遠い日の思い出です。
両手の中指の先がくっつくようにして、俺の目の前の床に置かれていた。
肘の角度はぴったりと90度。背中と床はきっちりと平行になっている。
深々と頭を下げることによって、俺の額は床につく寸前だった。
弓月はベッドに腰を下ろしながら、どんな顔で俺を見ているのだろうか。
俺の目の前で彼女の組まれた足が揺れている。爪の形がとても綺麗だった。
俺は弓月の私室にやって来て、床にへばりついていた。
どこに出しても恥ずかしくない見事な土下座だった。
「面倒だとは思いますが、何とかお願いできないでしょうか?」
俺は宮子を弓月の部屋に泊めてもらえないか頼んでいたのだ。
もちろん若宮邸には宮子を泊めるための部屋などいくらでもある。
しかし、ひとつの懸念があって、そうするわけにはいかなかったのだ。
宮子が夜中に俺の部屋を訪ねてくる可能性だ。
夜中に部屋にいない俺を不審に思って理由を問いつめたり、下手をすると探しまわってしまうかもしれない。
俺は毎晩仕事として奏お嬢様の部屋に泊まっている。あくまで仕事としてだ、うん。
とはいえ難しい年頃の宮子に、このことは知らせたくはなかった。
兄としての立場というものがあった。
そこで宮子の面倒を見ることもかねて、弓月の部屋で預かってもらえないかとお願いしているのだった。
「いいわよ」
弓月は思いのほかあっさりと、しかも何故か少し嬉しそうに承知してくれた。
顔を上げると、しゃがみ込んだ弓月が勝ち誇ったような顔をして俺の顔を覗き込んでくる。
「あなたも自分がしてる仕事が変だと思ってるってことでしょう?妹さんに堂々と話すことができないくらいには。少し安心したわ」
「いや、まあな…」
「それとなくフォローはしておいてあげるわ。だからそんな格好しなくてもいいわよ、こっちが落ち着かないから」
弓月は上機嫌だった。
何となく敗北感を感じてしまう。
「それにしても、あなたは気づかなかったの?奏お嬢様のこと」
「面目ない話だが、全然気づかなかった」
結論から言うと、俺と奏お嬢様は幼なじみだった。
近所で暮らしていたという訳ではないが、夏休みの間などに俺の爺さんの別荘に、奏お嬢様が遊びに来ていたらしいのだ。
まだ爺さんが生きていたころの話だ。
俺の爺さんと奏お嬢様のお爺さんは若い頃からの友人で、両家は祖父の代までは交流があったのだ。
「でも、奏お嬢様は今と全く印象が違っててさ、宮子が憶えていたことの方が不思議だよ」
俺が別荘で一緒に遊んでいた子は色黒でガリガリに痩せていて、男の子だか女の子だかもよく分からなかった。
俺はその子のことを『カナ』と呼んで連れ回していたのだ。
俺としてはカナを楽しませて、一緒に楽しく遊んでいるつもりだった。
しかし、今になって思い返してみると、冷や汗が出てしまうような思い出も多い。
カナが大切にしていた熊のぬいぐるみがあった。
自分の背丈ほどもありそうな大きなぬいぐるみだ。
俺はそのぬいぐるみの綿を抜き出し、その中に潜んで夜を待った。
そして、カナが寝ようとして部屋の電気を消すのを見計らって、暗闇の中で踊りだしたのだ。
俺のイメージとしては魔法がかかって動き出した『可愛いお友達』といった、ポップでキュートなものだった。
しかし、カナが見た現実は暗闇の中で蠢く得体の知れない化け物という姿だったのだろう。
確かに、俺のダンスも良くなかった。
見ようによってはガクガクと震えているだけに見えたのかもしれない。
あくまで見ようによってはだが。
おまけにカナの前に立ったときに首の部分がちぎれて、頭が胸の前にぶら下がってしまった。
うん、完全にホラーだな。
カナは聞いた事がないような叫び声を上げて失神してしまった。
当時はそういうことでカナが喜ぶと勘違いしていたのだろう。
まあ、子供の頃によくある可愛らしい思い出だ。
「……あなた、その頃から頭がおかしかったのね」
「とにかく、何だか複雑な心境だよ。奏お嬢様がカナだったなんて突然言われても」
「それは、やりにくいでしょうね。その子と毎晩添い寝してるんだものね」
弓月はジトっとした目つきで俺を見ている。
話が良くない方向に向かっている。俺は改めて弓月に宮子の件をお願いして、部屋を後にした。
夕食後のリビングルームでは宮子が持参したお土産がテーブルの上に広げられていた。
水羊羹の詰め合わせだった。持って来ていた紙袋の中身はこれだったようだ。
相変わらずしっかりした妹だった。
「時々兄さんと話が噛み合ないからおかしいと思ってたけど」
「最初に会った時も全く気づいてもらえませんでした」
「鈍すぎ」
「本当ですよね」
先程からこうして二人でチクチクと俺を攻撃するのだ。
