二つの世界の融合です。
若宮邸の自室で、俺は真っ白に燃え尽きていた。
部屋には芳弘と竜平が一緒にいて、くつろいだ様子でベッドに座っている。
芳弘達三人が若宮邸に宿泊することになったのはいいのだが、予想通り俺にとって好ましくない展開になった。
食堂での夕食の間、話を反らそうとする俺の必死の抵抗にも関わらず、雛子が俺の過去のエピソードを次々と暴露したのだ。
俺が受けたダメージは小さくなかった。誰にだってやり直したい過去や、叫びだしたくなるような恥ずかしい思い出があるものなのだ。雛子は黒歴史をそっとしておいてもらいたい思春期男子のプライドなど、全く意に介することはなかった。
奏お嬢様も奈緒も楽しそうに雛子の話を聞いていたが、時々頬が引きつるのを俺は見逃さなかった。
今は三人一緒にお風呂に入って、俺のさらなる情報を交換しているはずだった。
竜平が同情するような表情で俺に声をかけてくる。
「いやあ、なかなかの惨劇だったな」
同じく思春期男子である竜平達は、俺の立場を理解し、情報の提供に関して手加減してくれていた。武士の情けというやつである。
「それにしても、お前、あの二人の前じゃよほどいい格好がしたいんだな」
芳弘は奏お嬢様と奈緒のことを言っているのだろう。長い付き合いだし、こいつらの前では隠しようがない。
「いい格好というか、まあ、みっともないところは見せたくないよな」
「で、どっちが好きなんだ?」
竜平は冷やかすような軽い気持ちで聞いるのだろうが、俺にとっては重要な問題だった。
今の状況を誰かに話したことはないが、親友達との再会が俺の背中を押したのだろうか、少し突っ込んだ相談をしてみる気になった。
「マジな話なんだが、気持ちの整理が全然つかないんだ。自分の気持ちが分からなくなってるっていうか……」
「どういうことだ?」
少し真剣さを帯びた俺の声に、二人も態度を改めて話を聞いてくれる様子だ。
「うーん、奏お嬢様は俺にとって大恩人だってのが最初にあるわけだよ。どうしても感謝の念を個人的な感情から切り離すことができない」
俺は言葉を探しながら自分の心の中を整理した。
人に話すことによって自分が見落としていた感情が見えてくるかもしれない。
芳弘と竜平はぽつりぽつりと語られる俺の言葉を辛抱強く待ってくれていた。
「もちろん、俺が奏お嬢様に好意を持っているのは確かなんだけど、女の子として好きかどうかってのを判断するのが難しい。本当に恋愛感情からくる好意なのかどうか、自信が持てないんだ」
「つまり、基本的には奏さんのことが好きで、気持ちがハッキリすれば彼女を選ぶってことなのか?」
「それがなあ、奈緒に対してもやっぱり好意とか信頼があるのは確かで……」
「おいおい……」
「いや、言いたいことは分かるけど、俺達の関係ってかなり複雑だからさ」
呆れたような竜平に少し言い訳じみた説明をしてしまった。確かに複雑ではあるが、俺がしっかりと自分を持っていれば済む話なのだ。
芳弘は何かを考え込んでいたが、遠慮がちに俺に確認してきた。
「俺が気づいているくらいなんだ、あの二人がお前のことが好きなのはとっくに知ってるんだろう?だとしたら、恩人の奏さんに遠慮してるってことは考えられないのか?奏さんの好意を断るのが辛くて、奈緒さんを選べないって可能性は?」
「そういうのも、もちろん考えた。けど、考えれば考えるほど分からなくなってさ。とにかく、不誠実な答えは出したくないんだよ。二人とも俺にとって大切な人であることに間違いはないんだから」
竜平が芳弘の言葉にショックを受けている。
「あの二人って、そうなのか?彰人はどっちも選び放題ってことかよ?この裏切り者がっ」
「ちっともいい気になれないんだよな。むしろあの二人に申し訳なくて」
「なあ、俺みたいな非モテが言うのも何だけど、考えすぎるのも良くないんじゃないのか?あまり思わせぶりな態度をとるのも不誠実だと思うぞ」
「……ああ、分かっちゃいるんだけどな」
俺の気持ちは、相変わらずはっきりとしなかった。助言を求めたところで、二人に与えられる情報は限られているし、今日一日しか俺達のことを見ていないのだ。結局は俺自身の気持ちに従って、結論を出さなくてはいけないことだった。
しかし、芳弘と竜平に話をすることで、少しは気が楽になった気がする。今日はこれで満足するべきだろう。
「まあ、せいぜい悩むんだな。恋愛の苦しみが人を成長させることもある」
「……さすが、モテ男さんは言うことが違いますなあ」
竜平がしらっとした目で芳弘を見た。
今年の春先、芳弘とクラスメイトの女の子が付き合うことになった時、一番ショックを受けていたのは竜平だった。その後、その女の子との交際はどうなったんだろう?
