真夜中の死闘です。
「奏お嬢様、その格好は?」
「何かおかしいですか?」
「はっきり言っておかしいですね」
寝室を訪れた俺は、奏お嬢様の姿を見て戸惑っていた。
いつもの奏お嬢様の寝間着はパジャマと決まっていたはずだった。
デザインの違いはあっても、他の服を着て寝るようなことはなかったのだ。
だが今日はTシャツを着た奏お嬢様がベッドの上で待っていた。
それだけなら特別おかしなところはないのだが、下半身は下着だけらしく、形のいい脚がむき出しになっている。
非常に扇情的なお姿なのである。
明日から奏お嬢様と弓月の立場が交代することになっていた。
よって、今日を最後にしばらく奏お嬢様との添い寝の時間はなくなる。
そんな日に添い寝の前例にはなかった変化が突然現れたのだ。
「どうしたんですか?いつものパジャマ、ありますよね」
「……暑いから」
「ええ?だったらエアコンで温度を……」
「いいんです、暑いんですっ!なにか問題ありますかっ!?」
問題がないと言えば嘘になる。
ちょっと困ったことになるかもしれないが、それは俺の側の問題だ。
奏お嬢様がここまで言い張るのならば、受け入れるべきなのかもしれない。
結局、その姿の奏お嬢様と添い寝をすることになった。
予想通り、寝ている間に服が乱れて奏お嬢様の下着が丸出しになってしまったり、気の休まらない夜になってしまった。
翌日は土曜日で学校は休みだった。
特にセレモニーや開幕式があるわけでもなく、その交代劇は始まった。
奏お嬢様のメイド服姿はとてもよく似合っていた。
没落した良家のお嬢様が、他の家で使用人として雇われるというストーリーを感じさせる儚さがあった。
要は、ちょっといじめたくなってしまう雰囲気があったのだ。
俺はそんな事はしない。
少し困らせるくらいにしておこう。
ダークブラウンを基調としたシンプルなメイド服。
飾りの少ないエプロンドレス。
本人も衣装が気に入ったらしく、ロングスカートの裾を持って、くるくると回ったりしている。
「若宮、とりあえず玄関ホールの掃除からだ」
とりあえず、最初は玄関ホールの掃除をしてもらうことにした。
その作業なら夏休みのバイトの経験を活かすこともできるため、不器用な奏お嬢様でも比較的容易にこなすことができるだろう。
ウォーミングアップとしては最適だった。
弓月と同じ扱いを要求されたので、俺は奏お嬢様に対する呼び方から言葉使いまで変えなくてはならなかった。
少し、いや、相当やりにくい。これに慣れてしまうのは良くないだろう。
奏お嬢様の方も今日からはお嬢様じゃないからと、俺の事を『アキちゃん』と呼んでいる。
必要がないときでも名前を呼んでくるのが困りものだった。
俺と三好さんは、奏お嬢様の仕事姿を見守っていた。
バイトの仕事と同じく、手際は良くないが一生懸命な働きぶりが伝わってくる。
三好さんは少し金髪が伸びて、カラーレンズの眼鏡に変えていたため、年齢的にかなり無茶をしているホストのように見えた。
この人の奥さんは、自分の夫をどうしたいのだろうか?
