恋の前哨戦です。
奏お嬢様と奈緒の入れ替わり生活が終了した事で、お昼休みに教室を埋め尽くしていた見物人は姿を消すはずだった。
しかし、お昼休みの我がクラスにはあいかわらず人が溢れており、明らかに俺達の方をチラチラと見ている気配がする。
クラス内では、またひとつ新たな噂が流れていた。
若宮奏と弓月奈緒が予想通り会沢彰人に愛想を尽かして、百合に走ったという噂だった。
……予想通りってどういうことだろう、ここの噂って俺に悪意がありすぎるよね?
机を並べてお弁当を食べている俺の目の前で、その噂の原因となっているひとつの現象が繰り広げられている。
とにかく奏お嬢様が必要以上に奈緒にベタベタとくっついて離れないのだ。今も椅子を隙間なく並べて、接着されているかのように奈緒に寄りかかっている状態なのである。幸せそうに顔を緩ませているのは奏お嬢様だけで、奈緒は困惑しきっている様子だった。
奏お嬢様がしなだれかかるように体重を預けているので、正直お弁当も食べづらそうだ。
「彰人、これ、何とかならない?」
「俺の力じゃ、どうしようもない。飽きるまで好きにさせるしかないだろうな」
「いつになったら飽きてくれるのかしら?」
「本人に聞いてくれよ」
「……反対側が空いてるけど、良かったら彰人もくっついてみる?」
「……」
奈緒の顔がみるみる紅潮する。見ているこっちが気の毒になってしまうほどの見事な赤面だった。
これがこのクラスにおけるもう一つの劇的な変化だった。
奈緒が俺をからかおうとしているのか、やけに積極的な言動をするようになったのだ。
そのくせ、そういう行為に慣れていないものだから、自分自身が恥ずかしい思いをして顔を真っ赤にしてしまう。無茶をするなと言いたかった。
まるで自分がダメージを受けるのを厭わず攻撃を仕掛ける、勇敢と無謀をはき違えた戦士のようだった。俺は奈緒のこの変化のことを『狂戦士状態』と名付けた。
奈緒は「自分の心のままに生きることにした」と言うのだが、この防御を無視した超攻撃的スタイルが彼女に合っているのかどうかが少し心配だった。
奈緒が顔を真っ赤にするたびに教室がざわめいた。確かに自分の言った事に恥じらっている彼女の姿は新鮮で魅力的だった。
だが、この状況は何なのだろうか?
俺の周囲は一層混迷を極めているように見える。
午後からのホームルームでは十月初めに予定されている修学旅行の最初の打ち合わせが行われた。
行き先は奈良・京都という定番コースで、三泊四日の旅行になる。
見学や自由行動日などを一緒に行動することになる班のメンバーは俺、奏お嬢様、奈緒、諏訪部さん、そして何故か柳原といういつものメンバーにあっさりと決まった。
「史跡めぐり、楽しみですね。できれば自由時間に行ってみたい場所があるんですが」
歴女の一面をもつ諏訪部さんが珍しく興奮して意見を主張していた。
京都の地図をケータイ端末に表示させて、はしゃぎながら奏お嬢様に説明している。意外な諏訪部さんの素顔を見ることができた。
「諏訪部さんのおすすめの場所はどこなの?」
「そうですね、池田屋は建物が残っていませんし七条油小路辻はただの通りですからね、私的には楽しみ方はあるんですけど、皆さんも一緒となると八木邸くらいですかね」
うん、全部新撰組による惨殺事件があった場所だね。血なまぐさい事件じゃなくて、あくまでも新撰組が好きなんだよね、きっと。
その日の放課後、バスケ部のイケメン田代が俺を訪ねてきた。俺は奏お嬢様と奈緒に声をかけて先に帰ってもらい、田代の用件を聞くことにした。
田代は人目につきにくい階段脇のロッカーの陰に俺を連れて行った。このように周囲をはばかるような行為は田代にしては珍しいものだった。
「何?内緒話なの?」
「お前のクラス、修学旅行の班は決まったのか?」
「ああ、今しがた決まったけど」
「若宮と弓月はやっぱりお前の班にいるのか?」
「いるよ?」
「自由行動の日、俺達の班と一緒に行動できないか?」
そこまで聞いて俺は得心した。田代は奏お嬢様に少し気があるようなのだ。
修学旅行と言えば、そういう募る想いを持て余している学生にとっては一大イベントだ。
でも、どうして奈緒の名前まで出たんだろう?
