初めての仲直りです。
九月も中旬に入ってくると、夏の盛りの暑さは和らぎ、朝晩は過ごしやすくなってきていた。
新学期に入ってからというもの、俺は無言の登校を強いられていたので、並んで歩いている二人の女の子の夏服姿を何となく眺めていることが多かった。
この夏服姿を眺めていられるのもあとわずか、そう思うとかすかな寂寥感を感じてしまう。
今日も俺達三人の登校は無言で行われていたが、今までとは少し様子が違っていた。
昨日までは、若宮と奈緒お嬢様は常に俺を間に挟むようにして、決して二人が並んで歩くことはなかった。徹底した小競り合いが続いていたのだ。
しかし、今朝の二人は寄り添うように並んで歩いている。正確に言うと、若宮が奈緒お嬢様の隣にべったりとくっついて歩いているのだ。
緩んだ顔つきで寄ってくる若宮から離れようとする奈緒お嬢様。
すると若宮が無言でその距離を詰める。
先ほどからこの奇妙な追いかけっこの繰り返しだった。
俺には若宮の心の動きを察することができた。
昨夜の奈緒お嬢様の言葉を聞いたことが原因なのだろう。嫌われていると思っていた妹から、ああいう言葉を聞いたものだから、盛大に浮かれているのだ。
若宮のおかしな態度を奈緒お嬢様が怪訝に思っている。盗み聞きの件がばれたりしたら、大変なことになるのを理解しているのだろうか?
若宮には後でもう一度釘を刺しておく必要があった。
昼休みに時間を作ってくれと若宮に頼まれたので、俺は華ちゃんにお願いして、奈緒お嬢様を昼食に誘ってもらうことにした。華ちゃんは何も聞かずに俺の依頼を引き受け、奈緒お嬢様を教室から連れ出してくれた。本当に彼女には頭が上がらない。
俺は購買部で買い物をした後、若宮が待っている屋上へと向かった。
「何とかしてください」
「どうしたんだよ、藪から棒に?せめて飯を食いながら話そうぜ」
俺は唐突に騒ぎ始めた若宮をなだめて、辺りの様子をうかがった。
以前の柳原の時のように、誰かに話を聞かれてはまずいと思ったからだ。
屋上には俺達の他には人はいないようだった。
俺は適当な場所に腰を下ろして、購買部で買ったサンドウィッチの袋を破いた。
「のんきにご飯なんて食べてる場合じゃありません、愛し合っている姉妹の仲が引き裂かれているんですよ?こんなに悲しいことがありますかっ!?」
「お前さ、馬鹿なんだろ?自分が勝手に喧嘩を始めたんだろうが」
「チチチ、勝手に、じゃありませんよ。元はといえばアキちゃんが私に変な情報を与えたからじゃないですか」
立てた人差し指を目の前で振りながら舌先を鳴らす若宮。
こいつ、浮かれておかしな精神状態になってやがる。
俺は少しイラッとしたが、一応話を聞いてやることにした。
「変な情報?何のことだよ」
「アキちゃんが奈緒から私達が姉妹だって聞いたって情報です。そのことを奈緒と話してる時に言い争いになったんですよ?ほらほらほらー、アキちゃんのせいで喧嘩が始まったことになりますよね!」
「言いがかりじゃねーかよ」
「とにかく、どう責任を取るんですかっ?早くマイ・ラヴリー・シスター奈緒ちゃんを返してくださいっ!」
「……お前、ちょっとケツ出せよ。今度はきっちり根元までいってやるよ」
若宮はお尻を押さえながら飛び退った。
要は仲直りをしたいから協力してくれということなのだろう。本当に単純な奴だ。
それにしても、いちいち癇に障るこの言い回しは何とかならないものなのか。
「奈緒の方だって、大好きなお姉ちゃんと一刻も早く仲直りしたいはずなんです。どうするんですか、これ?」
「謝ったらいいだろ、全面降伏するんだよ。なんなら土下座の仕方教えてやろうか?俺の土下座は芸術品だぞ」
「はあー、アキちゃんって本っ当に道理ってものが分かっていませんよね。子供の頃から知ってましたけどね、って……何ですか、その構え?その指をどうしようって言うんですかあっ!?」
俺達はしばらく屋上で追いかけっこをした。恋人同士がいちゃつきながら嬌声を上げているわけではない。俗に言うカンチョーの構えをしている俺から若宮が必死で逃げ回るという地獄絵図だった。
俺達は本当に主人と使用人の関係に戻れるのだろうか?
