慎みのある入院生活です。
最終話の入院中のエピソードです。
俺はバカップルという存在が嫌いだ。
恋愛感情に溺れて周りの目が気にならなくなるなんて、信じられないことだった。自覚のある恋人達は、少し自らを律することを覚えるべきだと思う。
俺は奈緒に想いを告げ、晴れて恋人同士になることができた。奈緒は魅力的な女の子で、俺になんてもったいないほどの恋人だ。控えめに言って有頂天になっている。
だが、浮かれてしまって他人に嫌な思いをさせるような、はた迷惑な存在にはなりたくない。慎みながら幸せを享受しようと思う。
一月一日、元旦。
お正月でも看護師さんたちは忙しいらしく、朝の検診以外では姿を見ていない。病院スタッフも奈緒の献身的な面倒見のよさは知っているので、俺の病室のことは彼女に任せるようにしているようだ。
怪我の具合は、時々痛みがあるくらいで、それも鎮痛剤を飲めばやり過ごせるものだった。基本的に看護師さんにしてみれば、手のかからない患者なのだ。
今日の奈緒の服装は、私服では珍しいミニスカートだった。紺色を基調としたタータンチェックのプリーツスカートに黒色のタイツ。トップスはシンプルなグレーのニット。
とても女の子らしくて、可愛い……いや、俺の恋人はどんな服装でも可愛いんだけどね、うん。
今は俺の昼食の準備をしてくれている。
もうお昼か、という思いがある。奈緒と一緒にいると時間が経つのがあっという間に感じられるのだ。
慎みのある幸せを心がけているため、午前中は奈緒と二十回くらいしかキスをしていない。
あの至福の感触を好きなだけ堪能しても構わない状況なのに、十分に一度ほどしかしていないのだ。我ながら凄まじい忍耐力だと思う。
さすがに元旦ともなると、病院食もお正月っぽいメニューになる。せいぜい薄味の黒豆の煮物や栗きんとんの小鉢が並ぶ程度なのだが、それでも時節柄を感じられる食事はこの場所では貴重だった。
しかし、メニューなどどうでも良いのだ。愛しい恋人が手ずから食べさせてくれる食事、そこに価値があるのだ。
「はい、彰人、あーん」
奈緒がいつものように俺に声をかけてくる。可愛らしく小首を傾げると、つややかなショートカットの黒髪が揺れた。
普段のクールな奈緒の言動を考えると、このような幼児を相手にするような声がけなどは、嫌がりそうなものである。
しかし、俺の世話をしている時は全くそんな素振りを見せなかった。むしろ、積極的に声をかけて、俺の行動を制限しようとする。
俺が自分で何かをしようとすると、不機嫌になってしまうことすらあるのだ。
それだけ心配をかけたということなのだろう。パーティ会場での奈緒の取り乱した姿。あんな奈緒の様子は初めて見た。あの事件は俺達にとってショックが大きすぎたのだ。奈緒が過保護すぎるのは、その裏返しなのだと思う。
俺の世話をしているときの奈緒があまりに幸せそうなので、俺はあえて彼女になされるがままにしていた。
俺の昼食の片付けが終わると、奈緒は二十分ばかり席を外し、慌ただしく病室に戻ってくる。
自分の食事の時間すら惜しむようにして、俺に付き添っていようとするのだ。一人でゆっくりする時間も必要なのではないかと思い、そうするように勧めるのだが、頑として従わない。
「私と一緒じゃ、嫌?」
逆に寂しそうにそう聞いてくる。奈緒のいろんな顔を見たいとは言ったが、そんな表情が見たいわけじゃない。
嫌なはずがない、慌ててそう答えると、奈緒は安心したように微笑んだ。
……やばい、奈緒が可愛すぎて、どうしても顔が緩んでしまう。ここは戒めの意味も込めて、奈緒と恋人同士としての慎みというものについて確認しておこう。
「奈緒、ちょっと確認しておきたいことがあるんだ」
「……はい」
奈緒は俺の真剣な様子に何かを感じたのか、倚子に姿勢良く座り直して表情を引き締める。
