お仕事は大変です。
海の家『凪沙』の店長は口ひげをたくわえた、線の細い男性だった。
華ちゃんのお父さんの兄ということだったが、ガタイのいい実直そうな弟とは違い、飄々とした遊び人といった雰囲気があった。
「やあやあ、華子。しばらく見ないうちに、また美人になったなあ」
店長は親しげに肩に手を置いて、大げさに華ちゃんとの再会を喜んでいる。
華ちゃんはお世辞を軽くあしらいながら、俺達を店長に紹介してくれた。
「こりゃまた、美人さん揃いでありがたいな。大繁盛、間違いなしだよ」
「みんな、気をつけなよ。この伯父さんこの調子で結婚二回も失敗して、この歳まで独身なんだからね」
なかなか家庭には向かない人のようだった。
店長は俺たちと握手を交わしながら、自分のことはマスターと呼んでくれとフレンドリーに言った。
「華子の紹介だから心配はしてないけど、対価の発生するお仕事だからね。しっかりと頼むよ」
いい加減そうに見えても、当然のことながら経営者としての顔も覗かせる。
その言葉に過剰に反応する男がいた。
「お任せください、マスター。僕は身を粉にして働いて、古野浦の砂になるつもりで来ています。労働とはかくあるべきという見本を後世に示してやりますよ!」
新☆柳原はやる気に満ちあふれた張りのある声で宣言した。
こいつは今のままの方が社会にとっては有用だと思う。
さすがのマスターもその圧力に押され気味になっていた。
俺達は手始めに、『凪沙』の店内を掃除することになった。
俺は普段からキャサリンさんにも弓月にも、掃除の仕方はばっちり仕込まれている。
慣れない奏お嬢様をフォローしながら作業を進めた。
さらに、掃除をするついでに店内の備品や、その使い勝手などをチェックする。
海の家『凪沙』は何の仕切りも無い平屋の空間に、十人くらいが座れるテーブルが三つ置いてあるシンプルな店内と、四人掛けのテーブルが三つ置いてあるテラス席があるだけの、効率を重視したお店だった。
まあ、海の家なんてゆっくりとくつろぐような空間ではないから、これで機能するのだろう。
調理場だけは新しく改装されているらしく、床や流し台がとても綺麗だった。
俺達は話し合って大まかな役割分担を決めた。
フロアでの接客は弓月と華ちゃん、調理場のサポートが宮子と諏訪部さん、フロアのサポートと力仕事が俺と新☆柳原という分担が割とすんなりと決まった。
しかし、一人だけ大いに不満そうな人物がいた。
「どうして私には役割が与えられていないんですかね?」
奏お嬢様の抗議に、俺達は一斉にサッとあらぬ方向を見る。
ここで空気が全く読めない男が真顔で応じた。
「若宮さんは世間知らずだし、ドジッ娘属性が強すぎるからね。このボロい海の家ごと破壊する可能性があるよね」
新☆柳原になっても、コメントに配慮が足りないところは変わっていなかった。
しかも全く悪気がなさそうなのに、自分の職場まで同時に貶すとは、恐ろしい男だ。
こいつの無自覚に敵を増やす能力は決して見習ってはいけない。
結局、奏お嬢様は人手が足りないところをサポートするという話でまとまった。
「それじゃ、開店しましょう。みんなよろしくねー」
マスターの軽い宣言とともに海の家『凪沙』は開店した。
お店の出入り口とテラスへの出入り口の扉を開け放ち、開放的な空間を作り上げる。
開店と同時に飲み物やアイスクリームを求める客が、ちらほらと店内に姿を見せた。
俺達は客に対応しながら、華ちゃんからレジ打ちの手ほどきを受けていた。
「え、と…これでいいんですか?」
「そうそう、若宮ちゃん、なかなか筋がいいよー」
天気予報では今日も快晴で、相変わらずの暑さになるとのこと。
忙しくなりそうだった。
お昼近くになってくると、店内の雰囲気が一変した。
軽食を求める客がどっと増えてきたのだ。
店内の席は瞬く間に埋まり、オーダーを求める声で溢れた。
忙しくなってくると、奏お嬢様の仕事ぶりが危うくなってきた。
一つの作業のみに専念して、それをこなす分には問題はなかった。
しかし、二つ以上の作業を平行して行うとき、失敗してしまったり、全体的な能率が悪くなってしまうのだ。
こういう現場での判断力は、本人の能力よりも慣れとか経験といった要素が重要なのだろう。