「芳弘は、あの子とはどうなったんだ?ほら、同じクラスの槙原さん。新学期早々告られて、付き合うことになっただろ?」
「ああ、とっくに別れてるよ。それでも友達同士みたく付き合えるんだもんな。俺には理解できん」
俺の質問に答えたのは、いかにも納得いかなそうな竜平の声だった。芳弘が涼しい顔で応じる。
「恋人として上手くいかなかっただけだ。悪い奴じゃないし、クラスメイトなんだから当然だろ」
「へえ、槙原さん、可愛かったのにな」
「芳弘、お前、槙原さんとキスしたのか?」
「何でそんなことを答える必要がある?」
「お前とキスしたら、槙原さんと間接キスしたってことになるんだよな……」
「馬鹿っ、止めろっ、近づくな!」
竜平の悪ノリに付き合って、俺も一緒に芳弘をベッドの上で抑え込む。俺達はうっとりとした表情で目を閉じ、唇を尖らせて芳弘に迫った。いつもは冷静な芳弘だったが、そのおぞましさには耐えられなかったのだろう、ベッドの上で必死に暴れて抵抗した。
「彰人、こんな時間に何を騒いでるの?」
おもむろにドアが開けられ、奈緒が部屋に入ってくる。その後ろには奏お嬢様と雛子の姿も見えた。
どうやら風呂から上がった後、俺達と同じように三人で奈緒の部屋にいたようだ。
ベッドの上で無理矢理芳弘の唇を奪おうとしている俺達を見て、奈緒の表情が固まった。さらに、奈緒の肩越しに部屋を覗き込んだ奏お嬢様の目から光が消える。そして、雛子の悪魔めいた笑い。
「あのう、これには事情が……」
「あーあ、ついにバレちゃったね。あんた達の禁断の三角関係が」
「雛子っ、てめえ!」
「いつもいつも、私のことはほったらかしで、三人でイチャイチャしてたもんね。久しぶりの再会で燃え上がっちゃったかな?」
「アキちゃんがお尻に興味があるのって……」
「馬鹿馬鹿っ、何を言い出してんだっ!?」
俺は奏お嬢様のとんでもない発言を慌てて遮った。この人、そんな知識をどこから仕入れてるんだ?
「もっと、男性っぽく振る舞った方が良いのかしら?」
奈緒は今後の参考にするべく、自分の考えを検討しているようだ。変なところで前向きだな、こいつ。
確かに奈緒の男装はよく似合っているけど、俺は女の子っぽい服装の方が好きだ。
男三人そろっての必死の釈明で、奏お嬢様と奈緒の誤解を何とか解くことができた。しかし、事態が沈静化する頃には時計は午前零時を回っていた。芳弘と竜平は疲れた様子で自分達が泊まる客室へと戻った。
雛子も俺達を散々からかって満足したのか、自分に割り振られた客室に入り、賑やかな夜は終わりを迎えた。
奏お嬢様の寝室で、俺は複雑な思いに捉われていた。
少し離れた部屋で友人達が眠るこの寝室で、二人の女の子とベッドを共にしているのだ。仕事とはいえ、少し後ろめたい気分にもなる。
仰向けで寝ている俺の右側には奏お嬢様、左側には奈緒、いつもの配置でベッドに入っている。
ベッドでは奏お嬢様と奈緒がお風呂で雛子と話したことについて語り合っていた。ほとんどが俺への駄目出しだったことは言うまでもない。
今は俺が雛子の上履きを懐で温めるという嫌がらせ……いや、サービスついて意見を交換している。冷え性の雛子に喜んでもらおうと、豊臣秀吉が織田信長の草履を懐で温めたというエピソードを再現したのだ。冬場に生温かい上履きを手にした雛子は、薄気味悪さで鳥肌を立てていた。
奏お嬢様と奈緒は俺の過去の行動を検証し、これくらいなら自分は許容範囲だといったチキンレースのようなことを始めていた。
ちなみに上履きを温める行為については奏お嬢様は生理的に受け付けない、奈緒は許容範囲とのことだった。奏お嬢様いわく、靴の臭いを嗅がれてしまうのが耐えられないらしい。自分は匂いを嗅ぐのが大好きなくせに乙女心はよくわからない。
「雛子さんももちろんですけど、皆楽しい人達ですね、それにいい人です」
「ええ、俺もそう思います」
「彰人は前の学校に帰りたいって思う?」
