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驚愕の告白です。

 今日の弓月は明らかに精彩を欠いていた。

 仕事中も何かを考え込んでいる事が多く、普段では考えられないようなミスをした。

 些細なミスが多かったが、弓月がそれを繰り返す様子は、彼女を知る者にとっては気掛かりなものだった。

 華ちゃんがそばにやって来て、俺に耳打ちをする。


「昨日の夜から様子が変なんだよ。何かあった?」


 俺は華ちゃんの質問に曖昧な返事をすることしかできなかった。

 あったといえばあったのだが、あれが弓月にそこまでの影響を及ぼすものなのか? お堅いところがある弓月だから、知り合いのああいうシーンにショックを受けたのだろうか?


「今日の客足は悪くなりそうだねえ」


 マスターがお店の入り口から空を見ながらつぶやいた。今日の天気はどんよりとした曇り空で、海水浴日和とは言えなかった。

 経営者であるマスターにとっては歓迎できない天候なのだろうが、仕事に慣れていない俺達にとっては有り難かった。


 奏お嬢様は何とか仕事に慣れようと奮闘しているようだった。

 俺が近づこうとすると、大丈夫だという意思を目で訴える。上目遣いで下唇を噛んでいるその様子は、本人としては凛々しさをアピールしているのかもしれないが、過保護な母親に対して意地を張っている子供のように見える。


 仕事の様子を何気なく観察していると、丁寧な仕事で大きなミスを減らすことを心がけているようだった。まだまだ手際が良いとは言えなかったが、その試みは成功しているようだ。この調子なら、俺のフォローが必要な機会も減るだろう。


「弓月、あのさ……」


「――華子、私、お皿片付けるからオーダーお願いね」


 仕事の手が止まっている弓月が気になり話しかけると、俺を避けるように移動する。今朝からこういう事が何度かあった。正直、やりにくくて仕方がない。

 弓月の不調はあったものの、相変わらず馬車馬のように働く新☆柳原のおかげで、今日の仕事は順調に進んでいた。客足が昨日に比べて少ないのも、大いに影響があった。


 手が空く時間が多いのか、マスターは何度もフロアの方に顔を出し、俺達と雑談をしていた。特に新☆柳原に話しかけることが多く、今日も自分の娘を紹介したがっていた。

 ただ事ではない気に入られようだ。


「マスターの娘ってことは、華ちゃんの従姉妹ってことになるんだよね?どんな子?」


「んー? 明るくっていい子だよ。すっごいバインバインだしね」


 華ちゃんは自分の胸を強調するようなジェスチャーを見せる。

 ほうほう、大増量てんこ盛り状態じゃないですか。

 少し新☆柳原がうらやましくなってくる。


 今日は弓月の様子以外にも気になることがあった。

 客の中に俺を睨みつけている人や、俺の方を見てヒソヒソ話をしている人達がいるのだ。

 俺の気のせいなのだろうか? 仕事中の華ちゃんを捕まえて印象を聞いてみる。


「ああ、ナンパが面倒くさいから、ウチら全員アッキーの彼女ってことにしておいたから」


「……はい?」


「借金まみれのアッキーに、このバイトの稼ぎを全部渡すほど尽くしてる、健気な女の子達って設定」


「俺の評判とかって、どうなるんですかね?」


「まあ、一週間くらいのことじゃない、ここにいるのって」


 恐ろしく理不尽な設定だったが、これで奏お嬢様の負担が減るだろうと思い直し、受け容れることにした。

 可愛い女の子がいれば、仲良くなりたいと声をかけてくる男は必ずいる。海水浴場のような開放感がある場所ではそういう傾向も強くなるだろう。

 客商売では、そのような誘いを無下に拒絶するというのも考えものだ。奏お嬢様には客を不愉快にさせずにナンパを断るなんて高等技術は不可能なのだ。

 仕方がない、深夜の外出は控えることにしよう。


 夕刻には夕立があり、海水浴場からは人の姿がほとんど無くなってしまった。

 今日はこれ以上の客足は見込めないだろうとのマスターの判断で、少し早めの店じまいをすることになった。


 閉店の準備が終わると、俺達は店内のテーブル席でくつろぎながらテラスに降り注ぐ雨を眺めていた。

 雨のおかげで真夏とは思えないくらいに涼しくなっている。


「今日はごめんなさい、迷惑をかけてしまって」


 弓月が俺達に向かって謝罪した。

 