「今日はお客様が来る予定はないから、メイド服は着る必要がないんですけどね」
「似合っているからいいじゃないか。お嬢様も着てみたかったんだろうし」
「まあ、そうですね」
「なんだか初々しくって、結婚したばかりの頃の妻を思い出すよ」
「へえ、素敵な新婚さんだったんですね」
「あの頃は、夕飯に賞味期限が切れた災害用非常食を出すなんてことはなかったのになあ」
「クッ!!」
俺は時の流れの残酷さに、涙をこらえる事ができなかった。
一通りの掃除が済んで満足したのか、奏お嬢様は嬉しそうに俺達のそばに近づいて来た。
「さあ、他に仕事はありませんかっ?何でも申しつけてくださいね!」
「それなら、日用品の買い出しに商店街に行ってもらえますか?会沢君と一緒にね」
三好さんが俺に目配せをしながら、奏お嬢様に指示を出す。
三好さんも奏お嬢様と弓月の喧嘩のことは察しているので、気晴らしに連れて行ってやれということなのだろう。
この人も若宮家の使用人らしいと言うか、いい人なんだよなあ。
外見は高齢ホストなんだけどな。
人は見た目で判断してはいけない。
まだ九月初旬ということもあって、真夏の様相を色濃く残している。
照りつける太陽の猛威は健在だった。
屋敷の門の前で待っている俺に、メイド服姿の奏お嬢様が駆け寄って来た。
「お待たせしました。行きましょうか」
「若宮、外出する時はメイド服じゃなくていいんだぞ」
「いいんです。今日はアキちゃんのパートナーなんですから。仕事の時はこの姿でいたいんです」
この天候の中で歩き回るにはメイド服姿はふさわしいものではない。
遠出するわけでもないから、大丈夫だとは思うが。
入れ替わり生活がよほど楽しいのか、奏お嬢様は機嫌良さそうに歩き出した。
俺は軽く苦笑いを浮かべながらその後について行った。
商店街ではすれ違う人達が皆、奏お嬢様に注目した。
こんなに愛くるしいメイドさんが突然現れたんだ、無理もないことだ。
魚屋のおじさんは奏お嬢様のメイド姿を褒めちぎっていたが、不意な一言で空気が一変した。
「で?今日は奈緒ちゃんは一緒じゃないのかい?」
今までニコニコしていた奏お嬢様の笑顔が固まった。
顔は笑った状態のままなのだが、そのまま表情が動かない。
くぐもったような不吉な声が絞り出される。
「奈緒お嬢様は家で遊んでいます。全く、いい歳の娘が休日に家でゴロゴロと……どうしようもないですねえ」
今までの明るく華やかなオーラは消え、どんよりと暗い瘴気がまとわりついているように見えた。
俺は魚屋のおじさんと手を取り合いながら震え上がった。
俺達は休憩のついでに、『喫茶店いるか』に寄る事にした。
メイド服姿の奏お嬢様を見て、マスターが早速スカウトを始める。
奏お嬢様もまんざらでもない様子で応じている。
常連客達からも声をかけられて、すっかり人気者だった。
奏お嬢様が席を外すと、華ちゃんが俺の隣の席に滑り込んで来た。
俺に体をぶつけて、その勢いのまま首に腕を回して引き寄せてくる。
ほとんど頬と頬がくっつくような状態になってしまった。
「こらこら、何がどうなって、ああなった!?」
「ちょっ!?近いっ、近いよ華ちゃん」
「奈緒はどうなっちゃったの?」
「弓月、いや、奈緒お嬢様は家でお嬢様をやっているよ」
「……何だか楽しそうな事をやってるんだねえ」
さすがの華ちゃんも少し呆れたように言った。
「成り行きでそうなっちゃったんだよ」
「まあ、いいか。これも二人の間を修復するための策なんでしょ?」
「うーん、そうなるのかな?」
「まあ、期待しておりますよ。多分アッキーにしかできないことだから」
「え?」
「いや、自然に元どおりにはなるだろうけどね。アッキーが絡んだら、もっといい形でまとまるかもしれない」
華ちゃんはよく分からない事を言った。
冗談めかしてはいるけど、軽くは流せないような響きがあった。
華ちゃんなりに、二人の関係を心配しているのだろう。
そして、夜を迎えた。
俺はすでに添い寝の熟練者であるという自負があった。
しかし、それは相手が奏お嬢様に限った場合だ。
いい意味でも悪い意味でも、奏お嬢様と添い寝をする時の俺には余裕があった。
別の美少女との添い寝で、その経験が通用するのか、それが今夜明らかになりそうだった。
軽く自分の頬を叩いて、気合いを入れると、俺は寝室のドアを開けた。
今日は部屋の雰囲気がいつもとは違うように感じられる。
部屋の主が変わったせいだろうか。
その主たる弓月、いや奈緒お嬢様の姿は見えない。
シーツの膨らみで、ベッドに誰かが横たわっているのが分かる。
しかし、人の形に盛り上がっているシーツの場所が不自然だった。
俺はそれをめくって状況を確認した。
大きなベッドの端、少し動けばベッドから落ちてしまうようなギリギリの位置で弓月は横になっていた。
固く目を閉じて、傍目からも緊張で体に力が入りすぎているのが窺える。
胸のあたりで組み合わせている手が小刻みに震えていた。
歯の根が合わず、不規則な音を立てている。
今の状況を客観的に見ると、俺がとんでもない悪党に見えてしまうだろう。
どういうことですか、これは?