「喧嘩の経緯、憶えていますか?私の主張は奈緒と本当の姉妹みたいに生活したいってことだったんですよ?私だけが謝ったらそれを諦めるってことになるじゃないですか」
「そうなるのか?」
「せめて引き分けで終わらせて、判断は保留ってことにしてもらわないと」
「……」
こいつはこいつで色々と考えているんだな。
それにしても無理難題が過ぎるのではないだろうか。
真剣に話し合いをしているつもりなのだが、実際は肩で息をしながらおかしな構えで対峙している俺達。
俺は刀を構える武士のように、人差し指を立てた両手を組んで体の脇で引き絞り、いつでも目標を貫けるように構えていた。若宮は素早く逃げられるように、野球でいう盗塁を狙うランナーのように腰を落とし、小刻みに左右に揺れている。
人に見られてはいけない姿だった。
これでは奇人のレッテルを貼られても文句は言えないだろう。
「分かったよ、協力はする」
「本当ですかっ?」
「ああ、任せておけ。この翠ケ浜の謀将を見くびってもらっては困る。竹中半兵衛も思いつかないような奇策を伝授してやるよ」
二人の喧嘩を収めるのは元々俺の望みでもある。
そのためにこんな無茶な入れ替わりにも付き合っているのだ。
目を輝かせた若宮が頼もしそうに俺を見つめている。
俺は早速、自慢の頭脳をフル回転させた。
その夜、俺と若宮は若宮邸のリビングルームで並んで土下座をしていた。
それは見事なツイン土下座だった。
奈緒お嬢様がソファーに座って俺達を見下ろし、見届け人のキャサリンさんが同席している。
「何が『翠ケ浜の謀将』ですか、あの時の感動を返してくださいよっ」
「うるさいっ、土下座の作法は教えてやっただろうが」
「ええ、ええ、それだけは竹中半兵衛よりも上だと認めてあげますよ」
「俺まで土下座する必要なんてないのに、付き合ってやってるんだぞ?少しは感謝しろよ」
床にへばりつきながら俺と若宮は小声で悪態を叩きあっている。
有り体に言うと、何も良い案を思いつかなかったのだ。言い訳するつもりはないが、あまりにも時間が足りなかった。若宮は一刻も早く仲直りしたがっていたため、十分に一回、何か思いついたかを確認してきた。そのしつこさに追い込まれて、結局伝家の宝刀を抜くしかなかったのだ。
ただし、これは全面降伏ではない。俺達は主張すべき部分は主張した。
本当の姉妹のように暮らしていきたい、この要望だけは取り下げるつもりはなかった。
それを奈緒お嬢様に認めさせるための攻撃的な土下座なのだ。
「さっきから、何をコソコソ話をしているの?ちゃんと説明するつもりがあるのかしら?」
「はいっ、意思統一ができていなかったので。申し訳ありませんっ!」
俺達はそろって床に頭をこすりつけるようにして平伏する。
……全面降伏では、ない。
「繰り返しますけど、お互いの主張はとりあえず保留で、とにかく早く仲直りしたいんですっ」
「……」
「でも、少しだけ考えてみてくれませんか?姉妹としての私たちのことを」
若宮が切々と訴えた。
とにかく奈緒お嬢様の感情に訴えて、ストレートに寛恕を請う。
そのための手段としては俺の得意技である土下座に勝るものはないのだ。
こうやって言うと格好よく聞こえるから不思議だ。
奈緒お嬢様は困ったように俺達を見ていたが、何か思い当たることがあったのか、表情を曇らせ俺に問いただしてくる。
「彰人、あなたまさか何か余計なことを喋っていないでしょうね?」
「言ってないっ、喋ってません!」
奈緒お嬢様は俺の心を読もうとするかのように、じっと目をのぞき込んでくる。
俺はわずかに気圧されたが、何とかその視線を受け止め続けることができた。
「そうね、信じるわ。あなたはそういうことを喋っちゃう人じゃないものね」
俺は内心罪の意識に苛まれた。
確かに嘘はついていないが、結果的にそれよりも酷い形で事態に荷担している。
隣の若宮にもそういう意識があるのか、複雑な表情であらぬ方向を向いていた。
「いいでしょう、あなた達の要求を受け入れます」
俺と若宮は勢いよく頭を上げ、満面に喜色を浮かべた顔を見合わせた。
心なしか奈緒お嬢様も安心したような表情に見える。
「私も自分の進路については、まだ曖昧に思い浮かべていただけだったし、少し考えてみようと思います」
黙って事態を見守っていたキャサリンさんが奈緒お嬢様に声をかける。
「奈緒よ、お前さんは気が済んだのか?」
「そうですね……立場が変わっても、変わらないものってあるんですね。それに気づくことができたので満足しました」