「こうやってお前と恋人同士になれたことは嬉しい、だが……」
「私も凄く嬉しかった。浮かれてしまって、昨夜はあまり眠れなかったくらいだもの」
「いやいや、浮かれてる度合いなら俺の方が上だろ。奈緒みたいな可愛い女の子が恋人なんて、世界一の幸せ者だと思う」
このあと、どちらがより幸せかということを、たっぷりと語り合うことになってしまった。
咳払いを合図に話題を修正する。
「……でだ、話を戻すけど、浮かれてしまってバカップルになってしまってはいけないと思うんだ」
「バカップルって、恋愛に夢中で周りに嫌な思いをさせる人達のことでしょ?それはそうだけど……でも、私たちにそんな部分があるのかしら?」
「いや、全くといっていいほど、そんな傾向は見当たらないんだけどな。念のための確認だ。『慎みながら幸せを享受する』を今年の目標にしようぜ」
「ふふっ、はい。でも、彰人はそういうところがしっかりしていて頼もしいわ。安心してついていけるもの」
「いやいや、奈緒の方がしっかりしてるだろ。看護師さん達もまるで奥さんみたいだって……」
このあと、俺達はお互いの良いところについて、たっぷりと語り合うことになる。
奈緒も『慎みながら幸せを享受する』という方針には賛成してくれている。まあ、確認するまでもなかったが、俺達がバカップルになる可能性は完全になくなったと思っていいだろう。
何日かお風呂に入ってないせいか、背中にムズムズとした痒みがあった。何気なく奈緒にそう告げると、待っていましたとばかりに表情を輝かせる。お湯を張った洗面器とタオルを即座に用意して、俺のシャツを脱がしにかかる。
俺はあっという間に上半身を裸にされていた。
俺達は無言だった。俺の方は何となく気恥ずかしくて話すことが思いつかなかったし、奈緒の方はいつものように俺の世話をすることに夢中になっていたからだ。
適度な力加減で、お湯を含んだ温かいタオルで背中を擦られる。とても気持ちがよかった。
他人に体を拭かれるなんて記憶にない経験だったが、赤ん坊の頃は母親にこうしてもらっていたのだろう。
気恥ずかしくはあるが、悪くない。幼い頃に母を亡くしていたし、家庭環境が複雑だったため、誰かに甘えるという行為を知らなかった。自分でも気がつかなかったが、母性を求める心理が俺の中にあったのかもしれない。
奈緒は俺の体を一通り拭き終えたが、ベッドに腰を下ろしたままだった。ひんやりとした手が、俺の背中や肩を撫でている。
「え、と?どうしたのかな?」
「結構、筋肉ついてるのね」
「ま、まあな。一応男の子だから……」
そんなに素肌を撫で回されると変な気分になってくる。奈緒の息づかいが、わずかに乱れているように感じられる。
慎みのある幸せ、何度も頭の中で念仏のように唱えた。しかし、今この病室には俺達の他には誰もいないではないか。
ああっ、もう、どうやって我慢しろっていうんだよ、こんなの。
俺は奈緒に向き直り、その両肩を掴んだ。思い切り指を食い込ませたくなる衝動を何とか抑え込む。
奈緒は不意を突かれて少し驚いたようだったが、そっと瞼を閉じて俺の想いに応えてくれる。
その時、奈緒の肩越しに、わずかに開いていたドアから親父が病室に足を踏み入れるのが見えた。
……おおーい、奈緒さん?あなた、ドアを開けっ放しですよ?ちょっと、らしくないんじゃないですかね?
親父は俺と目が合うと、困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
親父の心中を思うと、そのような反応になるのも頷ける。新年早々、入院している息子を見舞ったら、上半身裸の姿で、ベッドの上で女の子の肩を掴んでいるのだ。気弱な親父には刺激が強すぎるだろう。
俺としても、同じように曖昧な笑みを返すしかない。何なんだ、この新年最初のご挨拶は?
