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穴があったら入れたいです。

「ちょっと、聞いているの?彰人あきと


「……あっ、はい。奈緒お嬢様」


 昼休みの教室で俺と奈緒お嬢様は昼食を取っていた。

 俺達は元々隣同士の席だったので、改めて机を合わせる必要もなかった。

 教室の中では俺達と同じように他の生徒達も昼食をとっているのだが、最近は人が多すぎるような気がする。

 別のクラスからも多くの生徒が押しかけており、明らかに普通ではない。

 俺達の様子を面白がって見物に来ているのかもしれない。

 そのくせ誰も、立場の入れ替わりに対して詳しい説明を求めたりするようなことはなかった。

 またあいつらがおかしな事を始めた、というくらいの認識なのかもしれない。

 俺達はとっくに奇人というカテゴリでひとくくりにされている可能性があった。

 そんな周囲の反応もあって、俺は奈緒お嬢様との会話に集中できないでいたのだ。


 若宮と奈緒お嬢様の入れ替わりは、すでに五日目に入っていた。

 俺達は最初こそ戸惑ったものの、すぐに入れ替わりに慣れてしまった。

 若宮と奈緒お嬢様には、それぞれの立場に対する素養があったようだ。

 若宮は不器用で頼りないながらも、皆が助けてあげたくなってしまう一生懸命さがあったし、奈緒お嬢様は生まれながらに人の上に立つような気品があった。


 俺自身も立場を入れ替えた二人に対して、違和感なく接するようになっていた。

 若宮に仕事の指示を与えてフォローしつつ、奈緒お嬢様に不都合がないか気を配り、お世話をする。

 ずっとこの生活を続けていたのではないだろうかと勘違いしてしまうほど自然だったのだ。


 学校では奏お嬢様に配慮をして『若宮さん』と呼んでいたのだが、奈緒お嬢様には必要ないように感じられた。

 それが当然のように思えたからだ。

 俺は学校でも『奈緒お嬢様』と呼んでおり、それが他の生徒には面白いのかもしれない。


 若宮と奈緒お嬢様の関係は大きな諍いはないものの、まだまだ和解への道は遠いようだった。

 その様子を諏訪部さんが見かねたのか、今日は若宮を連れ出して俺達と引き離してくれた。

 今頃は中庭あたりで、他の友達とお弁当を食べているはずだ。

 おかげで久しぶりに会話のある昼休みになっている。


 今日の奈緒お嬢様は朝から機嫌が悪かった。

 朝起きたときに俺の指が彼女の鼻の穴に入っていたらしいのだ。

 もちろん俺は故意にそうしたわけではなく、密着して寝ている間にそうなってしまったのだ。

 若宮が側にいる時は出せなかった話題なので、俺は今になって責められている。


「本当に痛かったのよ」


「はい、すみません。今後は気をつけます」


「まったく、人が寝ている間にあんな所に指を突っ込むなんて」


 ガタガタガタッ!!!


 教室内で一斉に机や倚子が動く音が響き渡った。

 席を立つ者は誰もいない。

 身を潜めるようにして、じっとこちらの様子を窺う気配が感じられる。

 ……待て待て待て、この流れはまずいっ!


「あっ、あのっ、奈緒お嬢様……」


「本当に気をつけてね、少し血が出ていたんだから」


 ザワザワザワッ!!