奏お嬢様も人が悪い、そういうことなら最初から言ってくれたらいいのに。
「あなたが『カナ』に自分で気づかない限り、黙っているつもりでした。でも、みやちゃんが来るなら隠しておくのも不可能ですからね」
「……」
「本当なら思い出すまで、もっと、もーーっと素っ気なくするつもりだったんですけど…」
「けど?」
「……何でもありませんっ」
「いや、でも普通気がつきませんよ。奏お嬢様は綺麗になってましたし…」
「ほわぁっ!!?き…きき、綺麗っ!?」
「昔は凄く汚いガキだったじゃないですか?よく鼻水を垂らしてましたし」
「……ちょっと、そこに座ってください。何ですか、その座り方は?正座っ、正座です!」
お風呂に入るために奏お嬢様が席を外した隙を見て、俺は宮子を連れて弓月の私室を訪れた。
宿泊する部屋についての説明をしておかなければならない。
「宮子、ここにいる間は、この部屋に泊まらせてもらうんだ。いいな?」
「んー?兄さんの部屋は?」
「うーん、俺の部屋はたまにゴブリンが出るから」
「宮子ちゃん。私と一緒の部屋は嫌かもしれないけれど、我慢してくれるかしら?」
「ヤ、じゃないです…」
宮子がフルフルと首を振りながら慌てて否定した。
弓月の前だと、やたらと素直に見える。
「ご迷惑じゃ…ないですか?」
「ううん、お兄さんがこっちでどんな様子だか、じっくり教えてあげるわ」
弓月が俺を見ながら悪戯っぽく笑う。
こ、こいつ…いったい何を言うつもりだ?
あれか?今日土下座したときに、弓月の下着が見えちゃってたのを黙ってガン見していたこととか?
どうやら宮子を弓月に預けることは、何の心配もいらないようだ。
宮子はどうも弓月に一目置いているような節がある。
確かに弓月は、とても頼りになる素敵な女の子だ。
宮子が目指す理想の女性像なのかも知れない。
「宮子ちゃん、一緒にお風呂入りましょうか?」
「はい…お姉様」
宮子が頬を赤らめ、モジモジしながら答えた。
え、何これ?ウチの妹が弓月に攻略されちゃったの?
早すぎるでしょ、もしかしてチョロインだった?
若宮邸の二階、西側の廊下の一番奥にその部屋はある。
両開きの大きな扉の前で、俺は逡巡しながら意味もなく歩き回っていた。
いつものように奏お嬢様の寝室に入ることが躊躇われた。
大恩人の奏お嬢様の寝室に仕事として入ることと、成長した幼なじみのカナと一緒に寝るということが結びつかなかった。
要するに恥ずかしくなってしまったのだ。
扉がそっと開き、奏お嬢様が廊下に顔をのぞかせた。
「どうしたんですか?こんなところで」
「あ、いや…」
「早く寝ましょう?」
いつもなら何となく聞き流せる言葉も、今日は少し違った響きで聞こえてしまう。
奏お嬢様の認識では、俺は最初から幼なじみの会沢彰人なのだ。
いつもと変わらないのも当然だ。
ベッドに横になると自分が緊張しているのに気づかされた。
いつもより汗をかいている。その臭いを奏お嬢様が不快に感じないだろうかと気になった。
こころなしか、奏お嬢様との距離がいつもよりも近いような気がする。
甘い息づかいすら聞こえてくるような気がする。
熱でもあるように上気した頬。大きな瞳が潤んでいるように見える。
「……ねぇ、アキちゃん」
「え?」
昔、カナが俺をそう呼んでいた。
初めて、奏お嬢様とカナがひとつに重なって見えた。
「これから寝るときだけは、そう呼んでもいいですか?」
「うーん、いいですよ。でも人前では今まで通り『会沢』でお願いします」
「……」
「示しというものがありますから」
「……はぁい」
不承不承ではあったが、奏お嬢様は納得してくれた。
そういうことにしておかないと、俺の方もうっかり奏お嬢様に馴れ馴れしい態度をとってしまいそうだ。
そうなると仕事にも差し障りがある。
今日はいろんなことがあった。
体は疲れているのだが、緊張と複雑な思いからか寝付きが悪い。
おまけにお嬢様ホールドの決まり具合も絶好調だ。
痩せっぽっちのカナがなぁ…成長したもんだ。
体のいろんな部分に柔らかさを感じながら、俺は感慨深く思った。
それから数日間は何事もなく、平穏な日々が続いた。
宮子はキャサリンさんや三好さん、三連星にすっかり気に入られて、仕事の休憩時間などには引っ張りだこだった。
お菓子を貰ったり、話し相手をしてもらったりと、とても良くしてもらっている。
さすがは俺の妹、天性の愛され体質だった。
ただ、気になったのは弓月に懐きすぎていることだった。
仕事をしている弓月の後を追って、お姉様、お姉様とべったりなのだ。
弓月の方も慕ってくれる妹分ができて、まんざらでもない様子だ。
妹よ、本当にあっちの世界に行ってしまったのか?