奈緒がためらいがちに俺に問いかける。そんなこと、考えたこともなかった。この場所にいるのが当然だと思っていたから、以前の環境と比べるようなこともなかったのだ。
「どうだろう?懐かしいとは思うけど、今の生活を捨ててまで戻りたいと思うかどうか……」
「ごめんなさい、答えにくい質問よね。でも、私は……私達は彰人が帰るって言い出したら、何としてでも止めるから。泣いたり、喚いたり、どんな手を使ってでもね」
「奈緒……」
「そうですね。もうアキちゃんは、私達に必要な存在ですから。雛子さん達には申し訳ないけど、帰したくありません」
「カナまで…」
俺なんかには過ぎた評価だった。俺もこの二人に必要とされる限り側にいたいと思っている。
この先、俺達がどんな関係になろうとも、その思いだけは変わらないはずだ。
奏お嬢様は奈緒が俺に気持ちを伝えたことを既に知っている。あの夜、俺達三人が初めて一緒に添い寝をした日の翌日、奈緒が奏お嬢様にそのことを告げたのだ。恋愛方面では意外と臆病なところがある奈緒にしては思い切った行動だった。
それでも二人の間にはわずかなわだかまりも見られない。希望的観測かもしれないが、少なくとも俺にはそう見えた。
いつでも俺に結論を迫ってもいい状況だったが、二人は静かに俺の答えを待ってくれている。
我ながら甘やかされ過ぎだろうと呆れてしまう。二人の寛大さにつけ込んでいるような状態なのだ。
それだけに焦りが募る。この二人の信頼を裏切るような真似だけはしたくなかった。
翌日の文化祭も慌ただしく時間は過ぎて行った。
二日目の講堂使用スケジュールは俺達の劇が最初の演目になっていた。そのため、午前中はずっと準備と片付けを含めた作業にかかり切りだった。
午後になって、劇の後片付けが落ち着くと俺は芳弘達と合流した。奏お嬢様と奈緒も俺達と一緒に行動している。
昼食代わりに飲食系の屋台をはしごしながら、他のクラスの出し物を見て回った。
俺達は華ちゃんに呼び込まれるままに二年五組の教室前に移動した。
華ちゃんのクラスはお化け屋敷をやっているのだが、入場の際に奈緒との間に一悶着があった。
「文化祭のお化け屋敷なんて子供だましみたいなものでしょう?他を見て回った方がいいんじゃないかしら?」
明らかに奈緒の様子がおかしかった。挙動不審で目が泳いでいる。
華ちゃんはニヤニヤしながら、思わせぶりにたっぷりとした間を取りながら確認してくる。
「まさかとは思うけど……そんなことはあり得ないとは思うけど、怖いの?」
「そんなはずないでしょう!?」
華ちゃんの「怖いの?」という問いかけの『こわ』くらいで、つんのめるようにして答える奈緒。
俺達一同は完全に察してしまった。
「だよねえ、子供だましのお化け屋敷が怖いわけないよねえ?」
華ちゃんの執拗な挑発に奈緒は引っ込みがつかなくなってしまったようだ。皆で入場することが決まっても、真っ白な顔色ながら、強気な態度を崩さない。
あーあ、相変わらず負けず嫌いだよなあ。
ドアを開け、カーテンをくぐって暗闇の中に入ると奈緒の様子が一変した。
いつもは姿勢よく歩いている奈緒が、腰が引けたようにそろりそろりと内股で歩いている。
か弱い小動物のように辺りを警戒し、物音にいちいち大げさな反応を示した。
「ほ、ほらっ、子供だましじゃない。ただ暗いだけだもの、全然怖くないわよね。それにこのチープな造りが笑いを誘うわよねっ」
まず饒舌な奈緒というのが珍しい。暗闇の中で一番よく喋っていた。
自分に言い聞かせるようなひとり言が多くなるにつれ、俺の制服の裾を掴む手に力が入る。
そんな奈緒の様子を見て、奏お嬢様からクレームが出る。
「ちょっと、奈緒、そういうの反則じゃないですか?ギャップ萌えは禁止っ、禁止にしましょう」
奏お嬢様は奈緒の動きに気を取られすぎて、お化け屋敷の仕掛けには全く動じない。驚かせようと張り切って登場したお化けを、一顧だにせずスルーされては五組の生徒もたまったものではないだろう。お化け屋敷泣かせの客だった。