 さざ波のようなざわめきが教室内に広がった。

 何人かの生徒が慌てたように教室から出て行く。

 ああ、こうやって噂って広まっていくんだなあ。


 放課後になると俺は若宮の席まで行き、今日の仕事の確認をした。

 帰りがけにキャサリンさんに買い物を頼まれていたのだ。

 若宮にも一緒に来てもらうつもりだった。


「若宮、今日駅前のスーパーに寄って行くぞ。買い物頼まれてただろ?」


「あっ、うん。アキちゃんと一緒に買い物……」


 若宮が目を輝かせて嬉しそうに応じる。

 そんな俺達の様子を見ていた小宮山が意外そうに質問をしてきた。


「あんたらさぁ、付き合ってるわけ?」


「えっ?違う違う。ただの業務連絡だよ」


「つ、付き合ってるって……そう見えちゃうんですかね、やっぱり」


 体をくねくねさせながら、若宮が照れている。


「何を馬鹿なこと言ってんだ。早く準備しろよ、タイムセールに乗り遅れる」


「アキちゃん、容赦ないですよねー。子供の頃みたい」


 そんな扱いを受けていても、若宮は何故か嬉しそうだった。

 若宮と同様に、俺も子供の頃を思い出していた。

 カナは俺がぞんざいな受け答えをしていても、いつもニコニコしていた。

 俺はそれが気恥ずかしくて、彼女の言う事を無視して相手にしなくなる。

 そうするとカナは泣き出してしまうのだ。

 そんなカナに慌ててしまって、俺はいつも最後には謝ることになった。


 小宮山と俺達とは、すでに普通のクラスメイトとしての関係を築き始めていた。

 体育祭の後に小宮山達のグループがそろって俺達に頭を下げたのだ。

 しかし、それですぐに仲良くなれるはずがなかった。


 小宮山は反省しすぎたのか、しばらくの間は俺への態度が少し卑屈だった。

 俺から話しかけてもおどおどして、他のクラスメイトへの接し方とは明らかに異なっていた。

 それは、明らかに彼女本来の姿ではなかった。


 それでも、何とか普通に交流できるようになってきたのは、バスケ部のイケメン田代の協力が大きかった。

 俺と小宮山が何となく不自然な関係なのを察して、間に入ってくれたのだ。

 三人で会話をするようになって、小宮山の態度は少しずつ自然なものに変わっていった。


 小宮山が俺の袖を引きながら、若宮から少し遠ざかる。

 そのまま顔を近づけ、耳打ちをしてきた。


「あんたさぁ、弓月のことはどうするわけ?結局どっちと付き合うのよ?」


「あー、お前は俺と若宮が付き合った方が都合がいいもんな」


「ばっ、馬鹿っ、そんなんじゃないし」


「ひとつ忠告しておいてやるよ。田代に限らず、男は恥じらいのある女子が好きなんだ」


「ちょっ?あたしに恥じらいがないみたいな言い方しないでよね」


「お前、スカートが短すぎるんだよ。昨日もピンクが見えてたぞ?」


「勝手に見るなっ!」


「いや、覗いたりはしないけど、見えてたら見るだろ、何言ってんの?」


「あんたさぁ、堂々としすぎでしょ」


 肩を寄せ合うようにして会話する俺達に、奈緒お嬢様が近づいて来た。

 小宮山は奈緒お嬢様のことが少し苦手らしく、少し身を引いて俺の陰に隠れるような体勢になった。

 

彰人あきと、今日は華子と約束があるから、少し帰るのが遅れるわ」


 奈緒お嬢様はそれだけを言うと教室から出て行った。

 若宮には視線を向けることすらなく、若宮の方も特に反応は見せなかった。

 小宮山が緊張を解くようにため息をつく。


「あの子さぁ、付き合ったら間違いなく重い女になるだろうねぇ」


「そうなのか?」


「うん、あんたが他の女の子と話してると気になって仕方ないみたいだよ」


「うーん、気のせいじゃないかなあ」


 実際、奈緒お嬢様の俺への気持ちは曖昧な部分があった。

 あくまでも俺の知る限りだが、彼女と一番親しい男子は間違いなく俺だろう。

 だからと言って、それが恋愛感情に起因していると決めつけるのは短絡的だと思う。

 若宮との複雑な関係がこじれていて、その成り行きで添い寝なんかしちゃってるけど……。


 ……奈緒お嬢様は俺なんかと一緒に寝るの、嫌じゃないのかな?