「実はさ、若宮のこといいなって思ってたんだけど、体育祭の弓月を見て、そっちも気になるっていうか……」
「……」
俺は力なく笑ったが、心の中は田代への申し訳なさで一杯だった。彼が気になっている女の子、どちらともベッドを共にしているのだから。何か決定的なことがあったわけじゃないが、後ろめたい気持ちになってしまう。
田代が真剣な様子で俺に問いただしてくる。
「お前、いろんな噂を聞くけど、どちらかと付き合ってたりする?」
「いやあ、そういうわけじゃないけど……」
「だったら、恨みっこなしだからな。正々堂々といこうぜ」
まぶしいくらいの爽やかさだった。青春の息吹が充ち満ちている。
それに比べて俺の汚れっぷりときたら……ここ最近の彼女達への接し方を思い返してみる。恥ずかしい部位に何度も指を突き立てようとしたり、毎晩胸に顔を埋めながら同じベッドで一緒に寝ていたり、とても人に話せないような事ばかりだった。
俺は自己嫌悪に苛まれ、田代の顔をまともに見ることができなかった。
とりあえず、行き先に関しては俺の一存ではどうにもできない。時間と場所がうまく合わせられるなら合流しようという段取りで田代には納得してもらった。
教室に荷物を取りに戻ると、俺を待っていたかのように小宮山が話しかけてきた。
近頃の小宮山は可視境界の限界に挑戦するかのような短いスカートはやめたようで、ごく普通の丈のスカートを身につけている。意外と素直なんだろうか、人の忠告は受け入れるタイプのようだ。
「田代に呼び出されてたみたいだけど、何の話だったの?」
「あー、うん。修学旅行の自由行動日に一緒に行動しないかって」
「……そっか、あんたの班、若宮がいるもんねぇ」
小宮山は無理に作ったような笑顔を浮かべた。
俺の恋愛のしがらみに対する耐性はそれほど高いものじゃない。状況が複雑になってくると対処のしようがなくなるのはわかっていた。にも関わらず、俺は小宮山に提案してしまっていた。
「お前の班も、一緒に来るか?」
「えっ、でも……」
「まあ、応援とかはしないし、できないけどな。俺だって人の面倒見られるほど、そういうことに慣れているわけじゃないし」
「あんた、はっきりしなさそうだもんねぇ」
「うるさいよ。その気があるなら、班の奴らを説得しておけよ。田代にも言ったけど、俺達が決めたコースにそちらが合わせることになるだろうからな」
俺達の班には諏訪部さんがいる。いつもは大人しくて控えめな諏訪部さんだけど、歴史の街を巡る旅行では彼女が主導権を握る事になるだろう。
俺には小宮山と田代を無理にくっつけるつもりなんてない。ただ、小宮山に自分の意思で何かを選ぶ機会を与えてやれるなら、そうしてやりたかったのだ。
それにしても、いろいろと気を遣う自由行動日になりそうだった。
小宮山と田代の件については、俺は中立という立場でいいだろう。
しかし、奏お嬢様と奈緒が絡んでくることに関して、俺はどのような立場でいたらいいのだろうか。
もちろん、小宮山と同じように積極的に田代を応援するつもりはない。
だが、田代に場のセッティング以上の協力を求められたとき、どういう行動をとるかを自分に問いかけておく必要があるのではないだろうか。
週末には修学旅行で必要な物を買い揃えるために駅前のデパートに出かけた。
全国に店舗を展開している有名なデパートで、この辺りでは一番大きなショッピングスポットだった。
自由行動の班のメンバーに華ちゃんが加わるといういつもの組み合わせだ。気心の知れた友達同士、買い物というより遊び半分で店内をぶらついているという側面が強かった。
この機会に自由行動日に田代と小宮山の班が一緒に行動することを伝えておく必要があった。
ここで反対されたら彼らには諦めてもらうしかない。
「いいんじゃないですか、大勢の方が楽しいでしょうし」
諏訪部さんは屈託なく了承してくれた。
華ちゃんは苦笑いを浮かべながら、同情するように俺の肩をポンポンと叩いた。
「アッキーってば、また面倒な事を引き受けてるんだねえ」
