これが血のなせる業です。
修学旅行から帰って数日後、その日の若宮邸では使用人達が慌ただしく働いていた。
大事なお客様が来る予定があったのだ。
若宮グループ会長代理若宮宗次郎、つまり奏お嬢様の叔父さんだ。後見人として、若宮家の様子を見にくるとのことだったので、使用人としては失礼があってはいけない。使用人一同の気合いが入るのも当然だった。
「会長代理ってどんな人なんだ?」
俺は客室を一緒に掃除している奈緒に聞いてみた。
奏お嬢様の父親の弟ということは、奈緒にとっても叔父さんということだった。
「そうね、立派な人だと思う。経営センスもあるし、何より裏表のない人だから信頼できるわ」
俺は奈緒が最後にぼそりと付け加えたセリフを聞き逃さなかった。「他の人とは違ってね」奈緒はそう言った。
そうではない人物が若宮家の親族には多い、そういうことなのだろう。
「その……お前達が姉妹だってことは、知っているのか?」
「ええ、ご存知よ。私達の数少ない味方だから」
どうやら親族間でも複雑な相関図があるらしかった。それが奈緒が若宮家を遠ざけていた理由でもあるのだろうか。
奏お嬢様が客室に顔を出して俺達に話しかけてきた。
「二人ともご苦労様。叔父様がいらっしゃるの少し送れるみたいだから、それを考慮して動いてください」
「わかりました」
「会沢、体調は大丈夫ですか?」
「はっ、はい。だいぶ良くなりました」
「無理はしないでくださいね」
「……ありがとうございます」
俺は後ろめたい気分になった。実はここ数日、風邪を引いたと偽って添い寝の仕事を休ませてもらっているのだ。
理由は、そう、俺の気持ちの問題というやつだ。
奏お嬢様の俺に対する気持ちを聞いてしまって、変に意識しているのだ。
俺から見ても奏お嬢様はとても魅力的な女の子だ。そんな子と添い寝をするためには、いろいろな感情を我慢する必要がある。今までは雇い主と使用人という壁を意識することで、欲望に歯止めを効かせることができた。しかし俺のことを好きだと言ってくれている女の子と考えると話は別だ。相手を欲望のはけ口とすることに対する免罪符を得たような気持ちになってしまう。
とても今までと同じような心理状態で添い寝をすることができそうになかった。
奈緒は何か言いたそうな素振りで俺を見ていたが、結局何も言わずに掃除を続けた。
若宮宗次郎氏は四十代前半だと聞いていたが、それより十歳は若く見えた。
スマートで鼻筋が通っていて、切れ長の目が涼しげな色男だった。高そうなスーツをさりげなく着こなしている。
これが血のなせる業というものだろうか、絵に描いたような貴公子であった。
奏お嬢様を抱擁し、西洋式の挨拶を交わす姿が様になっている。
玄関ホールに並んで出迎える俺達使用人とも一人一人と言葉を交わし、握手をする。
俺は初めて会う若宮家の重鎮に少し緊張していた。
奏お嬢様と宗次郎さんは食堂で夕食をとることになっていたので、俺達使用人は給仕のため一旦調理室の方へ下がった。
調理室では奈緒が配膳の準備を始めている。俺は気になっていたことを奈緒に問いかけた。
「何て言うか、その、あまり叔父と姪って感じじゃなかったよな」
宗次郎さんと奈緒の会話のことだった。それは他の使用人達と変わらないもののように見えた。
奈緒はそれでいいのだろうか?
「当然じゃない、他の人達は私の出自を知らないのよ」
「そうか、そうだな」
奈緒の答えは簡潔なものだった。これ以上は俺が口を挟むべきことではない。
少し気になったが、俺は自分の仕事に専念することにした。
食堂は穏やかな空気が流れていた。久しぶりの会食は奏お嬢様にとっても楽しめるものとなったようだ。
奏お嬢様が学校での出来事を身振り手振りを交えて話すのを、宗次郎さんは楽しそうに聞いていた。
そして豪華な料理に舌鼓を打つ。
宗次郎さんは今日の食事が奈緒が作ったものだと聞くと大げさなくらいに褒め称えた。
「腕を上げたな、奈緒。これなら将来、この家の事を任せても何の心配もいらないな」
「ありがとうございます、宗次郎様」
「叔父様、お料理だけじゃないのよ、奈緒は学校でも私の事をいつも助けてくれて……」
「かっ、奏お嬢様、その辺で……」
照れた奈緒が慌てて奏お嬢様の話を遮り、そのまま宗次郎さんも交えて三人での会話が始まる。
叔父と二人の姪っ子の会話であった。
俺は少し安心した。そこには家族の温かさがあるように思えたからだ。やはり宗次郎さんも、肉親として奈緒のことを気にかけてくれているのだろう。
食事が終わり、俺は宗次郎さんに食後のコーヒーを給仕していた。
俺を値踏みするような宗次郎さんの視線。穏やかな表情ではあったが、目は笑っていないように感じる。
「会沢君、だったかな?君と二人きりで話がしたい」
突然の申し出に俺は戸惑った。それは奏お嬢様や奈緒も同じようで、不安そうな表情を見せている。
えっと、なあに、その表情は?この人、まさか変な趣味があったりしないよね?俺のデリケートゾーンは大丈夫なんだよね?
