母親達の願いです。(二)
西園葵。それが奏お嬢様のお母様の名前だった。彼女は奏お嬢様が五歳の時に若宮家から姿を消した。奏お嬢様から聞いていた母親の情報はそれが全てである。奏お嬢様は母親の思い出話を語ることをあまり好まなかった。――あるいは、思い出自体がなかったのかもしれない。
幼い娘を残して、家を出ていった母親の気持ちは、俺にはよく分からない。俺の思い描いている母親像とは、かなりかけ離れているからだ。
今、その人物が俺の目の前にいる。かつて自分が住んでいた若宮邸の客間。豪奢なソファに座って細い煙草をくゆらせている。十年以上前に自分から出て行った家に戻るというのはどのような気分なのだろう?
正直、奏お嬢様とはあまり似ていない気がする。一つ一つの顔のパーツはともかく、全体的な雰囲気がまるで違うのだ。西園葵からは尖った硬質な印象を受けてしまう。それは、俺の彼女に対する個人的な感情がもたらす印象でしかないのだろうか?
彼女が何を目的にこの家に帰ってきたのかは分からない。それは彼女自身も口にしていない。奏お嬢様が不在であることを伝えると、待たせてもらうと言って、自分からこの客間に入っていった。さすがに居住空間に足を踏み入れるのは遠慮したのかもしれない。
このような状況で、キャサリンさんの不在は大きな不安要素だった。キャサリンさんは月に一度、休暇を兼ねて息子夫婦が暮らす実家へと戻るのだが、その日と重なってしまったのだ。
先ほどキャサリンさんへ連絡を入れ、こちらの状況を伝えると、西園葵と奈緒を会わせないようにと厳命された。 もちろん、俺もその辺りは心得ている。奈緒へは最低限の情報だけ伝えることにした。お客様が来ているにも関わらず、自室で待機という指示を与えられた奈緒は当然怪訝な表情を見せた。だが、悠長に状況を説明している時間はなかった。西園葵は一応若宮家のお客様という扱いになる。彼女の相手は三好さんに任せるとして、俺はお茶の用意など応接のための準備をしなければならなかったからだ。
問題は奏お嬢様への連絡をどうするかだ。奏お嬢様は仕事でお出かけになっている。本来、緊急事態を除いて連絡すべきではない。
十年以上も離ればなれになっている母親の訪問は、奏お嬢様個人としては大きな出来事なのは間違いない。しかし、それを仕事中にお伝えして、ショックを与えるのはいかがなものかと思う。一方で、帰宅してから突然伝えられるよりは、心構えができるのではないかとも思う。要するに、俺の手に余る判断だったため、迷っていたのだ。
結論を出すことができず、携帯端末を握りしめながら玄関先をうろうろしていると、奏お嬢様を乗せた車が帰ってきてしまった。
俺の姿を見かけた奏お嬢様が車を降りて歩み寄って来る。
「わざわざお出迎え、ご苦労様です」
おどけたように俺に敬礼を向ける奏お嬢様。あまりに屈託のない笑顔。俺は心が重くなるのを自覚した。そして気付いてしまった。俺は奏お嬢様に連絡を入れるのを迷っていたわけではなかったのだ。
できることなら、伝えたくなかったのだ。彼女を捨てて家を出ていった母親が、この屋敷にいるということを。奏お嬢様が帰ってくるまでに、西園葵にこの家からいなくなっていて欲しかったのだ。俺の心の弱さが判断の遅さにつながっていた。
「……奏お嬢様、落ち着いてお聞きください」
「何かありましたか?」
俺の態度に何かを感じたのだろう。奏お嬢様が俺に顔を寄せ、声を低くする。俺は自分自身を落ち着かせるために一呼吸置いた。
「……お母様が、西園葵様がいらっしゃっています」
「――っ」
息を呑み、驚愕の表情を俺に向けてくる奏お嬢様。俺は無言で頷き、聞き間違いではないことを示唆する。
「そうですか……」
奏お嬢様の返事は心ここにあらずといった様子で、すでに自分の思考の中に没入しているようであった。いろいろな思いが渦巻いていることだろう。しかし、そう長い猶予があるわけではない。望むと望まざるとに関わらず、すでに再会の舞台は用意されているのだ。
「――会いましょう」
奏お嬢様が何かを振り切るように簡潔な言葉を口にした。
客間に向かう奏お嬢様に付いて歩いていると、彼女の後ろ姿があまりに儚げであることを実感してしまう。