「僕は反対だな、リア充とビッチなんてこの世から排除すべき二大勢力じゃないか。会沢君には分かるよね?リア充がとっかえひっかえ好き勝手やるから、会沢君みたいな非モテが女の子に相手にされないんだよ。それと、ビッチは顔で男を判断するから、会沢君なんてゴミ虫みたいに扱われるよ?今まで生きてきた経験で分かってるよね?」
「……奏お嬢様と奈緒は?反対ならそう言ってくれ」
「私は別にかまいません。だって、会沢や皆も一緒なんですから」
「私も特に気にならないわ。気に入らなければ追い返すだけだから」
何やら雑音が聞こえてきたようだが、全員の了承を取り付けることができた。
後は先方次第ということになる。こちらに予定を合わせられるなら合流ということになるだろう。
そして修学旅行前日。
奏お嬢様は興奮して、なかなか寝付けないようだった。
一通り修学旅行の話題を終えると、いつも通りに奈緒の話題になった。
最近、奏お嬢様と添い寝の時にベッドの中でする話といえば、奈緒のことばかりだった。妹と仲直りできたのがよほど嬉しかったのだろう、しばらくはこの状態が続くのが予想できた。
奏お嬢様は今日の奈緒がいかに妹らしかったかを力説している。
俺の目にはいつもの奈緒と変わりなかったように見えたのだが、奏お嬢様には違った姿が見えているのかもしれない。
クラスで噂になっていた二人の只ならぬ密着は、今は平常どおりに戻っている。
諏訪部さんの「やり過ぎると嫌われてしまいますよ」という真っ当な忠言が原因だった。
その言葉に思うところがあったのか、奏お嬢様は必要以上にベタベタすることを我慢しているようだ。
奈緒は諏訪部さんの手をとって感謝をしたらしい。
奏お嬢様は立場が入れ替わっていた頃の、俺と奈緒の添い寝の様子を聞きたがった。
さすがに零式あたりの詳細については説明するわけにはいかなかったので、少し曖昧な表現になってしまったかもしれない。
それが奏お嬢様には不満だったようだ。唇を尖らせて特に気になっている部分を問いただしてくる。
「アキちゃん、まさか奈緒にまでお尻に……あんなことしてないでしょうね?」
どうやらお尻に関する一連の行為のことを言っているらしい。
いくら俺でもそこまで非常識ではない。あんなことを誰彼構わずやっていたら、警察のお世話になってしまう。
「あれは『カナ』にだからできたことで、奈緒にはそんなことしませんよ」
「本当でしょうね?」
「あと、『奏お嬢様』にもそんなことはしないので、安心してください」
「えっ、しないんですか?」
「えっ?」
「えっ?」
「…………」
心底不思議そうに聞き返してきた奏お嬢様と意思の疎通が上手くいかず、おかしな間ができてしまった。
奏お嬢様が真っ赤になって取り繕うように言い募る。
「とっ、とにかくっ、あんなこと他の人にやっちゃいけません!」
「はあ」
「でっ、でも、私にしかしないのなら、どこに触ってもいいですよ……」
「……」
何だかとても凄いことを言われたような気がする。
奏お嬢様はシーツで顔を隠しているため、どんな表情をしているのかは分からない。
それきり二人で黙り込んでしまった。
結局俺達はそのまま寝てしまい、試しにどこかを触ってみるようなこともなかった。
少し惜しいことをしたかもしれない。
修学旅行初日、俺達は新幹線で西へと向かっていた。
移動すること約二時間、京都駅に到着したのは午前十一時頃だった。京都駅の駅ビルや、駅前の街並が意外なほど近代化されているのに驚いた。古都と呼ばれるこの地のイメージとはかけ離れていたからだ。
俺達はチャーターバスで今日から三日間宿泊する旅館へと移動した。
旅館とは言っても、個人客が利用するような風情のある日本家屋ではなく、外観が近代的な団体客向けの宿泊施設だった。俺達に割り振られた部屋は四人部屋の和室。この部屋で柳原の他にクラスの男子二人と寝泊まりすることになる。
この旅館を拠点として、奈良や京都各所の見学をするのだ。
旅館の大広間で昼食を済ませると、俺達はチャーターバスに乗って奈良へと向かった。
今日の見学先は東大寺大仏殿、春日大社、奈良公園の一帯となっていた。