「ふん、なるほどな」
キャサリンさんは得心したようにニヤリと笑ったが、俺にはどういうことなのか理解することができなかった。
「まあ、今のお前なら若宮家とのしがらみも、自分の将来のことも、今までとは違った考え方ができるじゃろう。急ぐ必要はない、ただ自分の心に従って考えてみることじゃな」
「……はい」
「では、入れ替わりは今日で終了じゃ。明日からは元の生活に戻ってもらう。……小憎、ご苦労じゃったな」
キャサリンさんが俺に向けてウインクをしてきたので、俺は思わず仰け反ってしまった。
若宮が奈緒お嬢様に子犬のようにじゃれついている。
奈緒お嬢様は迷惑そうにしながらも、それを止めさせようとはしなかった。
今夜は奈緒お嬢様との最後の添い寝になる。
すでに入れ替わりの終了宣言はなされたのだ、俺達がベッドを共にする理由はないはずだった。
にもかかわらず、俺達は大きなベッドに並んで横になっていた。
どちらも今の状況に違和感を唱えることはなかった。
「長かったような、短かったような、変な気分ね」
「いきなり全てを元に戻すのは大変でしょうね」
「ふふ、もう普通の喋り方でいいのよ」
「いえ、明日の朝までは今のままで」
今の俺は建前上、仕事として若宮家のお嬢様と添い寝しているという状態なのだ。
口調や態度を変えてしまうと、状況が一変してしまう。
親しいクラスメイトの女の子とベッドを共にしていると意識してしまったら、理性で欲望を抑えきれるかどうか不安だった。
「先程のキャサリンさんとの話ですけど」
「ええ」
「立場が変わっても変わらないもの……どういう意味ですか?」
「……」
「……奈緒お嬢様?」
「この入れ替わりで、私達の関係が劇的に変わるのだと思っていたわ。だって以前の私にはそう見えていたから」
「はあ」
「あなたは執事として私の事をいつも見守ってくれていた、気遣ってくれていた。そして大切にしてくれていた。それはもう、奏お嬢様に対するのと同じようにね」
そこまで大層なものだっただろうか?
思い返してみても、格別な努力をしていたつもりなどなかった。
「でも、少し経つと疑問に思ったのよ。今までと何が違うんだろうって」
「え?」
「言葉使いも態度も全然違う、でも以前と同じように彰人は彰人だった。メイドの弓月奈緒に対しても、奈緒お嬢様に対しても、表向きの態度は違っても本質は同じ。常にいろんなことに気を配って、機転が利いて、おおらかで、我慢強くて、涙が出そうなくらい優しくて、そして少しいやらしくて」
最後の台詞で俺達は身を寄せ合うようにしてクスクスと笑った。
この人は、どれだけ俺のことを見てくれているのだろう。自分自身が自覚していないような俺の内面をこんなにも明確に理解してくれているのか。
俺は必要以上に感情が盛り上がってしまわないように理性の手綱を引き締めなければならなかった。
「とにかく、私達の関係に今までとの違いはほとんど感じられなかったのよ。だとしたら、これ以上入れ替わっている事に意味はないでしょう?」
「そうですか」
「むしろ変えなくちゃいけないのは、私自身なのかもしれないわね。私が本当に満たされるためには……」
納得できたような、できないような。奈緒お嬢様の内面では何かしらの決着がついたのだろう。
それが彼女にとって良い変化に繋がればいいのだが。
「それにしても明日からが大変ですね、奈緒お嬢様って呼び方は全く違和感がなかったんですけどね」
「変えなくていいんじゃないかしら?」
「え?そういうわけには……」
「さすがに『お嬢様』は不要でしょうね」
「……奈緒?」
「はい……」
こうして、一週間に及ぶ俺達の入れ替わり生活は幕を閉じた。
明日の朝から元通りの立場の二人と接することになる。二人への態度を元に戻すには、かなりの努力が必要になりそうだ。
最初の入れ替わりよりも、はるかに苦労することになるだろう。
奏お嬢様と奈緒の入れ替わりが始まったのは土曜日、そして終わったのも土曜日だった。
『喫茶店いるか』一番奥のテーブル席、六つの席が全て埋まっていた。
俺と奏お嬢様、さらに華ちゃんと諏訪部さんが奈緒によって招集され、そこに何故か柳原も同席している。
何が始まるのか聞かされずに呼び出されたため、説明を求めるような視線が奈緒に集まっていた。
奈緒は自分の隣に奏お嬢様を立たせると、その肩に手を置いて何の前置きもなく話し始めた。
「改めて紹介します、私の姉さんの若宮奏です」
「ええっ!!?」
