こんな夜中に女の子が出歩くのは危ないからと止めたのだが、俺の制止の言葉は彼女達には届かないようだ。じっとしていられないのは俺も同じだったので、彼女達の気持ちは分かる。せめて二人一緒に行動してくれと再び連絡を入れ直した。諏訪部さんが一緒なら華ちゃんの身の安全は保障されるからだ。
念のために小宮山にも連絡を取ってみる。状況を知った小宮山の動揺は激しく、電話口で「あたしのせいだ」と譫言のように繰り返した。今日の諍いがきっかけで、奈緒が姿を消したのではないかと思ったのだろう。俺は小宮山を落ち着かせるために、根気よく彼女のせいじゃないことを言い聞かせなければならなかった。
「どうしよう……ねえ、会沢ぁ。あたしどうしたらいい?」
「いいか、小宮山。落ち着いて聞いてくれ。駅前には田代と柳原が向かってくれている。俺も今から外を捜してみるつもりだ。だから、いったん若宮邸に来てくれ。いいな?」
「若宮んちに行けばいいの? うん。うん――今すぐ行くからっ!」
今の小宮山を一人にさせておくのは不安だった。放っておいたら、奈緒を捜すために、一晩中でも街中を彷徨くことすら考えられる。それならば、俺達と行動を共にしてもらった方が安心だった。
小宮山が到着するのを待つ間に翠ケ浜の宿泊施設を片っ端からリストアップする。奏お嬢様には屋敷に残ってもらって、奈緒らしい客が宿泊していないか、それらの施設に確認を取ってもらう予定だった。奈緒が戻ってくる事も考えられたし、連絡係として誰かに残ってもらう必要があったのだ。その奏お嬢様は現在、キャサリンさんや宋次郎さんに連絡を入れて状況を説明している。
キャサリンさんはメイドや執事仲間との飲み会に参加していた。奈緒の状態が不安定だったため、参加を見送ろうとしていたのを俺達が無理に送り出したのだ。せっかく楽しい集まりの最中だったのに、こんなことになってしまって申し訳ない。
息を切らせながら若宮邸に到着した小宮山の気は逸っていた。俺の上着の袖を掴んで、早く外へ出ようと促してくる。いつもよりも幼い顔立ちに見えるのは、メイクをしていないからなのだろうか。大人っぽい黒のコートが背伸びをしている少女を感じさせた。
俺達はファーストフード店やファミリーレストランなど、長居ができそうな場所を重点的に捜すことにした。方針が決まると、小宮山は駆け足で俺を置いて行きそうになる。彼女の焦りが伝わってきた。
その道すがら、俺は奏お嬢様と奈緒の血縁関係を含む、若宮葵の訪問に関する全ての情報を小宮山に説明した。奈緒が姿を消したのは小宮山のせいではないということを、ちゃんと理解させておきたかったのだ。
奈緒の身の上には小宮山もショックを受けたようだ。グスグスと鼻水をすすり、涙ぐみながら話を聞いていた。
「なんだよ、それ。あいつ、全然悪くないじゃんよ。酷すぎるだろ」
「……そうだな」
小宮山の飾り気のないストレートな感想に、俺も素直な気持ちで同意した。小宮山の直情的な思いは新鮮で好ましいものに感じられたのだ。
結局、俺達は奈緒を見つけることはできなかった。捜せる場所は捜したつもりだった。時刻は零時に近くなっている。俺は今も街中で奈緒を捜してくれている仲間達に、いったん集合してもらう決断をした。場所は奏お嬢様が待つ若宮邸。ここまで巻き込んだからには、華ちゃんや小宮山以外の仲間達にも詳細を説明しておきたい。そして今後の方針を伝えておく必要があった。
小宮山は街中での捜索を続けたがったが、この様子では奈緒はすでに近場にはいないような気がする。それに時間も時間だ。これ以上、皆に外を出歩かせるわけにはいかなかった。少々強引に小宮山の手を引くと、しぶしぶ俺の後に従って歩き始めた。
若宮邸の玄関先では奏お嬢様が俺達を迎えてくれた。少し疲れたような表情に見えるのは、俺の気のせいではないだろう。その場で簡単な情報交換をした。
奈緒を見つけられなかったことを報告すると、奏お嬢様は唇を噛みながら頷いた。奏お嬢様からは、キャサリンさんが戻って来ていること、事前に連絡を入れておいた他の仲間達が若宮邸に集合しているということを聞いた。
リビングルームに向かうと、キャサリンさんが皆に温かい飲み物を給仕していた。人数分並べられたティーセットからは湯気と紅茶の香りが立ちこめている。キャサリンさんは俺の顔を見ると、情報は全て伝わっていると言わんばかりに大きく頷いた。
俺の姿を認めると、皆が不安そうな、何かを問いかけるような表情を向けてきた。この期に及んで隠し事などするつもりはなかった。思い思いの場所に座ってもらい、詳しい事情を知らない仲間達のことを考えて、いちから奈緒と若宮家の複雑な事情を説明する。
全く事情を知らなかった田代などは驚きの連続だっただろう。奏お嬢様と奈緒が姉妹だという冒頭の部分から呆然とした顔をしていた。
西園葵の話にさしかかると、誰もが完全な沈黙を守り、重苦しい空気が室内を支配した。相手が奏お嬢様の肉親であるため、気を遣ってしまうのだろう。
「それで、小僧よ。これからどうするつもりじゃ?」
黙り込んだ仲間たちに代わって、キャサリンさんが俺に問いかけた。