 最近の奈緒お嬢様は寝付きが悪いようだった。

 俺という異分子が隣にいる事が原因なんだろう。

 俺は自分が床で寝ると提案したのだが、即座に却下された。

 若宮に対抗してのことなのだろうが、そこまで意地にならなくてもいいのに。


 買い物を終え屋敷に戻ると、俺達はいったん別れて自分の部屋に戻った。

 この後は別々の作業を行う事になっている。


 俺は着替えを済ませると、使用人の控え室へ立ち寄った。

 俺達の他に出勤している使用人がいるのか確認したかったのだ。


 無造作にドアを開けると、そこには下着姿の若宮が立っていた。

 驚いたような表情でこちらを見ている。

 俺は思考と体が固まってしまい、そのまま彼女の姿を凝視してしまった。


 若宮が手に持っていたメイド服で自分の体を覆い隠した。

 あまりにも気が動転しすぎていて、叫び声も出ないようだ。

 まあ、それは俺も同じであったのだが。


「あのっ、ごっ、ごめんなさい。私の服、ここにあるから……」


「……」


 若宮が使っているメイド服は、控え室のクローゼットの中に置いてあるのだろう。

 それを一度部屋に持ち帰るのが面倒で、この部屋で着替えていたということか。

 それにしても、鍵をかけ忘れるとは若宮らしい。


「あっ、あのっ、アキちゃん、そこに居られると……」


 若宮がフリーズしてしまっている俺に言いにくそうに退出を促した。

 その言葉で混乱を脱すると、背中にどっと汗が吹き出す。


「ご、ごめんっ!!」


 俺は慌てて部屋から飛び出しドアを閉めると、そのままドアに背を向けてよりかかった。

 部屋の中から若宮がドアの鍵をかける音がした。


 俺は今見た光景を脳裏に焼き付けるために、思い返していた。

 すごく価値があるものを見てしまった気がする。

 あのメイド服の下って、ああなっていたのか……。

 下着姿にストッキング、そしてガーターベルト。

 可愛さとエロさを兼ね備えた凶悪な組み合わせだった。

 若宮の綺麗な肌や丸みを帯びた体の線が美しく、その姿がよく似合っていた。


 待てよ、誰でもあの服の下はああなっているのか?