その辺りは観光名所がそろっており、修学旅行の定番スポットであった。
俺達は有名な奈良の大仏を見物したり、諏訪部さんに参拝の作法を教わって春日大社を参拝したりと、わりと真っ当な見学をしていた。
そして鹿が生息していることで有名な奈良公園。
その日の天気は快晴で、公園で動物と戯れるには絶好の陽気だった。鹿せんべいを購入して公園内を散策していると、人に慣れた鹿は餌がもらえると分かっているのだろうか、俺達の側へ近づいてきた。
修学旅行のしおりによると、奈良公園の鹿は飼われているというわけではないらしい。どのような管理をされているのかは分からないが、あくまで野生動物という位置づけのようだ。
野生生物と呼ぶには人間に依存しすぎている気もするが、その愛くるしさの前では些事なのだろう。
女子達が歓声を上げながら鹿を迎え入れ、頭をなでたり鹿せんべいを与えたりしている。何とも微笑ましい光景だった。
俺も子鹿に癒されて、ニヤニヤが止まらなかった。傍目から見るととても気持ちが悪かったと思う。
しかし、その穏やかな光景の片隅で少しずつ変化が起きていることに気づいている者は少なかった。
鹿が奏お嬢様の周りに集まり始めたのだ。しかも、集まったのは立派な角を持った牡鹿ばかりだった。
奈緒と諏訪部さんの周りには子鹿や牝鹿が集まって、相変わらず和やかな空気に満ちている。
奏お嬢様を取り囲んだ牡鹿達はその立派な角で、彼女をつんつんと突っつき始めた。
最初はじゃれあいのような軽いスキンシップだったのだが、その角は奏お嬢様の体の一点に集中するようになっていった。
牡鹿達が狙っていたのは、奏お嬢様のお尻だった。彼女のデリケートゾーンを仕留めようと、牡鹿達が先を争って角を繰り出しているのだ。
初めのうちは鹿と一緒に戯れていた奏お嬢様だったが、その執拗な攻撃に今やお尻を押さえながら必死に逃げ回っている。
俺は何故か牡鹿達に親近感を抱いていた。
どうしてだろう?必死で逃げてる奏お嬢様って追い回したくなっちゃうんだよね。
「ちょっ、ちょっと会沢っ、落ち着いて見ていないで何とかしてくださいっ!」
「すみません、奏お嬢様。俺、そいつらの気持ち、何となく理解できちゃうんですよね」
「人間の気持ちを理解してくださいっ!」
その様子はとても活き活きとして楽しそうだった……鹿が。
その夜、旅館の廊下で大浴場へと向かう奈緒と華ちゃんに遭遇した。
女の子の浴衣姿というのは、どうしてこんなにも魅力的に見えてしまうのだろうか。
「やあ、アッキー。これから奈緒の生まれたままの姿を思う存分堪能させてもらうぜえ」
センスがオヤジだよ、華ちゃん。俺と華ちゃんがいつものノリで会話を続けていると、奈緒が思い切ったように話に加わってきた。
恐れを知らない狂戦士状態だった。
「彰人も私達と一緒にお風呂に入る?」
俺と華ちゃんはピタリと会話を止めて奈緒をじっと見つめた。
最初のうちは耐えていたものの、奈緒はすぐに口の端をピクピクとさせて顔面を紅潮させた。
汗の量が尋常じゃない。
「いやー、私は大好きだよ、頑張ってる奈緒のことが。挑戦する姿が美しいよね」
華ちゃんの心からのエールに奈緒は両手で顔を覆って背中を向けてしまう。
今回のダメージは甚大なようだった。俺は何とか奈緒を励まそうと、気づいた点を指摘した。
「いや、ドキッとはするんだよ。だから、その点では成功していると思う。けど、恥じらってる姿を見せちゃったら結局イニシアチブは取れないんじゃないかと……」
「解説しなくていいからっ!」
奈緒は大浴場の方へスリッパをパタパタと鳴らしながら走って行った。……あいつにもいろいろと乗り越えるべき目標があるんだろうな。俺はその道のりの険しさを思い、嘆息した。
「逃げてしまうとは、まだまだ修行が足りんな」
華ちゃんが俺に敬礼を捧げると、軽快な足取りで奈緒を追って行った。
奈緒のことは頼んだ、俺はその場に行って彼女をフォローすることはできない。
いや、できることなら行きたいんだけどね。
そんな修学旅行の一日目の夜だった。