完全に悪代官に差し出された村娘じゃないですか。
いけない感情がわき上がってきそうで怖かった。
それに、この服装は一体どういうつもりなんだろう。
レモンイエローのTシャツに丈が短い薄手の短パンという、あられもない姿。
形のいい脚が完全にむき出しになってしまっている。
寝る時の格好としてはおかしくはないのだが、俺が困ったことになってしまうだろう。
これだから、添い寝初心者は困る。
そういえば昨晩は、初心者じゃない人がもっと過激な格好だったな。
添い寝の時は薄着になるのが流行っているのかもしれない。
女性誌で特集されていても、男の俺には情報が入ってこないからな。
「お前なあ、無理にこんなことに付き合う必要ないんだぞ?」
「だって……だってだって!」
弓月は焦りながら喚いたが、急に設定を思い出したのか俺を非難した。
「彰人、あなた忘れたの?今の私はあなたのご主人様なのよ、いつもお嬢様にそんな口を利いているのかしら?」
「そうは言ってもなあ」
「いつも奏お嬢様としていることを、同じようにしたらいいのよ。できないの?」
「……かしこまりました、奈緒お嬢様」
俺はおもむろにベッドに上がり、弓月の隣に横たわった。
体を横に向けた体勢で、お互いが対面する状態になった。
目の前には紅潮した弓月の顔がある。
未知の生物を見るような不安そうな表情で、下唇を噛み締めている。
率直に可愛いと思った。また弓月の新しい顔を見ることができた。
「お前さ……」
「何?」
「いや、何でもない」
「何よ!?」
おどおどした弓月の様子を見ているうちに、俺の中に悪戯心が芽生えてきた。
黙り込み、シーツに顔を押し付けると、弓月が不審そうに俺の顔を覗き込んできた。
そのタイミングを見計らって、俺は叫び声とともに跳ね起きる。
「グァァァァオッ!!」
「ひゃっ!?」
不意をつかれて、普段の弓月からは聞いた事がないような可愛らしい声が出た。
ビクリと両手の拳を固めて口元を覆い、体を硬直させる。
そして、その姿勢のままコテンとベッドの下に落ちた。
俺は笑いこらえるのに必死だった。
しばらくベッドの下で呆然としていた弓月だったが、我に返ると悔しさを滲ませて、俺に飛びかかってくる。
「彰人っ!!」
俺はたまらず、笑い声を上げながら迎え撃つ。
しばらくベッドの上でもみ合いになったが、突然弓月の動きが止まってしまった。
気がつくと、仰向けになった俺の体の上に、弓月が重なる形で密着していたのだ。
俺は慌てて動こうとしたが、弓月はそのまま力を抜いて全体重を預けてきた。
しなやかで張りがあって、それでいて柔らかい。
圧倒的な生々しさで肉体を感じてしまう。
「ゆづっ、奈緒お嬢様?」
「いつもあの人と、こういうことをしていたの?」
熱い吐息が俺の首筋に当たる。
かすかな呼吸音、確かな重みと感触と体温、体中すべてで弓月奈緒という人間を感じることができた。
「いやあ、ここまで密着することはないけどな」
少なくとも意識があるうちは――
この言葉は省略してもいいものだろう。
そろそろ、俺の体に良くない反応が起きそうだった。
俺と弓月は下半身まで密着しているので、腰を引いて逃れることもできない。
そうなってしまったら、弓月に確実に気づかれてしまうだろう。
俺は目を固く閉じ、歯を食いしばって耐えようとする。
幸いにも、弓月はその前に俺の体からずり落ちるようにしてシーツの上に降りた。
「もう寝ましょうか。あなたも疲れているでしょう?」
「そうしましょうか、奈緒お嬢様」
俺達はそれぞれ、思い思いの姿勢で大きなベッドの上に寝転がった。
しかし、弓月はいつまで経っても寝返りをうったり落ち着かない様子だった。
俺の方も、いつもと違う相手とベッドを共にしているということもあり、緊張で眠れない。
「彰人、起きてる?」
「ああ、……いや、はい、お嬢様」
「眠れない」
「そのようですね」
「何とかして」
横暴!!この子を本当のご主人様にしてはいけないと思いました。
「いやいや、そう言われましても」
「あの人はいつもどんな様子だったの?」
「え?奏お嬢……じゃなくて若宮ですか?いつもあっという間に寝ちゃってましたよ」
「そう、よほど安心してるってことよね」
「そうなんですかね?」
「……」
弓月は突然ベッドから起き上がると、寝室を出て行ってしまった。
何か機嫌を損ねるような事を言ってしまっただろうか?