ひとつだけ、たった一カ所だけ心当たりがある。今の奈緒が向かいそうな場所。確証はなかった。そこに奈緒がいなかったら本当に万策尽きたと言える。警察に捜索願を出すことになるだろう。でも、俺は奈緒がきっとその場所にいるような気がするのだ。
俺がそのことを口にすると、室内にいた仲間達は一様に腰を浮かせかけた。しかし、その場所はこの翠ケ浜からは遠く、皆で一緒に向かうというのは現実的ではない。
以前に奈緒と交わした約束。その場所にいつか一緒に行くこと――それが俺と奈緒との約束だったのだ。俺はその場所に一人で向かうことを皆に告げた。奈緒を心配する気持ちは皆同じだろう。納得してもらうには、俺を信頼して、判断を任せてもらうしかない。その口火を切ってくれたのは華ちゃんだった。
「……アッキーはその約束を果たしに行くってことなんだよね? だったら私達がのこのこ着いて行くのは野暮ってもんかもねえ」
華ちゃんの緊張感のない口調。皆を落ち着かせるために、わざとそのように振る舞ってくれている事が分かる。他の仲間たちもお互いに顔を見合わせながら、俺の判断に納得してくれたようだった。明日の朝、始発列車でその場所に向かうことを告げると、皆は一斉に頷き、奈緒の事を俺に一任するという意志を示してくれた。
若宮邸の門前で、俺と奏お嬢様は集まってくれた仲間達を見送った。仲間達は順番に、それぞれの思いを俺に預けて帰って行った。
奈緒を捜すために行動を共にしていた田代と柳原が並んで俺に声をかけてくる。二人とも駅の施設内だけでなく、その近くの繁華街を中心に奈緒を捜すために駆け回ってくれた。
「お前と弓月のコンビには体育祭の時の借りがあるんだからな。勝ち逃げは許さない。さっさとあいつを連れて戻って来いよな」
田代が握った拳を俺に向けて突き出してくる。俺は自分の拳を軽くぶつけ、その思いに応えた。
「弓月さんの冷たい視線がないと、何だか物足りないんだよね。僕の新たな属性開発のためにも、彼女の協力が必要なんだよ」
独り言のような、いかにも柳原らしい呟きだった。それに反して、いつもとは違った真摯な表情が印象的だった。
柳原は足早に先を歩く田代に追いつくと、一言二言、何か言葉を交わした。そのまま二人はじゃれ合うように肩を組みながら歩き始める。その姿を見て、俺は思いがけず笑みを浮かべてしまった。あの二人、いつの間にあんなに仲良くなったんだろうか。
奏お嬢様に何やら言葉をかけていた諏訪部さんが、俺の前に立った。いつもの穏やかな表情には、わずかな憂いが含まれているような気がした。
「力や技だけでは誰かを守ることができない。この世にはそんな場面も多いんだと思います。自分の無力さを感じますね。でも、彰人君は力や技を上回る心の強さを持っていると信じています。――ご武運を」
諏訪部流の武神に強さを評価されるのは面映ゆい気分だった。その言葉だけで心強くなる。
続いて小宮山が目尻に涙を浮かべながら進み出てくる。感受性が強いところがあるのだろう。小宮山は奈緒の境遇にすっかり感情移入してしまっているようだった。
「会沢ぁ……」
言葉にならない小宮山の涙声。俺は心配するなという意志を込めて力強く頷いた。小宮山、お前の気持ち十分に伝わってるぞ。必ず奈緒を連れ帰って、お前に謝らせるからな。
華ちゃんのいつもと変わらない緩んだ表情。しかし、目線だけは強く俺に向けられている。彼女からはすでに大きな思いを預かっていた。俺は自分の鳩尾のあたりを拳で叩き、その事をアピールした。華ちゃんはにやにやとした笑みを浮かべる。
「アッキーってば、格好いいねえ。奈緒が惚れるのもよくわかるよ」
彼女がどんな気持ちでそう言ったのかは分からない。だが、俺はあえて額面通りにその言葉を受け取ることにした。奈緒の恋人である俺は、華ちゃんの前では格好良く振る舞わなくてはならない。……なるべく、できる範囲でだな。 女性陣はひとかたまりになり、精神的に一番疲れているであろう小宮山を真ん中に、寄り添うように家路についた。
俺は奏お嬢様と並んで、彼らの姿が見えなくなるまで見送った。その姿が完全に見えなくなると、奏お嬢様が独り言のようにぼそりとつぶやいた。
「本当にその約束の場所にいるんでしょうか?」
「きっといますよ。たくさん話したいことを抱えているんでしょう。急に思い立って出かけただけで、すぐに戻って来るつもりなんですよ。本当は」
「……」
「奏お嬢様が言ったとおり、奈緒が戻ってくるのはこの家しかないんですから。俺は心配性だから迎えに行くだけです」
奏お嬢様と肩を並べて屋敷に戻ると、玄関先でキャサリンさんが俺達を待ちかまえていた。何事にも動じない歴戦の女傑。今も落ち着き払った表情で、簡単なお使いを命じるように俺に声をかけてくる。
「では小僧、奈緒の事はよろしく頼むぞ」
俺は深々と頭を下げた。若宮グループの財力とキャサリンさんの能力や人脈を以てすれば、奈緒を簡単に、そして安全に探し出すことができるだろう。だが、俺は奈緒を自分の手でこの若宮邸に、そして仲間達の輪の中に連れ戻したかったのだ。そう、これは俺の我が儘だった。キャサリンさんはその我が儘を受け入れ、俺達を見守ってくれているのだ。
明日の出発は早い。さっさと準備を済ませて休むことにしよう。俺は約束の地、奈緒が生まれ育った北陸の田舎町の事を思った。
続きます