「本当だよ。やる気がない人は帰った方がいいんじゃないかな? 若宮さんはできないなりに頑張ってたみたいだけど、弓月さんみたいにできる人がいい加減な仕事をしてるのを見るとイライラしちゃうんだよね」


 新☆柳原が相変わらず空気を一切読まない発言をした。

 しかし、今回のアルバイトに限って言えば、奴が一番の戦力になっていることは間違いない。

 反論がないことに気をよくしたのか、新☆柳原がさらに何かを言い募ろうとしたのだが、諏訪部さんの髪をかき上げる仕草にビクリと反応して黙ってしまった。

 諏訪部さんが気遣わしげに弓月に尋ねる。


「何かあったんですか?」


「いえ、別に。どうしてこんなに集中できないのか、自分でもよくわからないのよ」


「お姉様、お体は大丈夫なんですか?」


「ええ、それは大丈夫。心配してくれてありがとう、宮子」


 華ちゃんは頬杖をついて何となく俺の方を見ていた。この子はとても勘がいいようだ。


「誰にだって、調子が悪い日はありますよね。それでも奈緒は私よりもちゃんと働けているんですから、立派です!」


 努めて明るく振る舞い、弓月を励まそうとする奏お嬢様。


「……はい、ありがとうございます、奏お嬢様」


 一瞬の空白。しかし、誰もが違和感を感じる沈黙を挟んで、弓月は奏お嬢様の言葉に応じた。

 すこし身構えたような固い言葉に聞こえたのは、俺の気のせいなのだろうか?


 宿への帰り道、俺は弓月をつかまえて海岸へ出た。弓月は乗り気ではなかったが、俺が強引に手を引くと、特に抵抗をすることもなく従った。

 

 辺りはすでに薄暗くなっており、雨上がりの海岸は波が荒れていた。

 海の水は濁っており、とても海水浴を楽しむ状態ではない。当然、辺りに人の気配はなかった。


「やっぱり、あれか? 俺と奏お嬢様のあれなのか? お前がこんな調子なのは」


「どうなのかしら?」


「真面目に聞いてるんだよ。俺のことはどうとでも思ってくれていい。でも、奏お嬢様にはあんな態度をとるんじゃない」


彰人あきとは本当に、奏お嬢様が大切なのね」


 弓月の弱々しい笑顔。そんな顔が見たいわけじゃない。


「いや、今はそんな話……」


「ごめんなさい。明日からはこういうことがないようにするわ」


 こうも素直な態度だと、それ以上は何も言えなくなってしまう。俺はとぼとぼと去って行く弓月を見送るしかなかった。


「言っておくけどな、俺と奏お嬢様の間に何かあったわけじゃないから。あれはそういうのじゃないから」


 俺は弓月の背中に語りかけたが、言葉は返ってこなかった。


 奏お嬢様は今夜もTシャツの取り立てにやって来た。完全に日課になってしまっている。

 その時も話題になったのは弓月のことだった。


「あの子、どうしちゃったんでしょうね?」


「いや、まあ、大丈夫ですよ。明日には元気になってますって」


 我ながら、いい加減な発言だった。しかし本当のことを奏お嬢様に説明するわけにはいかない。


「そうだといいんですけど……ところで、今日のはかぐわしさが足りない気がするんですけど」


「え? ああ、夕立があったときに少し濡れちゃったからかな?」


「気をつけてくださいね、こういうのは純度が命なんですから」


 ……俺達はいったい何の話をしているんだ?

 慣れって怖いなと思いました。



 翌日、弓月は調子を取り戻し、いつもの有能さを見せた。俺は安心したし、何より嬉しかった。やっぱり弓月はこうでないと。

 エースである新☆柳原の働きも健在で、今日の仕事は何の心配もなさそうだった。


 天候も回復して、今日は夏真っ盛りといった趣を満たしていた。

 客足も好調で、俺達は仕事に追われることになったが、今までのような混乱はなかった。


「柳原君、君に会わせたい人を連れてきたよ」


 閉店後、いったん外出していたマスターが上機嫌で店内に入ってくる。

 