俺は奏お嬢様のそばで、そのフォローに追われることになった。
いくら華ちゃんと弓月が手練れであっても、フロアを二人でさばくのは難しくなってきているようだ。
少しまずい状況だと思い始めたとき、あの男が覚醒した。
新☆柳原の八面六臂の大活躍が俺達の窮地を救った。
高速でレジを打っているのを目撃した次の瞬間には料理の皿を運んでいる、そんな状態だった。
後に、海の家『凪沙』では忍者が働いているという噂が流れたほどだ。
とにかく、今日ばかりは奴の働きに感謝しなくてはならない。
閉店した店内で、俺達は疲労困憊でテーブルに突っ伏していた。
新☆柳原だけがもの凄い勢いで店内を掃除している。無尽蔵の活力だった。
結局俺達は、ピーク時には休憩を取ることもできずに働き続けた。
客が少なくなってきた頃合いを見計らって、交代で三十分ほどの昼食休憩をとるのがやっとだったのだ。
まさに戦場をくぐり抜けてきたかのような有様だった。
「柳原君は本当に凄いなあ。長い間この仕事をやってるけど、ここまで出来るバイトの子は見たことがないよ」
マスターは新☆柳原に感心しきっている。
調理場を一人で回しているマスターが一番負担が大きいはずなのだが、さすがに慣れているだけあって余力があった。
宮子や諏訪部さんは、食材の皮むきや洗い物といった仕事では十分な戦力になっているのだが、客に出す料理を作るまでのことはできないのだ。
結果としてテイクアウトの客を長時間待たせることになってしまった。
奏お嬢様がフラフラとした足取りで席を外した。
慣れない仕事で相当消耗しているようだった。
すると、それを待っていたかのように、弓月が俺に意見した。
「彰人、あなた奏お嬢様に気を取られすぎなんじゃないかしら?」
「いや、そうは言っても、放っておくわけにはいかないだろ?」
痛いところを突かれて、少し語気が荒くなってしまったかもしれない。
自分が奏お嬢様のフォローに奔走しすぎて、本来の仕事ができていないという自覚はあった。
俺がフロアのサポートに回れば、弓月か華ちゃんが調理を手伝うこともできるのだ。
弓月の料理の腕なら調理場でも大きな戦力になるだろう。
「だからといって、ナンパを断るのまで、あなたが出張る必要はないでしょう?」
「でもさ、奏お嬢様なんだぞ?お前なら自分で何とでもできるだろうけど、奏お嬢様は…」
「過保護すぎるのよ。今のあなたは若宮家の執事として働いているんじゃないのよ?」
どういうわけか、弓月は常にないほど感情的になっているように見える。
さらに言い返そうとした俺を華ちゃんの声がやんわりと遮った。
「ちょっとちょっと、二人とも冷静になろうよ」
「……」
「平時はともかく、ピーク時については少しやり方を変えないとね。このままヤナギンに頼りっぱなしってわけにもいかないしさ」
俺達はそっと新☆柳原の様子を窺う。
新☆柳原は調理場で換気扇をバラバラに分解して丁寧に掃除しているところだった。
俺達は額を付き合わせるようにして声を潜めた。
「柳原、何があったのかしら?」
「いやー、助かるっちゃ助かるんだけどねえ」
「あの人、気持ち悪い」
俺には何も答える事ができなかった。何かがあったのは分かっている。しかし、何があったのかまでは分からないのだ。
諏訪部さんはニコニコと微笑んでいるだけだった。
「いやあ、柳原君は見所がある若者だなあ。ウチにも同じ歳の娘がいるんだけどね、今度会ってみるかい?柳原くんになら安心して任せられそうだ」
マスターはすっかり新☆柳原の事が気に入ってしまったらしく、とんでもない事を言い出している。
後で後悔しなければいいのだが。
奏お嬢様が席に戻り、新☆柳原も気が済んだのか作業を終えたので、みんなで簡単に夕食を済ませることにした。
弓月が調理場を借りて作ってくれた焼きそばやゴーヤチャンプルなどがテーブルに並んだ。
奏お嬢様は今日の自分の仕事ぶりに落ち込んでいるようだった。
心配そうに奏お嬢様の様子を見ていた宮子が慰める。
「元気出して、カナちゃん。大丈夫だから」
「何が大丈夫なんですかね?」
「え、と…あのね、カナちゃんは可愛いからっ。こっ、こんなに可愛いんだから大丈夫。マスコット役として十分に役立ってるよ」
「……」
妹よ、それは慰めになっているのか?