客室に移動すると、俺と宗次郎さんは客室のテーブルを挟んでソファーに腰を下ろした。
俺は廊下を移動する時も客室に入って席に着く時も、なるべく宗次郎さんにお尻を向けないように注意した。こんな偉い人にお尻を向けるなんて失礼だからだ、うん。
宗次郎さんは俺に断りをいれて、タバコに火をつけて煙をくゆらせた。
特に前置きもなく、いきなり会話が始まった。
「何が目的だ?」
「はい?」
「君の家の借金は無期限無利息で若宮家が負担しているはず。要するに金は返さなくても構わないということだ。君がここで働く理由はないはずじゃないかな?」
「ええと、俺達の誠意の問題です。お金はきっちりとお返しするつもりです」
「若宮グループ内で少し問題になっていてね、会長が金で男を買ったという下世話な噂が流れている」
「それは……」
「私には敵が多くてね、奏に会長職に就いてもらっているのは、そういう事情もあるんだ。私が会長職に就く事は認めないが、奏なら認めるという親族が多い。若い奏なら自分たちの言いなりにできると思っているんだろう。正直なところ、奏には重荷を背負わせていると思っている」
「……」
「だから奏が攻撃されるような材料は潰しておきたいんだ」
「俺にどうしろと?」
「すぐにでも、この家から出て行ってもらえないだろうか」
「俺としても、奏お嬢様に迷惑をかけることは本意ではありません」
「だったら……」
「ですが、俺の主人は若宮奏様ただお一人です。どうしても俺をこの家から追い出したいと言うのなら、奏お嬢様の口から命令してもらってください。残念ではあるけど、それなら従わないわけにはいかない」
「ふむ、それが奏のためになると分かっていてもか?」
「正直、俺には若宮グループのことも若宮家の親族のこともよく分かりません。ですが、奏お嬢様のことは誰よりもよく分かっているつもりです。自分のことはご自身で決めることができる人です。俺は奏お嬢様が決めた事を尊重したい。そして俺は彼女が必要としてくれる限り、全力で仕え続けたいと思っています。」
宗次郎さんは深みのある眼差しで、俺をじっと見つめている。俺はその威圧感に押されながらも、その視線から目を反らす事はなかった。
室内を緊張感のある沈黙が支配した。
その沈黙を破ったのは客室の重いドアが開く音だった。部屋に入って来たのはキャサリンさんだった。
「そのあたりでよろしいでしょう、宗次郎様」
「さすがはあんたが見込んだ若者だな、なかなか面白い男のようだ」
宗次郎さんがくだけた口調でキャサリンさんに笑いかける。その姿は社会的地位のある大会社の幹部というより、悪戯好きの子供のように見えた。
宗次郎さんは無造作にネクタイを緩めると、姿勢を崩して俺に向き直った。
「ああいう言い方をしてしまったのは許してくれ。君にも若宮グループのことや奏の立場を少しは知っておいてもらいたかったんだ」
「奏お嬢様が難しい立場にいるのはよく分かりました」
「ああ、そして君への要望は半分本気でもある」
「……」
「奏の禍いとなるのであれば、無理にでもここから去ってもらう。私の権限でね」
厳しい言葉を投げかけられているにも関わらず、俺はこの人物に好意を持った。
宗次郎さんの奏お嬢様を守ろうとする姿勢は本物だ。確かに信頼に足る人物のようだった。
「キャサリンさん、いつも済まないな。この家をあんたに任せっきりにしてしまって」
「宗次郎様にはやるべき事が多すぎるでしょう。この家の事くらいはお任せください」
「奏と奈緒だが、何やら雰囲気が変わったな。何と言うか、本物の……」
「今も二人並んで客室のドアに張り付いておりましたわい。追い返しておきましたがのう」
宗次郎さんとキャサリンさんは顔を見合わせて大笑いした。二人の立場を考えるとあまりに気安く、親密すぎる気がした。
俺はその辺りが気になって、宗次郎さんに質問してみた。
「キャサリンさんとは長いんですか?」
「ん?ああ、私が物心ついた時にはもうキャサリンさんはキャサリンだったからな」
おかしな言い回しだった。俺の疑問が顔に出ていたのだろう、宗次郎さんが説明してくれた。
「何だ、聞いていなかったのか?キャサリンとはメイド業界での称号だよ。その名前は代々優秀なメイドに受け継がれる。歌舞伎役者の襲名みたいなものだな。キャサリンの名を持つメイドは、時に仕える主人をも越える権力を持つ事がある」