事態が急変したのは、宮子が若宮邸にやって来て4日目の朝だった。
朝、目を覚まして寝室を出るときに、寝ぼけた奏お嬢様が俺の後について来てしまったのだ。
俺と奏お嬢様は並んで階段を下り、踊り場まで来たところで玄関ホールに誰かがいる事に気がついた。
宮子が不思議そうに俺達を見ていた。
「兄さん?」
「あー、みやちゃん、おはようございます」
お嬢様がぽわっとした声音で挨拶をする。
「兄さんの部屋、2階じゃなかったはず。こんな朝早くにどうしたの?」
俺が寝起きの脳をフル稼働させて言い訳を思いつく前に、寝ぼけた奏お嬢様が当たり前のことのように言った。
「アキちゃんはいつも私の部屋で寝てるんです、一緒に」
この一言で、俺と弓月の盟約は水泡に帰したのだった。
若宮邸のリビングルームで、俺は正座を強いられていた。
俺の目の前には妹の宮子。奏お嬢様が不安そうな様子でオロオロしている。
弓月は困ったように一同を見回しながら、事態を治めようと意見する。
「こうなったら仕方ないんじゃないかしら?いい機会だからハッキリさせた方がいいわ」
宮子がテーブルを拳で2回叩いて、厳かに宣言する。
「これから兄さんのエロ裁判を行います。被告人は前へ」
……何か始まった。
弓月さん、いつもの冷静な突っ込みはどうしたんですか?
凄くやる気に見えるんですけど?
仕方なく、俺は膝で床をこすりながら少し前へ進み出た。
裁判官が宮子、検察側として俺の罪状を問いただしてくるのは弓月、そして俺を助ける弁護士が奏お嬢様という役回りだ。
完全敗訴を予感させる布陣だった。
弓月が落ち着いた声で、俺に質問を投げかける。
「あなたは毎晩、奏お嬢様と添い寝をしている。それは認めますね?」
「……はい」
「そういう仕事をしていることに、あなたは後ろめたさがある。違いますか?」
「いっ、異議ありっ!これは検察の誘導尋問です」
「弁護人の異議を却下します。検察はどんどん誘導尋問しちゃってください」
「……」
やばい、完全に裁判官と検察が結託している。これは大問題ですよ?