「おーい、凪沙なぎさ、入っておいで」


 マスターの呼びかけで店の入り口に姿を見せた人物に、俺は震撼した。

 その人物が俺達の前に歩み寄ってくる。

 板張りの床がみしりみしりと悲鳴を上げた。


「紹介するよ、娘の凪沙なぎさだ」


 マスターの娘さんは、確かにバインバインの大増量てんこ盛りだった。

 しかし、それはお胸に限ったことではない。首回り、二の腕、ウエスト、ヒップ、太もも体中すべての部位が特盛状態だった。

 体重が百キロを越えると思われる凪沙さんは、俺達の前に立つと、嬉しそうに体をくねらせた。


「やぁーーんっ!華子ちゃん、おひさー」


「やあやあ、凪沙ちゃん、おひさー。相変わらず元気そうだねえ」


 しばらく華ちゃんと旧情を温め合う凪沙さん。

 華ちゃんの手を握って嬉しそうに飛び跳ねたりしているのだが、俺は床が抜けてしまわないかが心配だった。

 そばに来ると、とにかく存在感が凄いのだ。


「パパぁ、真面目で素敵な人ってどの人?この人?」


 凪沙さんにフランクフルトのような指を向けられた俺は、全力でかぶりを振る。

 マスターが新☆柳原の背後に立ち、両肩に手を置いて凪沙さんの前に進み出た。さすがの新☆柳原も反応する事ができずに固まってしまっている。マスターにがっちりと押さえつけられているため、凪沙さんの圧力から逃れることができないようだ。


「この子だよ。柳原君っていうんだ。今日はウチに泊まってもらおうと思うんだが、どうだろう?」


「あらぁ、なかなか可愛い顔した子じゃない。楽しくなりそうね」


 新☆柳原はマスターのワンボックスカーに乗せられて、自宅へと拉致……いや、招待された。

 歓待されているのは間違いない。

 奴のことは何も心配することはないんだと、俺は自分に言い聞かせた。


 その夜、俺は民宿の部屋で頭を抱えていた。

 もうすぐ奏お嬢様のTシャツ刈りが始まる時間なのだ。

 しかし、今日の俺には提供できるお宝の持ち合わせがなかった。


 俺は今日の仕事中に焼きそばのソースでTシャツを汚してしまった。

 そんな姿で帰って来た俺に、民宿のおかみさんが洗濯をすると申し出てくれたのだ。

 俺はその厚意に甘えて、着ていたTシャツを渡してしまった。

 そう、うかつにも渡してしまったのだ。


 そのTシャツはハンガーに掛けられて、部屋の壁にぶら下がっている。

 辺りには洗剤の香りが漂っていた。


「どういうことですか?」


「お怒りはごもっともですが、今日は勘弁していただけないでしょうか?」


 奏お嬢様は部屋に上がり込み、膝を突き合わせる形で俺と向かい合って正座をしていた。

 難しそうな表情で腕を組んでいる。

 一方の俺は両手を膝に置き、背中を丸めてかしこまっていた。


「困るんですよ、こういうのは。完全にやらかしちゃってますよね?やっちゃいましたよね、これ?」


 奏お嬢様が膝を叩くようにして言い募る。

 ……これは、一体どういう状況なんだ?