そんな俺の心配をよそに、弓月はすぐに寝室に戻ってきた。
何かを後ろ手に持つようにして、ゆっくりとベッドに近づいてくる。
「笑わないでよ?」
「何をですか?」
「これは命令。私は絶対に笑いません、はい復唱」
「……私は絶対に笑いません」
再びベッドに横になった弓月の胸元には、大きめの熊のぬいぐるみが抱かれていた。
偶然にも、俺によって命を吹き込まれたカナのぬいぐるみによく似た熊だった。
思わず頬が緩んでしまう。
「……今、笑ったでしょう?」
「いえ、全然」
「笑ったわよね」
「いや、そういう意味で笑ったんじゃないんで」
「眠れない時はね、この子をこうしていると気が紛れるのよ」
弓月は何かを思い出すように、しんみりとそう言った。
何か特別な思い出があるのだろうか。
『この子』か、弓月にとっては友達のような存在なのかもしれない。
「部屋に戻って取ってきたんですか?奏お嬢様はどんな様子でした?」
弓月が不機嫌そうに俺を睨む。
我ながら完全な失言だった。
しかし奏お嬢様は、今夜独りで弓月の部屋で寝ているのだ。
そちらの様子が気になってしまうのも事実だ。
「あなた、あの人にまたTシャツを貸したでしょう?」
「ええと、はい」
「あの人、自分の顔にそれを巻き付けて眠っていたわよ。どういう習性なのかしら?」
「……知らないよ。きっと普通の人間には分からないよ」
そうやって少し話をしているうちに、弓月は眠ってしまったようだった。
ぬいぐるみを抱いて眠るその姿は、幼い少女のように見えた。
俺はほっとして、自分も眠ろうと気を緩めた。
隣で横になっている弓月のことを、努めて意識の外に追いやろうとする。
その試みは何度か弓月の寝息や衣擦れの音に中断させられた。
それでも何とか眠りにつけそうな状態になってきた頃に、突然それが始まった。
「うぅん……」
「むぐッ!?」
俺の顔面が、何か圧倒的に柔らかい物の中に埋まっている。
何事が起きたのか確認する間もなく、俺の体に凄い力で何かが巻き付いてきた。
どうやら寝ぼけた弓月が俺に絡みついてきたようだ。
とりあえず、俺は顔を動かして呼吸をするための隙間を作らなくてはならなかった。
少し姿勢を変えると、状況を確認することができた。
予想通り、俺は弓月の胸の中に埋まっていた。
奏お嬢様の『お嬢様ホールド』が標準のスタイルであるとすると、弓月の技はより密着感を増すための改良がなされている。
俺はそれを『お嬢様ホールド零式』と名付けた。
それにしてもこの感触。
奏お嬢様の時ですら、谷間に顔を埋めてしまうまで密着することはなかった。
完全な零距離である。
俺はしっかりと理性を保つために、これは脂肪の塊にすぎないのだと自分に言い聞かせた。
しかし、それは無駄な努力だったのだろう。
ただ柔らかいとか温かいというだけでは言い表せない生命感。
湿度、潤い、息づかい、そういう既知の言葉では表現しにくい、命の息吹を感じてしまうのだ。
こういうものと体の匂いが合わさったものが、フェロモンと呼ばれるものなのかもしれない。
俺は場違いにもそんな分析をしていた。
落ち着こうとして深呼吸をしようとすると、まさにそのフェロモンを思い切り吸い込んでしまうことになる。
だんだんと俺の呼吸が荒くなっていく。
その原因が息がしにくいからなのか、興奮しているからなのか自分でも判断できない。
頭がぼおっとしてくると、欲望が理性をはじき飛ばしてしまうような、そんな不安がある。
俺は決して無欲な人間ではないのだ。
この状況は心にも体にも良くない。
俺はせめて体を緩めようとして、弓月の太ももに手をかける。
弓月の肌のしっとりした滑らかな感触に、何故か口の中に大量の唾が分泌された。
俺は自分の両腕を、体と弓月の脚の間にねじ込むようにして隙間を作った。
まさに死闘だった。
零式の拘束を緩めるために、俺は体全体を使って奮闘していた。
汗まみれになって女の子とベッドの上で絡み合って、しかもハアハアと息を乱している。
何なんだこの状況は?
床の上に弓月が連れてきた熊のぬいぐるみが転がっていた。
つぶらな瞳をこちらに向けて、何かを言いたそうに見える。
お前なあ、もうちょっと頑張ってくれよ。
弓月の友達であり、俺の仕事仲間でもある相棒を心の中で非難した。