俺と奏お嬢様は驚いて声を上げてしまったが、他のメンバーは何のことなのか理解できずにきょとんとした顔をしている。
無理もない、話が唐突すぎて冗談としてもできが悪い。
奈緒は順を追って自分の身の上と、奏お嬢様との血縁関係を説明し始めた。
話すべき事を話し終えると、奈緒はじっと皆の反応を待った。俺もそわそわしながらその様子を窺っている。
事実を知った一同はさすがに驚いた様子だった。
華ちゃんはくわえていたストローをテーブルの上に落とし、柳原は身じろぎしてお冷やのコップを倒してしまった。
諏訪部さんは持っていたティースプーンを飴細工のように捩じ切ってしまって、マスターと華ちゃんに謝っている。
……細かい事を気にしてはいけない。それほど驚いたということなんだ、うん。
「奈緒と若宮ちゃんの間に何かあるとは思ってたけどさ……」
「驚きましたね」
驚きによる放心状態から回復した華ちゃんと諏訪部さんが、口々に感想を述べる。
「でも、少し安心したな。奈緒は天涯孤独の身ってわけじゃなかったんだね」
「黙っていてごめんなさい。でも、私個人だけの話じゃなかったから」
「ううん、いいんだよ。確かに気軽に話せることじゃないよねえ」
「弓月さん、さっぱりした顔になっています」
諏訪部さんも安心した様子だ。
彼女も常に二人のことを気にかけていてくれた。
「そうね、いろいろと吐き出して楽になったのは確かね」
「その調子で言いたいことを全部言っちゃいなよ、まだ抱えているものがあるだろうよ」
華ちゃんがニヤニヤ笑いながら俺と奈緒を交互に見る。
とても分かりやすいサインだった。また奈緒に怒られても知らないぞ。
「そうね、今後はそうしていこうかしら」
予想に反して、奈緒は悪戯っぽい笑みを浮かべながら華ちゃんの冗談に乗ってきた。
華ちゃんは唖然とした表情で奈緒を見つめている。
「はあー、人ってこんなふうに変わっちゃうんだねえ。本当にアッキーってば何でも変えちゃうんだ」
華ちゃんが感心したように俺に囁いた。
似たようなことを誰かに言われたような記憶がある。
俺は何かを変えているのだろうか?少し違うんじゃないかと思う。
影響を与えているんだとしても、誰かの変わろう、何かを変えようという意思をほんの少しだけ後押ししている程度なんじゃないだろうか。
俺には何かを強引に変えてしまうような圧倒的な力はないはずなのだ。
でも、わずかな力であっても俺の大事な人達の後押しができるのなら、こんなに嬉しいことはない。
少し誇らしい気持ちだった。
「でも、どうして急に……」
奏お嬢様は嬉しさと戸惑いが入り交じった複雑な表情で奈緒に尋ねた。
誰にも話してこなかった秘密を突然皆に打ち明けた意図が気になったのだろう。
「喧嘩は引き分けということで、奏お嬢様の要求を半分だけ受け入れることにしました。堂々と姉妹とは名乗れませんけど、ここに居る人達になら話しても大丈夫でしょうから」
優しい口調で答える奈緒に奏お嬢様が抱きついた。
この大切な席に柳原が加わっているのが少し気になるが、こいつも実際のところ弁えた奴ではあるし、問題はないだろう。
「今回の喧嘩はお二人が姉妹であるってことと何か関係があったんですか?」
「そうね、立場が立場だけに少し複雑だったのよ。若宮の親族との関係もあるから」
ぐりぐりと頬を押し付けてくる奏お嬢様を引きはがそうと苦労しながら、奈緒が諏訪部さんに答えた。
すると、珍しく黙り込んで何かを考え込んでいた柳原が重々しく口を開く。
「肉親でも色々と複雑なのはよくわかるよ。僕も家じゃ父親と言い争ってばかりだからね」
「お前の家って複雑な家庭なの?」
「アッキーは知らなかった?ヤナギンパパは大物政治家なんだよ。ほら、何とか大臣やってるじゃん」
「はあ!?」
柳原……思い出した、現内閣の閣僚に名を連ねている政治家の名前だ。
未来の総理候補とも言われる人気若手議員。確か子沢山なことでも有名だった。
人一倍世間体を気にしなくてはいけない政治家が、この息子を野放しにしておいていいのだろうか。まさに大きな爆弾になりかねない。
攻撃の材料として野党の皆さんに教えてあげた方がいいのだろうか。
「ウチの父親はね、二次元児童ポルノ規制推進派の急先鋒なんだ。だから家じゃ常に戦争状態だよ。でも大丈夫、法案が通りそうになったら僕が問題を起こして、親父の政治家生命を絶ってみせるよ。少なくとも時間稼ぎはできると思う」
「……お前、いろいろと懸けてるんだなあ」
野党の皆さん、放っておいても大丈夫そうです。
この爆弾いずれ爆発します。