「アキちゃんはもっとできる子だと思ってましたけどねー。あーあ、失望したなー、お嬢様失望しちゃったなー」


 何なんだ?一人称『お嬢様』って……この人ちょっと楽しくなってきてるな。

 普段は感じない反抗心がわき上がってくる。


「あのう、今は添い寝時間じゃないんで、『アキちゃん』と呼ぶのはルール違反なんじゃ……」


「あーあ、そんな事言っちゃうんだ?今は自分の不手際を怒られているのに、それを棚に上げて相手を批判するんだ?悲しいなあ、お嬢様悲しいなー」


「ぐっ……」


「で?何か代わりはないんですか?」


「はあ、代わり……ですか?」


「昨日借りたのも、もう匂いが残ってないんですよ?今日はどうするんですか?」


「と、言われましても……」


 一つだけ、心当たりがあった。しかし――

 俺は自分の下半身のあたりを見つめた。


「……っ!!」


 俺の意図を理解したのか、奏お嬢様が湯気を立てそうな勢いで顔を真っ赤にした。

 慌てて立ち上がり、俺に背中を向けてしまう。

 正直なところ、俺は少しほっとしていた。

 これを渡してしまったら、人として何か大切なものを失うことになるかもしれない。


「……え?」


 俺は愕然とした。

 奏お嬢様が、俺に背を向けた状態で、手だけを差し出してきたのだ。

 奏お嬢様は髪をアップにしており、真っ赤になった耳やうなじが目に入った。


 俺はブンブンと首を振った。多分、我ながら情けない顔をしているに違いない。

 奏お嬢様はそのままじっと動かなかった。

 目的の品を得られるまで、そこに居座るつもりなのかもしれない。


 俺は覚悟を決めた。

 差し出された奏お嬢様の手に、脱いだばかりのトランクスをそっと置く。


「返しますっ!必ず返すので、セーフ!クロスプレーだけど、ギリギリセーーーフッ!!」


 いいえ、アウトですお嬢様。


 奏お嬢様は受け取ったブツを素早く浴衣の懐にしまい込み、部屋の入り口に立って廊下の様子を窺った。

 俺は無表情でその様子を見守っている。

 奏お嬢様は額に2本の指をかざして、ピッと弾くような素振りを俺に見せると、暗い廊下を駆け抜けて行った。


 翌朝、柳原が俺達の前に姿を見せた。

 民宿の玄関に、打ち捨てられるように倒れていたのだ。

 第一発見者の宮子の叫び声を聞きつけ、俺は玄関に駆けつけた。


 柳原は昨日見た時よりも一回り小さくなっているように見えた。

 全体的に色が薄く、燃えかすのように見えるのは気のせいだろうか。


 一晩の間に、新☆柳原は柳原に戻ってしまっていた。

 うわごとのように「妹の靴下を僕にも分けてください」と言い続けているので間違いはないだろう。

 奴の身に何が起きたのかは分からないが、ひとつだけ確実に言えることがあった。

 俺達は貴重な戦力を失ったのだ。


 俺は柳原を部屋に運び、そっと布団の上に寝かせると、開いたままの瞼を掌でそっと閉じてやった。


 絶対的エースを失った俺達であったが、その日以降の仕事は順調だった。

 奏お嬢様が仕事に慣れて、戦力になってきたことが大きかった。

 その分、俺も本来の仕事ができるわけで、新☆柳原ほどではないが、華ちゃんと弓月の負担を減らすことができた。


 柳原が欠勤していることに対して、マスターは何も言わなかった。

 昨夜の事をそれとなく聞いてみたのだが、目を泳がせて曖昧な返答をするだけだった。

 この件に関しては、深く掘り下げない方がいいのかもしれない。


 そして、楽しくも忙しいバイト旅行は慌ただしく最終日を迎え、俺達は古野浦このうら駅の改札前で、宮子と向き合っていた。

 宮子は家に帰るために、俺達とこの場で別れる予定だった。

 若宮家よりも、この古野浦このうらの方が俺達の実家に近いのだ。

 すでにこの旅行に出る前に、キャサリンさんをはじめ、若宮家の使用人達とは別れの挨拶を済ませてあった。みんなそれぞれの表現で、宮子との別れを惜しんでくれた。


「じゃあ兄さん、しっかりね」


「……みやちゃん、やっぱりもう少しだけウチに泊まっていったらどうですか?」


 奏お嬢様が我慢できなくなったように、宮子を引き留める。

 宮子は明るい笑顔で首を振った。


「ううん、お父さんをいつまでも一人にしておくわけにもいかないから」


「宮子、気をつけて帰るんだぞ」


「うん」


「また手紙書くから」


「うん」


「「「「手紙?」」」」


 俺と並んで宮子を見送る女性陣が一斉に疑問の声を上げた。


「いや、電話してあげたらいいんじゃないの?」


 華ちゃんの意見はもっともなものだった。


「俺、ケータイ持ってないから」


「「はあ!!!?」」


 今度は奏お嬢様と弓月が、完全にシンクロした非難の声を上げる。

 語気が荒くて少し怖かった。

 奏お嬢様が怒ったような顔で俺に詰め寄った。


「どういうことですか?携帯電話も持っていないなんて」


「そういえば、彰人あきとの連絡先を聞いた事がなかったわね」


 弓月が額に手を当てて、呆れたようにつぶやいた。


「いや、だって、ウチは借金を抱えているんですよ? ケータイなんて……」


「帰ったらキャサリンに言って、すぐにでも買って来なさい。使用料金も含めて経費に入れておきます。だいたい、私から緊急の用件があった時にどうするつもりなんですか?これは仕事道具ですよ!?」