「ええ?じゃあ、キャサリンって本名じゃなかったんですか?」
「当たり前じゃ、わしのどこに欧米要素があるんじゃ」
キャサリンさんがしれっと答える。
「じゃあ、キャサリンさんの本名って……」
「梅沢菊じゃ」
『お梅さん』であり『お菊さん』であったわけですか。俺は力の抜けた笑いを洩らしてしまった。
宗次郎さんが俺のことをどう評価したのかは分からない。しかし、とりあえずは俺が奏お嬢様の側で仕えることは認められたようだ。
少しでも信頼を得られるように頑張っていかなくては。
その夜、俺は覚悟を決めて奏お嬢様の寝室へと向かった。奏お嬢様には今夜から添い寝の仕事に復帰すると伝えてある。仕事を放棄するわけにはいかないのだ。
しかし、どうしてもドアをノックすることができない。俺の事が好きだと言った時の奏お嬢様の真剣な顔が、何度も脳内でリプレイされてしまう。
俺は寝室のドアの前で立ち尽くしてしまった。
宗次郎さんの前で全力で奏お嬢様に仕えると言ったばかりではないか。
このままでは与えられた仕事を全うすることができない。
こんなことを相談していいのか分からなかったが、他に相談できる相手もいない。
俺は意を決して奈緒の部屋のドアをノックした。
奈緒は深夜の俺の訪問に驚いたようだったが、事情を聞くと俺の手を引いて奏お嬢様の寝室へと向かった。
奏お嬢様は奈緒と俺が連れ立ってやってきたことを訝しんでいたが、何か思うところがあったのか、黙って俺達を寝室へと招き入れた。
全く奇妙な会談だった。俺と奏お嬢様が床に正座をして、その前に奈緒が立っているという構図だ。誰かの指示があったわけではないのだが、自然にその配置になってしまったのだ。
自分で言うのも何なのだが、実にしっくりくる。
奈緒が正座している俺達の周りをぐるぐると回りながら話し始める。
「彰人が奏お嬢様の気持ちを知ってしまって混乱しているようだけど、何を今さらという感想しかないわね」
「ええっ?」
俺と奏お嬢様は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「そんなことは誰の目にも明らかだった。知らなかったのは本人だけでしょうね」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
「お前だって驚いてただろ」
「……だって、あんなに思い切り良く発表するなんて、思わなかったんだもの」
奈緒がすねたような口調でつぶやく。
「でも、それで変に意識するようになってしまったのは困りものよね」
奏お嬢様が下唇を噛みながら、神妙な顔つきで奈緒の話を聞いていた。
「彰人は信頼できる男ではあるけど、若い男女のことだもの、そんな状態で添い寝を続けるのは良くないでしょうね」
……まあ、そうなるよな。
奏お嬢様の睡眠障害も以前に比べたら随分良くなっているらしいし、このあたりが潮時かもしれない。
添い寝以外の方法で不眠症を克服する方法を探っていくのが自然なのだろう。俺自身もいろいろと我慢する必要がなくなるしな。
内容の方は置いておくにしても、俺に任されていた重要な仕事のひとつが無くなるかと思うと、寂寥感に満たされてしまう。
しんみりとしている俺をよそに、奈緒が続けざまに堂々と言い放った。
「奏お嬢様に何かあってはいけないので、私が加わって三人で添い寝をするべきだと思います」
「……………………ああ、分かった。お前、馬鹿なんだな?」
この子は何を言い出してるの?どうするの、これ?早く止めないと大変なことになっちゃうよ?
「いいでしょう、私の方に異存はありませんっ!」
「……」
奏お嬢様と奈緒が顔を紅潮させながら話を進めていく。
奈緒が奏お嬢様の健康とか周囲への影響とか抑止力とか、もっともらしい理屈を並べて自分の案を正当化しようとしている。
奏お嬢様がその理屈にいちいち大げさに賛同し、強引な流れを作ろうとしている。
俺はその二人の間でなす術もなく事態の推移を見守っているだけだった。
俺はこの姉妹を見誤っていたのかもしれない。この子たち、俺が思っていたよりずっと奇人のようです。
これが血のなせる業ということだろうか、若宮家の血筋恐るべし。