報告を迷っている間に、宋次郎さんに連絡を入れるべきだったのだ。奏お嬢様が仕事をしていたのなら、傍には会長代理である宋次郎さんがいたはずである。奏お嬢様の叔父であり、後見人であるあの方の同席があれば、不安を和らげることができたであろう。俺は自分の考えの至らなさを痛感させられ、苦い気分になった。
今となっては手遅れである。すでに奏お嬢様は客間の
扉のドアノブに手をかけていた。そして、そのまま何の躊躇も見せずに扉を開け、客間に足を踏み入れた。
母娘の再会。俺はその瞬間を奏お嬢様の肩越しに見た。奏お嬢様の姿を認めた西園葵の表情はほとんど動かなかった。ただ、遠くの物を見るときのようにわずかに目を凝らすような仕草を見せただけだった。あまりにもあっけない再会。俺の位置からは奏お嬢様の表情を見ることはできない。
「……お久しぶりです、お母様」
「ええ、本当に」
感情の波が感じられない挨拶。胸中にはいろんな思いが渦巻いていることだろう。だが、表面的にはあまりにも落ち着いた対面だった。この十年以上の月日の間、お互いに、何度も再会の場面を頭の中で思い描いていたのかもしれない。
奏お嬢様がテーブルを挟んで西園葵の向かい側のソファに座ると、俺は壁際に立っていた三好さんの隣に並んで控えた。
三好さんは落ち着かない様子で、彼女たちを交互に見ている。二人のことを知っているだけに複雑な心境なのだろう。彼の黄緑色のメッシュが入った長髪も、この時ばかりは和やかな雰囲気を作り出すアクセントには成り得なかった。
「今日はどういったご用件でいらっしゃったのですか?」
奏お嬢様は早々に核心部に切り込んだ。そこには母親に対する情のようなものは感じられなかった。どちらかと言えば、俺がこの屋敷にやってきた頃の他者を拒絶するかのような雰囲気すらあった。用もないのに西園葵が自分を訪ねてくるはずがないといった諦めにも似た確信があるのかもしれない。
「ええ、最近若宮グループの人間と会う機会があったのだけど、妙な噂を聞いて確認したくなったのよ」
対する西園葵の方も成長した娘に対する感慨のようなものを示さない。彼女の目には今の奏お嬢様はどのように映っているのだろう? 最後に目にした娘の姿は五歳の子供のものであるはずだ。今、目の前にいる少女が自分の娘だという実感はあるのだろうか?
「妙な噂といいますと?」
探りを入れるような奏お嬢様の問いかけ。西園葵はそれには答えず、壁際に立つ三好さんと俺に視線を移した。
「……今、この屋敷にいる使用人はここにいる二人だけなのかしら?」
「……」
奏お嬢様は即答を避けた。西園葵の目的が明確にならない以上、警戒すべきだと考えたのだろう。実の母親に対してそのような態度で接しなければならない奏お嬢様の心中を思うと、いたたまれない気分になる。
「当家の使用人が何か?」
「噂が確かなら、あなたと同じ年頃のメイドが住み込みで働いているはず。その娘に会わせてもらえないかしら?」
――奈緒の事だ。噂を聞きつけわざわざ会いに来たというのなら、彼女の出生の秘密を握っていると見て間違いはない。そう、自分の元夫の娘――つまり、奏お嬢様の妹であるということを。
彼女がどのような意図を持って奈緒に会いに来たのかは分からない。だが、友好的な理由で面会を希望しているとは思えなかった。奏お嬢様のご両親が結婚した当初、奈緒の母親との間に複雑な関係があったからだ。
「……そのような用件で捨てた娘の前に姿を見せたのですか?」
奏お嬢様らしくない辛辣な言葉。俺にはその意図が理解できた。奏お嬢様は奈緒の話題を何とか反らしたいのだ。そして、もちろん二人が顔を合わせることを避けようとしている
「ええ、私にとっては大事なことだもの。さあ、ここに呼んでちょうだい」
「それは父のお葬式よりも大事なことなんですか? 随分と薄情なんですね」
「どうしてそんなにムキになるのかしら? ただ会わせて欲しいとお願いしているだけでしょう?」
「この家に縁のない人には関係のないことです」
「関係あるかどうかはあなたが決める事じゃないわね」
「その必要がないと言っているんです」
「会わせなさい!」
「嫌です!」
二人の言葉が短く直裁的なものになるに従って、感情の昂ぶりが見えてくる。俺と三好さんが二人を落ち着かせようと声をかける前に、客間の扉が静かに開いた。