 例えばキャサ――

 俺はそこで無理矢理思考を停止させた。

 危ない危ない、脳が破壊されてしまうところだった。


 俺は自分の仕事を片付けると、若宮の事が心配で様子を見てみることにした。

 若宮はキャサリンさんを手伝って夕食の準備をしているはずだった。

 今までキャサリンさんは若宮を厨房に近づけなかったのだが、いい機会だからと料理の基本を教える事にしたらしい。

 キャサリンさんがついているから大丈夫だとは思うが、若宮が包丁や火を扱って無事でいられるのだろうか。


 階段を下りて厨房へ向かうと、廊下で厨房の中を覗き込んでいる人物に出くわした。

 制服姿の奈緒お嬢様だった。

 奈緒お嬢様はお尻をこちらに向けた状態で、そわそわと落ち着かない様子だった。


「奈緒お嬢様?」


「えっ?はいっ!」


 背後から掛けられた声に驚いて、奈緒お嬢様はビクリと背筋を伸ばして、うわずった声で返事をした。

 これは俺と同じ目的でここに来ているんだろうな。

 思わず頬が緩んでしまう。


「気になるなら声をかけてあげたらいいのに」


「気になってなんかいないわ。今日の夕食にどんな酷いものが出てくるのか、心配だったのよ」


 顔を真っ赤にして、ムキになったように言い張る。

 そんなに意地にならなくてもいいと思うのだが。


「本当に料理の心配だったんですかあ?別のものが心配だったんじゃ?」


「……主人に対する態度がなっていないようね。少し教育が必要かしら?」


 俺は即座に笑いを消すと、生真面目な表情を作って咳払いをひとつした。

 これ以上、奈緒お嬢様をからかうのは得策ではない。

 俺は自分自身の心配をした方が良さそうでだった。


 食卓に並んだ夕食は、いつも通り美味しかった。

 気になるところといえば、お味噌汁の具の大きさが不揃いだったことくらいだ。

 キャサリンさんもいきなり初心者の若宮に無茶なことはさせなかったらしい。


 その夜、寝室で俺と奈緒お嬢様は、お互いの子供の頃の話をした。

 あまり踏み込んだ質問は不躾かとも思ったが、奈緒お嬢様は色んなことを話してくれた。

 今まで、そういう話ができる人間がいなかったからかもしれない。


「母は仕事はできる人だったけど、恋愛方面は得意じゃなかったみたい。少なくとも私が知っている限り、恋人らしい人はいなかった」


「へえ、そういうところ、奈緒お嬢様と似てるかもしれませんね」


「そうかしら?」


「得意なんですか?」


「得意かどうかすら分からないわね。恋愛ってもの自体がよくわからないから」


「……」


「自分の中に恋心が芽生えたら、自分で認識できるものなのかしら?これが恋なんだって」


「どうなんですかね?自分の心ってなかなか分からないものですからね」


「それなら、私がもう誰かに恋をしてるって可能性もあるわけよね?」


 奈緒お嬢様が真剣な表情で俺を見ている。

 その熱っぽい視線に引き寄せられるように、俺は彼女の目を見つめ返した。


「……」


 突然、奈緒お嬢様はベッド上で身を起こすと、部屋のドアをじっと見つめる。

 以前にこういうことがあったような気がする。

 奈緒お嬢様はおもむろにベッドを降りると、ドアノブに手をかけ勢いよく開け放った。


「たっ!!?」


 扉が何かにぶつかる鈍い音とともに、小さな叫び声が聞こえた。


「……何をしているのかしら?」


「えっ?たまたま通りかかっただけですけど?」


 若宮は痛む額を抑えながら、しどろもどろに訴える。

 いつもながら苦しい言い訳だ。

 この寝室は二階の一番端にあり、どこへ行くにも通りかかることなどないのだ。

 それにしても奈緒お嬢様には気配を察する能力でもあるのだろうか?