一方の奈緒は奏お嬢様の言いがかりに全く対応できない状態だ。大きな物音が鳴ったり、お化け役の生徒が登場する度、小さく悲鳴を上げて、口数が少なくなっていく。
あらゆる意味でお化け屋敷とは相性の悪すぎる二人だった。
ゴール近くになると、奈緒は固く目を閉じ俺の腕にしがみついて動けない状態だった。俺の腕は完全にロックされて、奈緒の胸のふくらみに埋まっている。
俺は仕方なく奈緒を引きずるようにして移動した。これだけ苦手なのに、分かりやすい挑発に乗る直情ぶりに、逆に感心した。
「ずるくないですか、あれ。可愛いにも程があるでしょう?」
出口付近に華ちゃんの姿を見つけると、奏お嬢様が俺達を指差しながら必死に訴えかけた。
さすがの華ちゃんも予想外のクレーマー登場に困惑気味だ。
「いやー、これほど効くとは思わなかったからさあ……破壊力あるよね」
「ちょっと卑怯すぎますっ。あの可愛い生き物、抱きしめたくなっちゃいますもん!むしろ、私が男の子ならお持ち帰りしてますもん!」
何を言ってるんだ……この人は?おかしなクレームだったが、奏お嬢様の言い分も分からなくもない。
いつもは凛としている奈緒が、俺の腕にしがみついて、子供のようにガタガタ震えている姿は確かに新鮮だった。
「若宮ちゃん、知ってた?アッキーの腕、二本あるんだよ?」
華ちゃんの苦し紛れの提案に、奏お嬢様は天啓を受けたように目を輝かせた。つつっと俺の隣に移動すると、俺の空いている右腕にぶら下がるようにしてしがみついてくる。
「ちょっと、奏お嬢様?」
「奈緒はいいのに私は駄目なんですか?」
やさぐれたような半眼が怖かった。どうやら俺に拒否する権利はないようだ。
後が詰まっているからと、華ちゃんにその状態のまま教室から追い出されてしまった。俺は両腕に二人の女の子をぶら下げた状態で校内をねり歩くことになった。芳弘達は俺達からあえて距離を取り、一緒にさらし者になるのを避けている。友達甲斐のない連中だ。
夕暮れの校門前、付近では店じまいを始めている屋台が多かった。閉会宣言はされていないが、後片付けの手間を考えると早めに動いた方がいいとの判断なのだろう。
まさに祭りの後といった風情で、深まる秋の気配と共に寂寥感を呼び起こす。
俺は芳弘達を見送るために校門前にいた。奏お嬢様と奈緒、そして小宮山と諏訪部さんも一緒に彼らを見送ってくれている。
雛子は小宮山や諏訪部さんとメールアドレスの交換をしていた。芳弘と竜平が奏お嬢様に宿泊させてもらったお礼を言っている。ひとしきりの挨拶、お礼、そして連絡の約束などを済ませると、三人揃って俺の前に立った。
別れを惜しむような雰囲気は、今の俺達の間にはなかった。むしろ新しい何かを手に入れたような、満足そうな表情が並んでいた。
雛子が少し言いにくそうな様子で口を開く。
「お正月は高天津に帰ってくるんでしょうね?」
「何だよ、気が早いな」
「夏休みには会えると思っていたのに、お前、帰って来なかったからな。こいつの機嫌が悪くて大変だったんだぞ」
「竜平、余計なこと言わないで!」
「まあ、待ってたのは俺達も同じだけどな」
芳弘の言葉がわずかな胸の痛みをもたらす。この翠ケ浜、そして若宮邸での生活は俺にとって大切なものであることは間違いない。しかし、こいつらと過ごした時間だって、俺という人間から切り離すことができない、かけがえのない宝物だった。
忙しさにかまけて、彼らとの旧情を顧みなかったことは反省すべきだった。絆の強さに甘えて、相手の気持ちに鈍くなってしまうのは俺の悪い癖だった。
「近いうちに会いに行く。今度は俺の方からな」
三人と順番に軽く拳をぶつけ合う。ゴールデンウィーク最中の高天津駅のホーム、旅立ちの日を思い出した。
長い影と共に小さくなっていく三人の姿。あの日のような不安や寂しさは俺の胸の中にはない。寄り添うように俺の傍らに立つ二人の女の子。彼女たちや、他の様々な人達との出会いが、そのような感情を入り込ませる隙間を作らせなかったのだろう。