その場にいた全ての人間が入り口に注目する。視線を一身に集めることになったその人物は怯えたように身を竦めた。
「奈緒っ!?」
奏お嬢様が俺と異口同音に声を上げる。その声には応えず、奈緒は目を伏せたまま西園葵の前へと進み出た。まるで刑場に引き出される罪人のように見えてしまう。
「初めまして、奥様。……弓月真奈美の娘、奈緒です」
隣の三好さんが身じろぎする気配がする。弓月真奈美は先代の下で働いていた秘書だった。面識があったのかもしれない。
このタイミングで奈緒が自ら姿を現したことは予想外だった。俺の態度や屋敷の中の雰囲気がただ事ではないことを察してしまったのかもしれない。奈緒の勘の良さが悪い方向に働いてしまったのだろう。
「奈緒、あなたを呼んだ覚えはありません。下がっていなさい」
普段の奏お嬢様からは考えられないような鋭い声が飛ぶ。
「ふうん、よく平気な顔でこの家に上がり込んでいられるものね」
西園葵の容赦ない言葉。
彼女と奈緒の母親との当時の関係や因縁は俺には知る由もない。西園葵が若宮家を出ていった原因として、その因縁が大きな割合を占めているということは考えられる。奈緒にその責任はないにせよ、心を痛めるには十分な言葉だった。
奏お嬢様がその言葉を遮るように反論する。
「お父様が奈緒をこの家に引き留めたのです。お母様に責める筋合いなどないはずです」
「奏、あなたは平気なの?」
奏お嬢様は母の質問の意図が理解できずに怪訝な表情を見せた。西園葵は一瞬俺の顔に視線を移すと、毒刃のような言葉を投げかけた。
「お気に入りの男をその娘に盗られたらしいじゃない。母娘そろって間抜けと言うべきか、それとも母娘そろって『盗人猛々しい』と言うべきかしら?」
奈緒の体がグラリと傾く。俺は慌てて彼女の傍らに駆け寄り、その体を支えた。掴んだ奈緒の肩が小刻みに震えていた。
一方的な見方、そして視点であった。しかし、そのような見え方をしてしまう立場があることも事実だった。
「私がこの家を出ていった原因があなたにある、なんて言うつもりはないわ。けど――」
「お母様っ!!」
悲しみと怒りに満ちた奏お嬢様の叫び声。それでも西園葵の舌鋒は止まらない。
「……けど、あなたという存在を私は許すことができない。それは分かるわよね」
「はい、もちろんです。奥様……」
答える奈緒の声は消え入りそうなほど小さい。その顔色は目に見えて青ざめていた。
「あなたは今、この家にいることで幸せを感じてる?」
「……」
奈緒はその問いに答えることができない。答えられないことが答えになっていた。
「一つの家庭を壊して――幸せを奪った結果があなたという存在なのよ。そんなあなたに幸せになる権利はないと思うのだけれど」
奏お嬢様がソファーから勢いよく立ち上がる。爛々と燃えさかるような瞳の光。その髪の毛の一本一本に感情がみなぎり、逆立っているかのように見えた。このように怒りを露わにした奏お嬢様は初めて見る。
「お帰りください、西園様」
激情をも凍らせたような冷徹な声。低く抑えられたその声は、逆に彼女の怒りの大きさを感じさせる。
「あなたに何が分かるというのです? この家に寄り付きもせず、好き勝手に生きてきたあなたに私達のことをとやかく言われる筋合いはありません。帰ってください。そして二度と――」
「奏お嬢様っ!」
奏お嬢様の言葉を三好さんの声が遮った。
「一時の感情に任せて心にもない言葉を口にすると、取り返しのつかないことになるものです。後に残るのは後悔の念だけですよ」
三好さんの落ち着いた物言いは、各のやり場のない感情を鎮める効果があったようだ。奏お嬢様も西園葵も何かを考え込むように黙ってしまった。
奈緒は茫然自失の有様で俺に身を預けるように立ち尽くしている。そして俺は、そんな奈緒を励ますように、その肩を掴む手に力を込めることくらいしかできなかった。
西園葵が火を付けたばかりの長い煙草を灰皿に荒々しく押しつける。
「――帰ります」
西園葵は壁際に立てかけてあったキャリーケースを引いて客室を出て行った。奏お嬢様はその場に立ち尽くしたまま、見送りに動く気配すらなかった。母子のわずかな繋がりをも断ち切るような雰囲気。二人の関係の修復は絶望的に思えた。