当然ながら奏お嬢様の気分は晴れないようだった。
俺が取り皿に分けて渡した弓月の料理を見ながら、ため息をつく。
「どうして私、こんなに奈緒と違うんでしょうね」
「奏お嬢様は奏お嬢様ですから」
「奈緒はいつもあなたと対等で、頼りにされているのに私は迷惑をかけてばかり」
寂しそうにつぶやく奏お嬢様にかける言葉が見つからない。
今は何を言っても落ち込む材料になってしまうだろう。
仕事に慣れてくれば、自然と自信がつくはずだった。それを待つ以外はないのかもしれない。
「あれ?これって…」
宮子が炭酸飲料の瓶を手にして戸惑っている。栓抜きが必要な王冠型の蓋がついた瓶だったのだ。
金属製の蓋がガッチリとはまっていて、手で開けることは当然できない。
宮子が戸惑うのも無理はなかった。栓抜きを見た事があるかどうかも怪しい。
「今時、こんなのが残ってるんだな」
俺は苦笑しながら栓抜きを探した。瓶から目を離したのはほんの数秒だったと思う。
隣から飲み物をコップに注ぐ音が聞こえてきた。
――――何?
「会沢君も飲みますか?」
瓶を俺の方に向けて捧げ持ちながら、諏訪部さんが穏やかに訊ねてくる。
五本あった瓶の蓋は全て開いていて、くの字に歪んだ金属製の蓋が諏訪部さんの手元に転がっていた。
新☆柳原が顔を真っ青にしてガタガタと震えている。
……お前は一体、何を見た?
「え、いつの間に?」
宮子が戸惑いながら蓋が開いた瓶を受け取り、小首を傾げる。
俺は勧められるがままに諏訪部さんにコップを差し出し、飲み物を注いでもらった。
コップと瓶が小刻みにぶつかってカチャカチャと音を立てた。
全く疲れなど見せなかった新☆柳原だったが、今夜もきっちりと午後九時に布団の中に入った。
すると、昨晩の再現のように奏お嬢様が俺達の部屋にやって来た。
意味のない世間話をしながら、チラチラと俺の様子を窺っている。今日の分のTシャツを貸し出せとのことなんだろうな、これは。
俺は昨晩の過ちを繰り返さないように、今日一日着ていたTシャツを奏お嬢様に手渡した。
その際、昨晩渡した俺のTシャツが返却されたのだが、完全に奏お嬢様の匂いが移ってしまっていた。
どうやって使ってたんだろう、これ?
「奏お嬢様、その…仕事はすぐに慣れると思います。俺も可能な限りフォローしますから」
「ちゃんと自分の仕事をしてください。また奈緒に怒られますよ」
「聞いてたんですか?」
「あなたは…優しすぎるから」
何かをこらえきれなくなったように、奏お嬢様が俺に近づき、そっと体に手を回した。
そのまま、俺の鎖骨のあたりに鼻先をこすりつけるように身じろぎする。
浴衣越しに奏お嬢様の体温を感じることができた。
「……あまり優しくしないでください。つい甘えてしまいます」
突然の事に俺は息を呑んだ。
毎日のように寝ぼけた奏お嬢様に抱きつかれているのだが、このような状況では初めてのことだった。
俺はどうしたらいいのか分からなくなり、自分の手をさまよわせた挙げ句、中途半端な位置でホールドアップの体勢になる。
いつからそこにいたのだろうか?廊下の暗がりの中にいる弓月と目が合った。
弓月はただ呆然と立ち尽くしていた。
実際に目を合わせていた時間は短かったのだろうが、無表情のままこちらに背を向けるまでが、ずいぶん長く感じられた。
奏お嬢様は弓月に気づくことなく、しばらくそのままじっとしていたが、何かを吹っ切るようにしてパッと俺から離れた。
「元気がもらえました。これで明日は頑張れます」
奏お嬢様は、はにかんだように笑い、俺のTシャツを抱きしめながら自分の部屋へと戻って行った。
その姿を見送りながら、俺は明らかに動揺している自分に気がついた。
俺は何に動揺しているのだろう?
奏お嬢様に抱きつかれた事なのか、弓月にそれを見られた事なのか?
自分自身への問いかけに答えは出せなかった。