予想通りろくな弁護もできないまま、奏お嬢様は逃げるようにお仕事にでかけてしまった。
この状況で一人残されるのは厳しいものがある。
「何をやっとるんじゃ、お前ら?」
リビングルームに入って来たキャサリンさんは、床に正座している俺を見て、呆れたように言った。
弓月から事情を聞いたキャサリンさんは、何かを考え込んでいる様子だった。
宮子は少し寂しそうに笑う。
「わたしだって分かってる。兄さんはここで働かせてもらうのが一番いいんだって。ちょっとカナちゃんに意地悪したくなっただけ」
「宮子…」
弓月が慰めるように、そっと宮子を抱き寄せた。
まるで本当の姉妹のようだった。
妹をずっとほったらかしにして、している仕事があれだからな。
俺の方も少し気がとがめる部分がある。
「そうじゃのう、奏お嬢様からは話しにくい事もあるじゃろうし、ワシから説明しようかの」
キャサリンさんは奏お嬢様の現状を語った。
若宮グループで不採算事業や不採算部門の縮小や売却が長い間検討されていること。
ほとんどの実務は会長代行である奏お嬢様の叔父が引き受けているが、社員の削減や再就職に関わる話し合いには、奏お嬢様が自分の意志で必ず同席するようにしていること。
そして、そのような場では、恨みつらみを聞かされたり、非情な決断を下さなければならなかったり、とても心労が重なっていること。
「奏お嬢様も頑固なところがあっての。無理にそういう場に出ることはないと言っておるのじゃが、会長としての責任だからと話を聞かん。それでも小憎が来てからは、ずいぶん会長代行に仕事を任せるようになって、負担は減ってきたのじゃが」
キャサリンさんは俺の方を見てニヤリと笑った。
「人に甘えるということを覚えたのかもしれんの」
あの細い肩で、ずいぶんと重い物を背負っている。
俺は会社が倒産する直前の親父が悩んでいる姿を思い出していた。
親父の会社ほど危機的な状況ではないのだろうが、それでも若い奏お嬢様には大変な重圧なのだろうと想像できる。
キャサリンさんの話は続く。
そんな忙しさとストレスで、奏お嬢様は重度の睡眠障害になってしまった。
もともと寝付きがいい方ではなかったが、どんなに疲れていても眠れない状態が続いたのだ。
しばらくは睡眠薬でごまかしながら仕事を続けていたが、乱用で効果が薄くなってきた。
そして医者から服用を控えるよう命じられたのだ。
「そんなときに、お前の家の苦境を知ったのじゃ。お嬢様はどうしても援助がしたいと言ってのう…」
「……」
「お嬢様がワシにお前との思い出を語ったのじゃ」
「思い出?」
「森で迷子になった時の話じゃ」
そのことはよく憶えている。カナとの思い出の中でも特に印象深いエピソードだった。
俺達は爺さんの別荘近くの森で遊んでいたのだが、カナが狸を追って森の奥に入ってしまったのだ。
俺は慌ててカナを追ったが、森の茂みは深く、その姿を見失ってしまった。
そのまま俺は必死に森の中を探して、奇跡的に泣いているカナを見つける事ができた。
しかし俺達は帰り道を完全に見失っていた。
そのまま森の中で一晩過ごす事になってしまったのだ。
「普段はガサツで自分をいじめていた男の子が、その時だけは文句のひとつも言わずに守ってくれた。ずっと自分を励まして、手を握っていてくれた、とな」
そんなこと、しましたっけ?俺っていい奴なんだなー。
まあ、子供の頃の思い出だからな。結構美化されてると思った方がいいだろう。
でも、いじめてたってどういう事なんだろう?
ちゃんと構って、面倒を見てあげてたつもりだが。
俺達が遭難していた場所は、実際は別荘のすぐそばで、翌日には捜索に来てくれた大人達に救助された。
その後はみんなに叱られて大変だったが、大人達はもっと大変だっただろう。
「暗い森の中で不安と恐怖で押しつぶされそうになりながら夜を迎えた。じゃが、その男の子がそばで手を握っていてくれたら、安心して眠ってしまって、気がついたら朝だったそうじゃ」
「……まさか」
「その話を聞いての、ワシがお前を呼んで添い寝させてみたらどうかと、お嬢様に提案したのじゃ」
「わりと突飛なアイデアだったんですね」
「効果は覿面じゃったろうが」
確かに俺の前では奏お嬢様はとても寝付きが良かった。睡眠障害などとは想像すらできない。
「奏お嬢様が不眠症なのは知っていたけど、そこまで酷いなんて気づかなかったわ」
思い当たる節があるのか、弓月が何かを考え込みながらつぶやいた。
「いわゆる苦肉の策というやつじゃの。ワシとしても労働力として男手は欲しかったから、ものの試しに使ってみたのじゃ」
奏お嬢様の希望…俺の家庭の援助をすることと、キャサリンさんのアイデアがひとつの方向性で結びついたのだ。
それで俺の今の境遇があるのなら、その思いつきには感謝しなくてはならない。
実際、それで俺の大恩人が救われているのだ。
おかしなことではあるが、俺は抱き枕である事を誇りに思った。
「俺、日本一の…いや、世界一の抱き枕になります」
「……ま、まぁ、意気込みだけは買っておこうかの」
話を聞いていた弓月は、困ったように宮子の顔を覗き込んだ。
「だそうだけど、どうしましょうか?」
「お姉様、兄さんがカナちゃんに変な事しないか見張っててくれますか?」
顔を見合わせて笑う二人。
弓月とはここ数日間の付き合いのはずなのに、この信用度の違いは何なんだろうか?
宮子にとってお兄ちゃんとの十数年の年月って一体…。