 奏お嬢様がいつにない剣幕でまくし立てる。俺はその勢いに押されるように何度も頷いた。そうまで言われては、従うしかなかった。

 奏お嬢様は満足そうな表情を見せると、宮子に向き直って微笑んだ。


「これで、いつでもお兄さんとお話できますね」


「ありがとう、カナちゃん」


 宮子は改めて俺達に向き直り、恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。


「みんな、親切にしてくれてありがとう。……兄さんをよろしく」


 最後の一言は消え入りそうな声だった。そして、宮子は家に帰って行った。

 宮子にとって若宮邸での滞在と、このバイト旅行は夏休みの大切な思い出になっただろうか? 離れて暮らす妹に、少しは妹孝行ができたのだろうか?

 そうであって欲しいと俺は願った。


 翠ケ浜へ戻る電車の中、四人がけのボックス席で、女子達はお互いにもたれかかるようにして眠っていた。

 起きているのは文庫本を読んでいる弓月だけだった。 

 

 通路を挟んだ隣のボックス席には俺と柳原が、荷物に囲まれながら座っていた。

 柳原は相変わらず真っ白に燃え尽きてしまっていて、ピクリとも動かない。

 お前はよく頑張ってくれた。せめて、家までは送らせてもらおう。


 奏お嬢様は肩が出ている薄手のワンピースという姿だった。冷房の効いた車内ではいかにも肌寒そうな格好だ。

 俺はバッグからタオルケットを取り出した。

 それを奏お嬢様の肩に掛けようと身を乗り出したが、弓月がその様子をじっと見ているのに気がついて、思わず手を引っ込めてしまう。


 弓月は苦笑した。


「また文句を言われるとでも思ったの?過保護だって」


「いや、そういうわけじゃ……」


 俺は結局、奏お嬢様の肩にタオルケットを掛けて、自分の席に戻った。

 弓月と俺は通路を挟んで並び合った座席に、共に電車の進行方向を向いて座っていた。


「自分がこんなに面倒くさい女だとは思わなかった」


 弓月が自嘲気味につぶやいた。そういう弓月を見るのは初めてのことだった。

 本当に、いろんな姿を見せてくれるようになったもんだ。


「いえ、そんな女に変わってしまったのかもしれないわね。あなたは何でも変えてしまう人だから」


「え、俺の話?」


「あなたが来てから、私も……奏お嬢様も随分と変わったわ」


「そうなのか?」


「……そうなのよ」


 車両が揺れて、連結器が軋む音が聞こえてくる。何となくできた沈黙は気詰まりを感じるようなものではなかった。

 しかし、おちゃらけた話で壊す事はためらわれる静寂だった。


「私、こういう性格でしょう? 誰かに助けられるなんて我慢できなかった。独りでなんでもできるんだって、ずっと思っていたわ」


「……」


「でも、あなたが奏お嬢様のことを、いつも気にかけているのを見て……何て言ったらいいのか、胸の辺りがモヤモヤとしたのよ。どうしてあの人ばかり大事にされるんだろうって。そんな事を思ったのは初めてだった」


 今夜の弓月は感傷的になっているようだ。彼女らしくない、とりとめのない言葉だった。

 相手の意図も話の着地点もよく分からない会話。ただ、これだけは言っておかなくてはならない。


「俺は弓月のことだって気にかけているし、大切に思ってる」


「ええ。でも、私はそう感じてしまった。奏お嬢様と私と、どうしてこんなに扱いが違うんだろうって」


「それは、弓月が弓月だから。奏お嬢様と比べたって仕方がないことだろ」


「そうね、どうしてこんなにも違うのかしらね、姉妹なのに」


「え、何?」


若宮奏わかみやかなではね、私の……姉さんなのよ。血を分けた実の姉妹」


 弓月の言葉は俺の耳に確かに入ってきていた。

 しかし、その言葉の意味を理解することができなかった。

 俺は驚きの声を発することすらできず、切なそうな表情を浮かべる弓月の横顔を凝視していた。

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