三好さんが奏お嬢様に一礼すると、西園葵の後を追って客室から出て行った。彼女の見送りに向かったのだろう。さすがに俺達とは経験値が違う。世慣れた先達として、働く者としての手本を見せてくれる。
客間に残された俺達は重い空気の中、お互いにかける言葉すら見いだせずにいた。
西園葵が残していった影響は大きかった。俺と奏お嬢様は、一人になりたいと言って自室に向かう奈緒の背中を見送るしかなかった。ショックを受けた奈緒に何と言って声をかけたらいいのか分からなかったのだ。
奈緒だけでなく、奏お嬢様の精神的な負担も大きかったようで、疲れ切った様子でソファから動かない。
「……奏お嬢様」
「現実は厳しいものですね」
「……」
「もう少し感動的な再会になると思っていたんですけど」
「お役に立てず申し訳ありませんでした」
「あなたが口添えをしていたら、余計に拗れていたと思います。むしろよく我慢してくれました」
奏お嬢様は顔を伏せ、立ち上がる気配もない。その姿は先ほどの怒りを露わにしていた少女とは別人のように小さく見えた。
思わずその頭の上に掌を乗せてしまった。その動きに反応するように、奏お嬢様が身じろぎをする。俺は労いの意味を込めて、その頭をゆっくりと撫でた。
「……いけないんだあ。こんなこと、気安く女の子にやるのは良くないです」
「まあ、深い意味に受け取らずに。親愛の情というやつです」
「本当にアキちゃんはダメダメですね」
「面目次第もございません」
「でも、私もダメダメなのかも。こういうことされると、やっぱり嬉しくなっちゃうんだから……」
「……」
奏お嬢様はしばらくの間、俺の手の動きになされるがままじっとしていた。そして突然、それを振り払うかのように勢いよくソファから立ち上がった。
「さあっ、これからのことを考えましょうか。奈緒の事は少し時間を置いて様子を見ましょう。キャサリンと叔父様に相談して、少しお母様の動向を探ってみます。あの人が訪ねてきた意図がいまいちよくわかりませんから」
肩をグルグルと回すおどけたような仕草を見せながら客室を出ていく奏お嬢様。本当に強い女の子だった。俺は改めて、この主に仕えていることを誇りに思った。
奏お嬢様と別れ、使用人控え室へと戻る。控え室のテーブル席にはうなだれているような様子の三好さんの姿があった。俺が無言で近づくと、まるで独り言のように語りかけてくる。
「奈緒ちゃんのことはね、薄々気付いてはいたんだよ。真奈美さんと名字が同じだったし、面影もあったしね。何より、あの歳で使用人として働くっていうんだ。訳ありなんだなとは思っていたよ」
俺には何も言うことができなかった。口止めされていたとはいえ、事情を知っていながら三好さんに内緒にしていたという負い目があった。
「真奈美さんは優秀で、旦那様に長い間献身的に仕えてきたから、二人の間に割り込む形になった奥様の味方は少なかった。私は奥様には同情していたんだよ。当時のことを知っている身からすると、お気の毒な部分もたくさんあるお人だった」
三好さんはテーブルの上に肘をつき、顔を手で被い、背中を丸めるような姿勢になった。まるで俺の目から逃れるように。
「でも……だからって、あんな酷いことを言わなくてもいいよねえ。あの子だって、いろんな苦労をしてきただろうに、あんまりだよねえ」
途中から三好さんの声は震えだし、涙声に変わっていった。
「奏お嬢様もお辛いだろうねえ。久しぶりに会ったお母様とああいう話しかできないなんて……」
彼のそんな実直な姿を見ていると、こちらの目頭まで熱くなってしまいそうになる。
壁に掛かっている時計を確認すると、十九時を回っている。三好さんの勤務時間は一時間以上も前に終了していた。
突然鳴り響く爆音とタイヤのスリップ音。この閑静な住宅街には相応しくない、非日常を感じさせる騒音だった。その場を満たしていた感傷は一気に吹き飛び、俺と三好さんはエンジン音が鳴り響く玄関先に駆けつけた。
玄関前の車止めにはレーサーレプリカのバイクに跨がる人影があった。深紅を基調とした下地に金のワンポイントが入っているド派手なレーシングスーツ。バイクから降り、俺達の前に立った人物の身長は意外なほど低かった。腰を折り曲げたそのシルエットには見覚えがある。
「待たせたのう、小僧」
ヘルメットを脱いだキャサリンさんは、俺の驚いた顔を見てニヤリと笑った。
続きます