とにかく、この事実を奈緒に知られてはいけない。このような状況を俺の父親に見られたことを知ったら、羞恥で一週間は立ち直れないだろう。そして、ことあるごとに思い返しては叫び出したくなるような古傷になってしまうのだ。布団の中でバタバタと身悶えするような黒歴史。奈緒にそのような思いをさせたくはなかった。
親父は弱々しい笑みを顔面に貼りつかせたまま、ドアの方をチョイチョイと指差すと、音もなく病室を出て行った。どうやら事態を察してくれたようだ。
キスを待っている奈緒が俺の動きがないことを訝しんで、目を開けて様子を窺う。そして、俺の目線を追い、病室のドアが開いていることに気がついた。
「やだ、ドアが開けっ放しだったのね、ごめんなさい」
「い、いやあ、誰も来なくて良かったよな、なっ?」
我ながら酷い演技力である。
奈緒がベッドを降りて、ドアを閉めに向かう。廊下でタイミングを窺っていたのだろう、親父が再び姿を現した。
「えっ、お父様?……明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」
「やっ、やあ、奈緒さん。あっ、明日にはおめでたですかっ!?」
親父っ、挨拶がおかしいだろ!俺の演技力は父親譲りだったのか、道理で嘘が下手なわけだよ。
とにかく、奈緒に恥ずかしい思いをさせてはいけないという、俺と親父の認識は一致しているようだ。
奈緒は先程までのベタベタに甘い雰囲気を微塵も感じさせることなく、しっかりとした態度で親父に対応していた。切り替えが凄すぎる。
対する親父の方はしどろもどろの振る舞いだ。しかも、この時期に考えられないくらいの汗をかいている。頼むぞ親父、何とか踏みとどまってくれ。
親父はボロを出さないうちにと、最低限の挨拶と報告を済ませると、早々に病室を引き上げた。去り際に、俺にだけ聞こえるように「お父さんはお前を信じてる」との言葉を残して行った。
その点は安心してもらいたい。慎ましく幸せを享受する、それが俺達の共通認識だ。今回、秘め事を見られてしまったわけだが、未遂だったし、見られたのも身内だったのでノーカウントということでいいだろう、うん。
「お父様、お忙しいのかしら?それに、少し様子がおかしかったみたいだけど……」
「いやあ、ほら、宮子も受験を控えてるし、一人にはしておけないだろ。それに、俺のことは奈緒に任せておけば安心だって思ってるんだよ、きっと」
俺は思いつくことを一気にまくし立てた。勘の鋭い奈緒のことだ、普段なら何かをごまかそうとする俺の態度に気付いただろう。だが、今回に関しては最後の言葉が効いたようだ。
「そ、そうなのかしら?お父様にそう思っていただけたのなら嬉しいんだけど」
奈緒は満更でもない様子で照れている。
安堵のため息をついていると、奈緒が俺に身を寄せるようにしてベッドに腰を下ろしてきた。
上気したつややかな頬。何かを訴えかけるような潤んだ瞳。覚えたてのキスに夢中になっているのは、俺だけではないのだ。
俺は奈緒の腰に手を回し密着させるように引き寄せると、奈緒の口から熱い吐息が洩れた。
その吐息ごと奈緒の唇を奪う。
優しく扱いたいと思っているのに、どうしても余裕のなさが出てしまう。がっつくように奈緒の唇を貪った。
「……ん」
口が塞がれているため、奈緒の鼻からくぐもった声が洩れる。色っぽくて、喉元にまで欲望がせり上がってくる。腰に回した手が勝手に動いて、奈緒の体をまさぐるような動きになってしまう。
何とか理性を保っていられたのは、消毒液の臭いが鼻孔を満たしていたからだ。それが俺達に、ここが病室であることを常に意識させていた。
唇を離し呼吸を整えていると、奈緒が切なそうな表情を見せる。俺達はお互いに息を乱しながら見つめ合った。
不意に奈緒がベッドに身を乗り出し、俺の下唇を咥えて、はむはむと甘噛みしてきた。まるで俺の唇を味わっているような動きだった。奈緒はクールに見えて、実は情熱的な女の子なのだ。
このやり取りは、俺の傷が痛みだしてしまうまで続いた。
我ながら、よく飽きないものだと呆れてしまう。しかし、今まで奈緒に気持ちを我慢させていた分、しばらくの間は思い切り愛情を感じさせてやりたいとも思うのだ。
これからも、こんな幸せな時間がずっと続くのかと思うと、顔面の筋肉と頭のネジが緩んでしまいそうになる。
何度も念を押すようだが、バカップルになってしまわないように気をつけなければならない。慎みながら幸せを享受する。それが俺達の今年の目標だ。