「主人の寝室を覗くだなんて、常識ってものがなさすぎでしょう?」


「のっ、覗いていません。聞き耳を立てていただけですっ」


 若宮は完全にどつぼにはまったことに気づいていない。


「それはメイドの仕事なのかしら?」


「でもでもでもっ、学校で凄い噂が流れてたからっ!」


 広まるのが早すぎるだろ、皆どれだけ興味があるんだよ。

 何となく内容の予想はできるが、その噂がどれだけ歪められ誇張されているのかは気になるところだ。


 若宮はその場で正座させられて奈緒お嬢様に叱られていた。

 完全にできの悪いメイドにお説教をしている良家のお嬢様といった構図だ。

 何の違和感もない。

 若宮はひとしきり叱られると、しょんぼりとして自室へ帰って行った。

 奈緒お嬢様は廊下に身を乗り出して、その背中を見送っている。


「彰人、今日はあの人と一緒に寝てあげて。私は自分の部屋に戻るから」


「えっ、でも……」


「ちゃんと眠れていないのかもしれないし、体を壊したら喧嘩も何もないでしょう」


「そうですね」


「……何がおかしいのかしら?」


 奈緒お嬢様に睨まれて、俺は自然に緩んでしまっていた自分の顔を引き締めた。

 本当になあ、お互いにもう少し素直になったら、すぐに仲直りできると思うんだけどな。

 俺はベッドに転がっている熊のぬいぐるみに心の中で語りかけた。



 翌日、俺とキャサリンさんは控え室で将棋を指していた。

 将棋好きな三好さんが控え室に持ち込んでいる将棋盤と駒だった。

 時間が空いた時はこうして使用人同士で対局することがある。

 ちなみに一番強いのがキャサリンさん、そして一番弱いのが三好さんだ。

 この対局もキャサリンさんが優勢で進んでいた。

 話題になるのはやはり若宮と奈緒お嬢様のことだった。


「いつまでこんなことを続けるんですかね?」


「止めたくなったら、いつでも止めたらええじゃろ」


「……」


「将棋なら適当に駒を動かしていては勝負にならん、じゃが人間関係はとりあえず動かしてみて様子を見るというのもひとつの手じゃ」


「じゃあ今のこれも適当にやってみただけなんですか?」


「適当というか、ただの思いつきじゃ」


「いい加減だなあ」


「お前がおるからやってみたのじゃ。面白い事になるかもしれんと思うての」


「面白い事?」


「ほうら、これで詰みじゃな」


 キャサリンさんが皺だらけの顔をほころばせる。

 もともと将棋には集中できていなかったので、いつの間にか勝負がついていた。

 俺の王将は飛車と角に動きを封じられて、どこへも逃げることができなくなっていた。



 その夜、俺が寝室を訪れると、奈緒お嬢様の就寝の準備がまだ済んでいなかった。

 奈緒お嬢様は洗面室へ行き、俺はそのまま寝室で待つことになった。

 俺は手持ちぶさたになって何となく部屋のあちこちを眺めていた。


「おわっ!?」


 それを見つけたとき、俺はぎょっとして思わず奇妙な声を上げてしまった。

 一瞬見えてはいけないものが見えてしまったのかと思った。


 寝室にはベランダへの出入り口があり、そこは大きなガラス戸になっている。

 当然カーテンも床に届くくらいの長さがあるのだが、そのカーテンと床の隙間から人間の足が覗いていたのだ。

 俺は無言でガラス戸に近づき、カーテンを無造作に開け放った。

 予想通り、そこには若宮が立っており、ばつの悪そうな笑みを浮かべていた。


「お前さ、何やってるわけ?」


「だって、気になって……どこに何を入れてるのか確認しないとっ!」


「……噂に踊らされすぎだろ」


 しかも確認って……俺達が本当におかしなことをやっていたらどうするつもりだったんだ?

 このまま若宮を帰すと、奈緒お嬢様と鉢合わせしてしまう可能性が高い。

 自業自得とはいえ、また若宮が奈緒お嬢様にこっぴどく叱られるのは気の毒だと思った。


 俺は寝室のドアを少し開け、廊下の様子を確認してみた。

 こちらに向かって歩いてくる奈緒お嬢様の姿が見えた。


 焦った俺は、若宮の手を引いて部屋の中を右往左往してしまう。

 緊急手段として寝室にあった大きめのクローゼットの中に若宮を隠すことにした。

 しかし、そのクローゼットの収納部分は引き出しの上にあり、若宮は段差を上るのに苦労している。

 俺は慌てて若宮のお尻を持ち上げて中に押し込み、扉を閉めた。

 奈緒お嬢様が寝室のドアを開けたのは、ちょうどその時だった。


「どうしたの?そんなところに突っ立って」


「ああ、中にスパイがいないか確認していまして」


 奈緒お嬢様の訝しそうな視線に慌てて、ボケたつもりが真相に近いことを言ってしまった。

 若宮が驚いて身動きしたのか、クローゼットの中から物音が聞こえる。


「馬鹿なことを言っていないで、もう寝ましょう」


「お、押忍」


 幸いにも奈緒お嬢様には物音が聞こえなかったのか、事なきを得る。

 危ない危ない、軽口も大概にしておかないと。

 俺は安心してベッドに横になったのだが、奈緒お嬢様は上体を起こしたまま辺りを見回している。

 奈緒お嬢様は小首を傾げて難しい表情をしていたが、突然ベッドから降りると、寝室のドアを開け放った。

 当然そこには誰もいなかった。


「……おかしいわね」


 俺は何でもないような顔を保ちながら、内心肝を冷やしていた。

 奈緒お嬢様の勘のよさを失念していた。

 しかし常識の壁が彼女の判断を誤らせたようだ。

 この深夜に喧嘩中の姉がクローゼットの中に潜んでいるとは誰も思うまい。


「疲れているんですよ、早くお休みになった方が……」


「そうみたいね」


 俺達は並んでベッドに横たわる。

 大きなベッドの上で最初は隔たりがあった俺達の距離。

 添い寝を続けているうちに日に日にその距離が近づいているような気がする。

 奈緒お嬢様が口ごもりながら俺に問いかけてくる。


「昨日のことだけど、あの人、どうだったの?」


「若宮のことですか?」


「ちゃんと眠れていた?」


「ええ、少なくとも昨日はぐっすりと熟睡していました」


「そう」


 俺達は黙り込んだが、その沈黙はある余韻を含んでいるように感じられた。

 聞きたいこと、話したいことがあるのを、お互いに察することができた。

 だから俺は口を開いた。


「心配なんですね、若宮のこと」


「あの人、抜けているところがあるから」


 俺の願望だろうか、その声には穏やかな親愛の情が含まれているような気がした。


「会ったばかりの頃ね、あの人私の周りをうろちょろと付きまとって離れなかったのよ」


「それは……仲良くなりたかったんじゃないですか?」


「私はメイドの仕事を始めたばかりだったから、早く仕事をおぼえて一人前になりたかった。肩肘張っていたのね。だから余計に鬱陶しく感じたわ」


「……」


「少しきついことを言っても気にもしないで笑っているのに、私が無視すると泣いてどこかへ行ってしまうの。だから、追い払うには無視をしていればいいんだけど……」


「けど?」


「結局、私はあの人を相手にし続けていた……不思議よね」


「どうしてでしょうね?」


「やっぱり寂しかったのかもしれない。お母さんと別れたばかりだったし、新しい環境で誰も知り合いがいなかったもの。それに……」


「それに?」


 俺は口ごもってしまった奈緒お嬢様を促した。

 話したいのだろうと思ったし、話させてあげたいとも思った。

 奈緒お嬢様が再び話し始めるのには時間がかかったが、俺はじっと黙ってその時を待った。


「あの人ね、私に冷たくあしらわれても、泣かされても、次の日にはそれを忘れたように接してくるのよ」


「……」


「穏やかで、温かくて、強くて……」


「……」


「血のつながりや立場なんて関係なく、私はあの人のこと……好きだったのかもしれないわね」


 続く言葉はなかった。

 完全無欠の沈黙。

 もうそこには何の余韻もなかった。

 聞こえるのは、奈緒お嬢様の静かな寝息だけだった。


 どのくらいそうしていただろうか、俺は感情が鎮まるまでベッドで横になっていた。

 奈緒お嬢様を起こさないようにベッドを抜け出しクローゼットの扉を開ける。

 若宮は体を丸めて、抱えた膝に顔を埋めるようにして身を震わせていた。

 俺は彼女の手を引いて寝室から連れ出した。


「お前な、本当はルール違反なんだからな。絶対に奈緒お嬢様の前で余計なこと言うんじゃないぞ」


 俺が言い聞かせると、若宮は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いた。

 そして突然、握り拳で俺の肩や胸をドンドンと叩いてくる。


「いてっ、何だよ?痛いだろ」


「……お尻」


 どうやらクローゼットに押し込む際、若宮のお尻を触ったことを怒っているらしい。


「あの状況じゃ触っても仕方ないだろ、わざとじゃないんだから」


「ただ触っただけじゃなかった!その……ゆっ、指が少し……」


 若宮はお尻を押さえながらモジモジとしている。

 ああ、確かにデリケートな場所に親指を添えた状態で、力一杯若宮を押したかもしれない。

 でも、服の上からだし大した問題はない。

 せいぜい爪の先くらいしか入ってはいないはず。


「まあ気にするなよ、俺も気にしないから」


「気にしてくださいっ!!」


「いいから、もう部屋に戻れよ」


「やっぱり、アキちゃんは噂どおり穴があったら入れちゃう人なんだあ」


 若宮がまたぼろぼろと新たな涙を流し始める。

 あーあ、もう余韻も何もあったもんじゃないないな。

 しかし我ながら若宮の扱いが雑になってしまっている気がする。

 ちゃんと元の関係に戻れるのだろうか。

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